サラリーマン漫画で振り返る“平成”働き方シフト ~サバイバルする「個」、多様化する働き方、そしてチームの時代へ~ - 真実一郎 - BLOGOS編集部

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※この記事は2019年05月30日にBLOGOSで公開されたものです

平成の始まりは「組織から個人へ」

平成元年(1989年)。初芝電器産業の大泉社長は、課長・島耕作を自分の派閥に入れるためにこう説得した。

組織という巨大な洞窟の中では個人の力なんてたかが知れてる。出世したければ徒党を組んで、ひとつの大きな力を作り、そこにはいりこむことだ。
『課長 島耕作』第9巻 80話

しかし島耕作は派閥入りを承諾しない。そんな彼を大泉社長は<一切のしがらみを払拭して自由に生きる自由人><徹底した個人主義者>と評した。組織から個人へ。それは昭和の働き方から距離を取る「新しいサラリーマン」の時代の幕開けだった。

今となってはリアリティを感じにくいことだが、太平洋戦争後の昭和サラリーマンの多くは、もともとは戦場から帰還した兵士たちだった。そうした戦前・戦中派世代は、「仕事を通じて会社や国家に殉ずるのが真の男の生き方だ」とする労働倫理を抱いて、モーレツに働き、奇跡的な高度経済成長を牽引した。

軍国主義が法人資本主義にすり替わり、終身雇用幻想と年功序列で保護された会社組織の中で、会社に忠誠を尽くして散るまで働く。そうした戦後サラリーマン観を否定しようとしたのが、戦争を知らない「団塊の世代」(1947~1949年生まれ)だった。

『課長 島耕作』(弘兼憲史/1983‐1992)の主人公・島耕作は、平成元年は働き盛りの40歳。まさに典型的な団塊世代の中間管理職だった。派閥を嫌い、宴席での裸踊りを断り、演歌より洋楽を聴き、恋を続け、英語で海外ビジネスマンと互角に議論することで、会社集団に隷属する土着的な昭和サラリーマンの働き方をスマートにアップデートしてみせたのだ。

空前の好景気の中、島耕作はモータースポーツ参入やアメリカの映画会社の買収を成功させるなど華やかに活躍。それまで東海林さだおやサトウサンペイなど先行世代が描いてきた、鎖に繋がれた哀愁漂うサラリーマン像を刷新し、憧れのアイコンとなった。

バブルが膨らませた「フリーター」という誘惑

しかし一方で、ひとつの会社に庇護されつつ、家庭も顧みずに働き、肩書をステップアップさせるという島耕作のキャリア意識は、大企業に依存した「個人主義ごっこ」だったのかもしれない。彼より下の、いわゆる新人類世代は、会社という組織から文字通り解き放たれた働き方を夢想し始めていた。

平成初期の若者たちのバイブルとなった『ツルモク独身寮』(窪之内英策/1988‐1991)は、そのシンボルと言えるだろう。家具メーカーの寮を舞台とした、若いサラリーマンたちの明るくトレンディな群像劇は、やがて自分探しへと主題が移っていく。

主人公は最終的にデザイナーを夢見て退職し、ひとり海外に旅立つ。サラリーマン生活はモラトリアムであり、「本当の自分」は別のところで見つかる、という脱会社願望は、失業への恐怖心が急速に薄れたバブル景気だからこそ膨張したのだろう。

同時期に描かれた『お茶の間』(望月峯太郎/1990)という作品でも、正社員の主人公はサラリーマンという「レールの敷かれた生き方」から飛び出し、オリンピック出場という無謀な夢を追う。会社にしがみつく先輩たちは、夢追い人に嫉妬する臆病者として位置づけられた。こうした自由への希求は、「フリーター」ブームに直結していく。

©望月峯太郎/講談社

当時、アルバイト情報誌 『フロム・エー』は、フリーターを「既成概念を打ち破る新自由人種。敷かれたレールの上をそのまま走ることを拒否し、いつまでも夢を持ち続け、社会を遊泳する究極の仕事人」と定義して称賛したため、その生き方は多くの若者を魅了していった。

バブルの時代にフリーターがもてはやされたり、子どもをつくらず気楽に生きる共働き夫婦がDINKsと名づけられて称賛されたりしたのは、それらが旧来のサラリーマン的束縛から解放された「自分らしい生き方」に見えたからだ。終身雇用、正社員の地位、家族、子ども……。バブル期に捨てたそれらの「束縛」が、のちに欲しくても手に入れにくいものになってしまうようになるなどと、当時は誰も想像していなかった。

バブル崩壊で前面化する「サバイバルのリアリティ」

1991年にバブル景気が弾けると、終身雇用、年功序列といった会社神話が大きく揺らぎ始めた。大企業の倒産、成果主義の導入、リストラ(整理解雇)、外資系の参入など、サラリーマンを取り巻く環境は一気にシビアになり、サラリーマン漫画も労働のリアリティに向き合うことを余儀なくされるようになる。

島耕作とは真逆の、泥臭く暑苦しい働き方を描いたのは『宮本から君へ』(新井英樹/1990‐1994)だった。島耕作は裸踊りを拒否したが、宮本はミスをしたら坊主になり、公衆での土下座も辞さない。浮ついたバブルの夢から醒めたように死に物狂いで働く宮本の姿は、一部読者の熱狂的な共感を呼んだ。

