※この記事は2019年06月05日にBLOGOSで公開されたものです

聞いてもいないのに、自分のことを延々と話し続ける人、老若男女問わず、いますよね。私は昔から、そういうのがなんだかとても恥ずかしいことだと思っていたんです。

まず、自分を理解してほしいという自己中心的な考え方を隠さないところとか、相手はこの話しに興味があるのだろうかと気にかけもしないところ、大人のコミュニケーションとして全くスマートじゃないものに見えて、むずむずしてしまうんです。でも同時にそう思うのは、私の中にも確実にその手の欲望が潜んでいるからだということもわかっていて、だからコラムを書く仕事なんかをしているわけです。

私の話を聞いてほしい、私を理解してほしい、私を掘り進めてほしい。書くようになった原動力には当然この手の欲望があって、でもこれを全開にしている限り良い記事にはならないので、さもそんなものはないかのように見せる。そして私はそれが大人のマナーだと思っているんです。

誰もが持つ“自分の話を聞いて”欲

そんな私が、正直に言うともう何年間も、とても、とても苦手だったのが、子どもの学校の保護者会で行われる、“保護者の皆さんから一言”のコーナーです。

「私ばかり話すのもなんなので、ここで保護者のみなさんから一言ずついただきたいと思います」

と、事務連絡のあとに先生が告げると、保護者のみなさんからは決まって「ええ~っ」と反発の声が上がります。この一言コーナー、基本的には保護者から恐れられており、自分の順番が回ってきた人は一様に、「どうしよう、話すのは苦手で」などと言いながら最初は渋々口を開くわけです……が。ここからが意外な展開で、ほとんどの人が、話し出すと止まらないんです。

ご自身のこと、お子さんのこと、ご家族のこと。「時間が限られていますので手短にお願いします」という事前アナウンスがあったとしても、一人で5分近く話す人もいます。

若者に人気のアプリ『TikTok』では、美女によるダンスコンテンツがよく投稿されているんですが、「踊っている私、可愛いでしょ」というメインメッセージが露骨に伝わらないように、多くの美女が動画の冒頭で決まって“え、踊るの? 私が? どうしよう……もうっ、仕方ないから踊るね”というやむを得なさの演出をクッションにする慣習があります。

私は、抵抗、困惑からはじまる保護者による一言コーナーでも、これに近いものを感じます。保護者はその場に20人、30人といるわけで、その場で子どもが何時に寝るとか、親子でどんな会話をするとか、そういう話にどんな価値があるのか。聴衆は果たして本当にそれを求めているのか。

私にはどうも求められてはいないように感じられるのです。ここで求められているのは、どの人がどの子の親か、その認識が一致する程度の情報で、それ以上については“必要だから話す”のではなく、“話したいから話す”なのではなか。20人、30人の、“自分の話を聞いてほしい”という欲望、……私自身が日頃、極力ひた隠しにしている欲望を、まざまざと突きつけられているような気がして、保護者の一言コーナーが苦手で苦手で、仕方なかったのです。

ところが、娘が昨年入学した中学校の保護者会に参加するようになって、この考えが大きく変わることになりました。

「話す」事で気づいた他人のあたたかさ

娘は、キリスト教系の中高一貫の私学に入学したんですが、ここではこれまで以上に「保護者からの一言」が頻出します。初回は入学式初日。中等科、高等科の新入生の保護者約60名は、式後、別室に集められ、60名で順番に「一言」をやりました。二回目はクラス別の保護者会で。さらに私は昨年度、見事に当選してPTA役員を仰せつかっていたんですが、PTA役員会でもやっぱり「一言」はありました。

当然、最初の方は苦痛に次ぐ苦痛だったんですが、事情が変わってきたのは昨年の秋頃からでした。入学直後の環境の変化で、娘が不登校になってしまったのです。娘は学校に行かない、しかし私はPTA役員なので月に1,2回は欠かさず学校に行く、というような状況の中で、例によって「保護者からの一言」があり、娘が学校に通えていないことなどを話しました。するとそれ以降、上級生の親御さん方が、本当に親身になってくれたんです。「大丈夫だよ、また通えるようになるから」と声をかけてくださったり、「最近、娘さんはどう?」と顔を合わせるたびに気にかけてくださったり。当時は私も本当に悩んでいたので、気にかけてもらえることに救われ、励まされ、あまりにありがたくて隠れて泣きました。

娘の不登校の時期のことはまた別にちゃんと書こうと思いますが、幸いにも娘は2年生に進級した途端、別人のように元気になり、また学校に通えるようになりました。進級後に行われた、任期最後のPTA役員会。お決まりの「保護者から一言」コーナーで私は、まずはそのことを話して、それから、娘が囲碁という新たな趣味を見つけたこと、学校に囲碁部を作りたいと頑張っていることを話しました。

すると役員会終了後、ひとりのお父さんが私のもとにやって来て「うちに余っている碁盤があるので、よかったら囲碁部に寄付しますよ」と言ってくださったのです。後日、娘は本当にその方の娘さんから碁盤を譲り受け、またその際「よかったら囲碁を教えてあげようか」と言ってもらったと、とても感激して帰ってきました。

私は完全に他人事として聞いていた「保護者からの一言」を、他人事とは思わずに聞いてくれた人たちによって、思いがけず、私も、娘も、とてもあたたかい気持ちになりました。またこういった出来事の積み重ねによって、私達親子にとって、新しい学校が緊張の場所から、理解者のいる場所、安心していられる場所に変わっていったのです。

一つのコミュニティに身を置く者同士が、可能な限り時間をかけて、私的な情報を開示する。そうすることで、より深く寄り添い、支え合えるようになる。改めて思えば当然のことですが、話を聞いてもらうこと、話を聞くことには、とても大きな意味があるのです。私達はなにぶん日々忙しいので、ついゆっくり誰かの話を聞くということをなおざりにしてしまいがちですが、ふとしたとき、私達を苦しめる寂しさや孤独といったものの芽は、案外こういうところに潜んでいるのかもしれません。

そんなわけで私は、「保護者から一言」を苦行だと感じていた過去の自分を、猛烈に反省したのでした。