「志らくさんの願い 今日も叶いましたよ」 - 赤木智弘
※この記事は2019年06月02日にBLOGOSで公開されたものです
まず最初に立川志らくさんに報告したいことがあります。
「立川志らくさん、良かったですね! あなたの望み通り、昨日もまた55人の方が他人を巻き込まずに、1人で自殺なさいましたよ!」
日本の自殺者は、一時期よりは減ったとはいえ、年間約2万人。それを365で割って一日あたり約54.8人。そのほとんどが他人を巻き込まずに1人で自殺をしています。仮に誰かが他人を巻き込む事件が1件起きたとしても、その他の54人程は、他人を巻き込んでいません。
きっと、立川志らくさんの人情味あふれる、被害者に寄り添うお言葉が通じたのでしょう。きっと志らくさんも「やったー、私の言葉で55人の人が、他人を巻き込まずに1人で死んだぞ!」とお喜びのことと存じます。
川崎市登戸で発生した、スクールバスを待っていた小学生ら19人が男に刺され、女児1人と男性1人が死亡。身柄を確保された男も自ら首を刺し、死亡してしまった事件。
この事件に対し、テレビの番組内で、落語家の立川志らくさんが「死にたいなら1人で死んでくれよ」と、他人を巻き込まずに1人で死ねという趣旨の発言を行いました。(*1)
この発言に対して、批判の声も上がりましたが、一方で多くの人が賛同の意を示しています。
さて、僕が問題にしたいのは、果たしてこの発言が誰に対して向けられた言葉であるかということです。
志らくさんがこの言葉を発した時点で、犯人の死亡は発表されていたと考えられます。なぜなら「1人で死んでくれ」という言葉は、犯人が他人を巻き込んで死んだという事実があるからこそ、そのことへの反発として発せられているからです。
つまり、志らくさんはその時点で「自分の言葉を犯人が聞くことはない」ことはわかっていたはずなのです。ですので、この発言が向けられた先は犯人ではありません。
では、志らくさんが「他人を巻き込まずに1人で死ぬべきだ」というメッセージを向けた人とは、誰だったのでしょうか?
それはバス待ちの子供たちを襲って殺した当人以外の、自殺することを考えているような人たちです。
志らくさんは自分を「子を持つ親の側」に置いているのでしょう。
少なくとも今の日本では「一生懸命に子供を育てる親」というのは正義の存在ですから、正義の側に立っています。
志らくさんはTwitterの中で「被害にあったお子さんその親御さんの心情を察するとどうしたってあの悪魔に、これから悪魔になろうとしている奴はにそう言いたい」と、犯人を「悪魔」と表現しています(*2)。このことによって犯人になるかもしれない人たちを「悪魔の予備軍」として扱っていることになります。
すなわち、志らくさんは自分を正義の側に置き、「悪魔の予備軍に対して、悪魔になる前に1人で死んでくれと呼びかけた」ということになります。
最初に言ったように、年間の自殺者は現在約2万人です。年に3万人以上死んでいた時代に比べれば減りましたが、それでもたくさんの人が様々な理由で自殺を選ばざるを得ない状況に追い込まれています。
自殺をした人が年間2万人ですから、自殺に至る寸前で苦悩を抱えながらもなんとか生き延びている人たちがその何十倍かは必ずいるのです。
そうした人たちの中には当然、世の中に対して怒りを抱えている人たちもいます。不幸な状況にある人が、幸せな状況にある人を憎む。それは「普通の人間の感情」です。
志らくさんは、そうした人たちを「悪魔の予備軍」と見なし、彼らに対して「1人で死んでくれ」と呼びかけたのです。
志らくさんの言葉は彼らに届いたでしょうか?
そして届いたのであれば、彼らはその言葉を聞いて、またはその言葉に賛同する人たちを見て、どう思うでしょうか?
