※この記事は2019年06月05日にBLOGOSで公開されたものです

将棋の羽生善治九段が、歴代単独最多となる「公式戦通算1434勝」の新記録を達成しました。1985年12月18日にプロデビューしてから33年と6か月弱で稼いだ1434つの勝ち星。平均すると「年間40勝ペース」で勝ち続けたことになります。

「年間40勝」というのはどれほどすごいのか

将棋界において、“一流棋士の条件”として挙げられる数字があります。それは「30」。年間30勝というのが、“一流棋士、今勢いのある棋士”のひとつの基準となっています。実際、「年間30勝できる棋士」の数は限られます。ここ5年の「年間30勝以上」の人数は以下の通り。

2014年…9人
2015年…12人
2016年…12人
2017年…18人
2018年…16人

140人ほどいるプロ棋士の中で、年間30勝できる棋士は1割ほどということが見てとれます。そこに「10勝上乗せ」したペースで、30年以上に渡り勝ち続けた羽生九段の凄まじさを見て取ることができると思います。

「勝率7割」というのはどれほどすごいのか

勝率にも“一流棋士の条件”と呼ばれるための数字があります。それは「6割」。10年、20年と指し続ける中で、通算勝率が「6割」を越えている棋士は、“若手の時期を経て、中堅棋士となってからも、時代の変化に対応しながら衰えることなく勝ち続けている“と評価されます。そこへきて、羽生九段の現在の通算勝率はいくつなのか?なんと、驚異の「7割8厘」!1割増しなのです。

ここ数年の羽生九段の成績は?

1985年12月にプロデビューした羽生九段が、すべての棋戦に参加しはじめたのは1986年度から。その86年から2018年に至るまでの間に、羽生九段が「年間30勝」を逃したのは3度だけ。1度目は「七冠王」になった1996年。この年は「テレビ対局や一般棋戦をのぞく対局がすべてタイトル戦」というハードモード。タイトル戦の予選がない分、対局数は減り、相手は“予選を勝ち抜いてきた挑戦者ばかり”という状態が続く1年でした。この年の成績は26勝17敗 勝率.604。“ノッている挑戦者”ばかりと戦ってきた1年でも「勝率6割」を達成しているところにその強さを感じます。残り2度の「年間30勝切り」はいずれもここ数年。

2016年…27勝22敗(.5510)
2017年…32勝22敗(.5926)
2018年…29勝23敗(.5577)

20年ぶりに年間30勝を達成できず、かつ、はじめて年間勝率6割を切った2016年。しかし、翌年は竜王戦挑戦者となり、永世竜王・永世七冠を達成。年間勝利数は「30」を超えたものの、勝率6割にはギリギリ届かなかったあたりに、若手の躍進を見ることができます。そして昨年度も30勝を切り、勝率6割ならず、さらに竜王を失冠する…という1年だったのですが、30勝まで「あとひとつ」の29勝、トップリーグのA級では名人挑戦者になり、その勢いで名人を奪取した豊島将之名人に次ぐ7勝2敗、さらにNHK杯トーナメントで優勝するなど、存在感を見せました。

現在のタイトルホルダーには共通点がある

将棋界にある8つのタイトルは、現在5人の棋士が保持しています。名人・王位・棋聖は「豊島将之」、竜王は「広瀬章人」、棋王・王将は「渡辺明」、叡王は「永瀬拓矢」、王座は「斎藤慎太郎」。豊島・永瀬・斎藤が20代、渡辺・広瀬が30代という若手・中堅棋士が占めています。今年2月に久保利明九段が王将位を失冠したことで、タイトルホルダーから40代が退場。何年も言われ続けてきた「世代交代」がいよいよ現実のものとなった様相です。

その中で、タイトルホルダーにはある共通点が見いだせます。広瀬竜王を除いた4名は「人前でコンピュータ将棋ソフトに勝った棋士」であるということです。

2007年、第16回世界コンピュータ将棋選手権優勝のBonanzaと対局し、勝利をおさめた渡辺二冠。2014年、第3回電王戦において、プロ棋士5人の中で唯一将棋ソフトから勝ち星をあげた豊島名人。2015年、電王戦FINAL第1局で勝利した斎藤王座、第2局で勝利した永瀬叡王。将棋ファン以外からも注目を集めたコンピュータとの対戦で結果を出した4人が、いずれもタイトルホルダーとして将棋界の第一線に立っています。

渡辺二冠がBonanzaから勝利をあげた2007年の時点では「コンピュータ将棋ソフトの強さも、いよいよ本物になってきたね」「このまま強くなっていったらどうなるんだろう」「Bonanzaはコンピュータ将棋にとってブレイクスルーだけど、“プロ棋士に勝つ”にはもう1回ブレイクスルーが必要」…そんな雰囲気でとらえていたのを覚えています。2007年といえば、あの藤井聡太七段が将棋をはじめた年。さらに「初代iPhone」が発表されたのも2007年。また、2005年にはYouTube、2006年にツイッター、ニコニコ動画が誕生するなど、現代につながるネット環境が整いはじめた頃でもあります。

今の20代の棋士は、その頃を小学生~中学生として過ごしていたデジタルネイティブ。歴代最多勝利数の記録を更新した後の記者会見で羽生九段は「最近の方が非常に若くて強い人がたくさんいる。」とコメントしましたが、まさにこの世代が新しい時代を作っています。

おじさんたちの逆襲がはじまる!?

今回、羽生九段が記念すべき勝利を飾った対局は、「第60期王位戦挑戦者決定リーグ白組プレーオフ」。王位戦の挑戦者決定までの過程は、①紅組と白組で分かれてリーグ戦 ②それぞれの組で優勝した棋士同士で挑戦者を決定 という手順。リーグ戦で勝ち星が並んだ場合はプレーオフを行い、組の優勝を決めます。

紅組のプレーオフは木村一基九段と菅井竜也七段の対局。悲願の初のタイトルを狙う木村九段(45歳)と、去年失ったタイトル「王位」への「復位」を狙う菅井七段(27歳)という、40代と20代の戦いでした。そして、白組プレーオフは、タイトル通算100期を狙う羽生九段(48歳)と、叡王に続いて複数タイトルを狙う永瀬七段(26歳)。こちらも40代と20代の対局。

初のタイトルか、復位か。通算100期か、複数タイトルか。誰が勝ち抜き、挑戦者になってもドラマのある棋士が出そろい、将棋ファンは「誰が勝ってもうれしく、誰が負けても悲しい」という状況でした。さらに、「このプレーオフを勝ち抜くのは、40代か20代か」というのにも注目が集まったのですが、結果は…「羽生九段と木村九段、40代による挑戦者決定戦」となりました。

このふたりは5月30日に竜王戦1組ランキング戦出場者決定戦で戦ったばかり。その時は木村九段が勝利し、羽生九段の記録にストップをかけました。また、木村九段はこれまで6回タイトル戦に登場しているのですが、そのうち4回、「木村九段の初タイトル」にストップをかけているのは、羽生九段です。強さだけでなく、「解説の面白さ」でも人気を集める木村九段の初タイトルを熱望するファン、それでいて羽生九段の「タイトル通算100期」を見たいファン、そのどちらも見たいファンが存在し、「40代、おじさんたちの逆襲!」と盛り上がりつつも、内心、複雑な心境という人も多いことと思います。

今後の羽生九段のモチベーションは!?

今回の歴代勝利数記録更新について、羽生九段は対局後に「少しずつ近づいているのは分かっていたので目標にしてきました」「大山先生の時代とは棋戦数も時代背景もかなり違うので、比較することは難しいですが、数字の上でひとつ先に行けたことは、棋士として大変ありがたいことだなと思っています」とコメントしています。

数字については「比較することは難しい」というのが本当のところです。もし、大山康晴十五世名人が「タイトルが7つ」の時代=平成の時代をすべて戦い通すことができたならどんな数字になったのか。数字の上で出すことはできても、その数字で評価することはできません。勝利数においては、誰を目標にということがなくなった羽生九段は、どのようにモチベーションを保つのでしょうか。そのヒントは記者会見でのコメントにあったのではないかと思います。

それは「1434勝を重ねた要因は?」という質問に対しての答え「ある程度、きれいさっぱり忘れて次に臨んでいくのは、長く続けていく上で大切なことだと思います」

『長く続けていく』…これまで歴代勝利数1位だった大山康晴十五世名人は、59歳でタイトル獲得(最高齢記録)、60歳でNHK杯優勝、63歳で名人挑戦、66歳でタイトル挑戦(最高齢記録)、69歳4か月でA級に在籍のまま亡くなるというまさに「生涯現役、第一線」を貫きました。大山十五世名人に次ぐ勝利数1324勝を記録したご存知、加藤一二三九段は現役生活62年10か月(歴代1位・77歳まで)と、長く指し続けました。「通算勝利数」では先人を追い抜いたものの、「棋士であり続ける、第一線に居続ける」ということについては、まだまだモチベーションを高く持ち続けることができるのです。

最強のおじいちゃんになれるのか。その前に「最強のおじさん」になれるのか。今年9月、羽生九段は49歳になりますが、49歳といえば故・米長邦雄永世棋聖がはじめて名人位を獲得した年齢(49歳11か月)。「中年の星」としてメディアに大きく取り上げられました。今度は羽生九段が、タイトル通算100期の記録とともに「中年の星」になれるのか。注目が集まります。

ちなみに、「米長名人の就位式・祝賀パーティー」の席上において、米長永世棋聖は羽生九段を指し「あの子が来年、私のクビを討ちにやってくる」とスピーチ。予言は当たり、挑戦者となった羽生九段が初の名人位を獲得しました。羽生九段はそのような派手めのスピーチをすることはないと思いますが、「中年の星」となった時は、“あの天才”が挑戦者としてやってくる…新しい歴史と繰り返す歴史を目のあたりにする時期は、遠くないと思います。