「1人で死んでくれ」という言葉が意味することは「切断」です。
「お前の人生なんかどうでもいい」ということです。どうでもいい他人だからこそ「死んでくれ」と言えるわけです。
多分、今回の事件の犯人にとっても、自分が殺そうとしている子供たちやその親の人生なんてどうでも良かったのだと思います。どうでもいいから巻き込んで殺すことができたのです。
「死んでくれ」と「殺してやる」は、他人の死に対して受動的か能動的かの違いだけで、他人の死という結果を望むことに何ら変わりはありません。
確かに、大半の人にとって、自分の愛する人の生死は重要でも、見知らぬ他人の生死など全く気になりません。それは「普通の人間の感情(*3)」です。
しかし我々人類が普通の人間の感情のまま、身内だけを守り、一方で他人を切断し続けていれば、文明はこれほど発展することはなかったでしょう。
身内だけを守るのではなく、他者と交流を深め、お互いが「接続」することで、結果として私たちは自分たちの命を守り、文明を進歩させてきたのです。
志らくさんは「1人で死んでくれ!の言葉は普通の人間の感情だ」とおっしゃいますが、理性を発揮して感情をある程度覆うことができるのが人間です。
不幸な人が、幸福そうな他人を憎み、殺してやりたいという「普通の人間の感情」が渦巻いたとしても、人間は感情のみに身を任せて、何かをするべきではないのです。もし、人間が普通の感情のままたち振る舞えば、その結果は「悪魔の所業」にしかなりえません。
こうした事件が起きたときに、決してしてはならないのは「アイツは引きこもりだから」とか「アイツはゲーム好きだから」とか「アイツは無職だから」と、普通の人間の感情のままに、犯人を切断することです。
それによって犯人と同じ趣味や志向、または状態にある多くの人たちを「悪魔の予備軍」として一括りにして巻き込み、あまりに多くの人を切断してしまうからです。
仮に志らくさんの言葉を聞いて「よし、人を殺す前に、自分が死のう」と誰かが決断して、それを実行したとしても、そのことを志らくさんが知ることは決してないでしょう。
しかし、志らくさんの言葉による切断に絶望し、死を選んでしまった人は、すでに何人かいるかもしれないことは、志らくさんには自覚しておいてほしいのです。なんせ年間2万人です。可能性は決してゼロではありません。
「落語家は人情の機微を表明することが仕事(*2)」というのであれば、なおのこと、その程度の自覚は持ってしかるべきです。
ああ、これを書いているうちに日付が変わったんでもう一度。
「立川志らくさん、良かったですね! あなたの望み通り、昨日もまた55人の方が他人を巻き込まずに、1人で自殺なさいましたよ!」
最後に僕から、知らないあなたへ。
死ぬくらいなら、他人を巻き込んででも、生きることを模索し続けてください。
あなたの死に他人を巻き込むのではなく、あなたの生に他人を巻き込んでください。
よろしくおねがいします。
*1:立川志らく 川崎殺傷事件での発言批判に反論「何故悪魔の立場になって考えないといけないんだ?」(Sponichi Annex)https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/05/30/kiji/20190530s00041000120000c.html
*2:私が教育者だったり心理学者だったり政治家だったらこんな発言は駄目だと思う。でも落語家だ。人情の機微を表現する事が仕事。被害にあったお子さんその親御さんの心情を察するとどうしたってあの悪魔に、これから悪魔になろうとしている奴はにそう言いたい。でも本当に悪魔を産む言葉ならもう言わない(立川志らく Twitter)https://twitter.com/shiraku666/status/1133729495838408705
*3:学校に行こうとしていた子供の命を奪った悪魔に対し、子供を巻き込むな!ひとりで死んでくれ!の言葉は普通の人間の感情だ。この怒りをどこにぶつければいい!この言葉が次の悪魔を産むから言うな?被害者の前で言えるのか。何故悪魔の立場になって考えないといけないんだ?でもそれが真実なら謝ります(立川志らく Twitter)https://twitter.com/shiraku666/status/1133727326343127041