この時期に連載されていた作品で、サラリーマンの窮状を残酷なサバイバル群像劇に見立てたのが『100億の男』(国友やすゆき/1994‐1996)だ。凡庸なサラリーマンの富沢は、ある日突然親の負債100億を背負い、会社をクビになり、友人に裏切られ、次第に非情なビジネス戦鬼と化していく。かつて自分の勤めていた会社から仕事を奪って倒産させるなど、サラリーマンの「親殺し」を通して会社への忠誠心と決別した本作は、新自由主義的なバトルロワイヤル状況をいち早く体現していた。

一方で、そうした非人間的で殺伐とした労働観に異を唱えたのが『いいひと。』(高橋しん/1993‐1999)だ。衰退する百貨店業界を舞台とした本作の終盤、ベテラン社員たちの大規模なリストラが計画される。若き主人公はそれを阻止して、「会社と社員が家族だった時代」に戻ろうと上層部に訴える。それは会社の危機を成果主義やリストラではなく会社家族主義への回帰で乗り越えようとする試みであり、当時はまだ一定の説得力があった。

こうしたポストバブルのサバイバル状況に誰もがもがいている中で登場したのが、島耕作と双璧をなすことになるサラリーマン・ヒーロー『サラリーマン金太郎』(本宮ひろ志/1994‐)だった。

年功序列を無視した大胆な行動力、前例に縛られない柔軟なビジネスアイディア、会社や国境を越えた異色の人脈。元暴走族ならではの型破りな働き方で、矢島金太郎はグローバル資本主義時代の到来に戸惑うサラリーマンたちに活路を与え、今作はその後テレビドラマ化されるなど人気シリーズとなっていく。

金太郎は、新入社員には「会社があんたらを守ってくれるって事じゃない。あんたらがこの会社を守ってやるんだ」と諭し、リストラ社員たちには「自分の魂を支配できるのは自分だけだ!たかが会社ふぜいに魂まで牛耳られてたまるかァ!」と鼓舞する。会社組織に依存することなく、金太郎という個人の看板で組織を渡り歩く、いわば「プロのサラリーマン」だ。

(C)本宮ひろ志/集英社

近年は、ZOZOの田端信太郎氏や幻冬舎の箕輪厚介氏のように、「会社に依存しない自立した個のサラリーマン」という成功モデルが、働き方の選択肢としてリアルに可視化され始めている。『サラリーマン金太郎』は、そうした「ブランド人」的働き方を、20年以上前からサバイバルの指針として提案していたのだ。

失われた20年の「個人間で多様化する労働倫理」

2000年代になっても不況のトンネルは続き、「勝ち組・負け組」「格差社会」「下流社会」といった言葉が流行るなど、昭和の一億総中流意識はいよいよ過去のものになっていった。サラリーマンの労働意識にも格差が生じ、特にバブル崩壊後の就職難に苦しんだ「就職氷河期世代」の中で、多様な働き方が重層的に混在するようになる。

氷河期世代の会社員が自身の体験を描いた実録日記的な漫画『ぼく、オタリーマン。』(よしたに/2001‐2011)では、出世や会社コミュニティよりも、趣味による自己実現を重視する働き方が強調された。非情にリストラされた上の世代を見てきた世代ならではの、自尊心を会社に預けない適応スタイルと言える。

会社に所属しつつ仕事以外の場所にアイデンティティを求めて重心を置く、という働き方は、2007年に政府がワークライフバランスを提唱したことでさらに顕在化し、サラリーマンの食べ歩き・飲み歩き漫画や、『トクサツガガガ』(丹羽庭/2014‐)のような趣味リーマン漫画といった、仕事を(ほとんど)描かないサラリーマン漫画という潮流を生んでいくことになる。

実はそんなワークライフバランスをいち早く描いていたのが『クッキングパパ』(うえやまとち/1985‐)だった。主人公の荒岩一味は、仕事は5時までに終わらせ、自宅に帰って育児や料理に勤しみ、共働きの妻の遅い帰りを待つ、いわば「イクメン」や「料理男子」の元祖だ。成熟社会の理想的な共働き家族モデルを早くから提案していた『クッキングパパ』に、時代が追いついたのだ。

一方で同時並行的に、バリバリ働いて格差社会を勝ち抜こうとする仕事観も顕在化する。経済評論家の勝間和代をシンボルとして、年収アップのためのライフハックや転職によるキャリアアップに注目が集まるようになり、勝間和代とコラボした転職漫画『エンゼルバンク―ドラゴン桜外伝』(三田紀房/2007‐2010)も生まれた。

(c)三田紀房/コルク

「会社での評価」よりも「市場での商品価値」を高めようとする意識の高いキャリア観は、『ぼく、オタリーマン。』的な意識の低さと一見対立するように思えるが、会社に人生を預けたくないという思いは氷河期世代を通底している。その発露の方向性が多様化したのだ。

こうした2000年代の多様化した労働倫理を浮き彫りにしたのが『働きマン』(安野モヨコ/2004-)だった。

出版社でバリバリ働く女性編集者の主人公は、「あたしは仕事したなーと思って死にたい」と言い切るほどの仕事人間で、深夜労働も厭わない(1999年の改正男女雇用機会均等法施行により、女性も深夜労働・休日労働の規制がなくなっていた)。しかし彼女の働き方が必ずしも理想として描かれるわけではなく、他の職種の登場人物たちにもスポットが当たり、さまざまな働き方や価値観が深掘りされていく。

(c)Moyoco Anno / Cork

やる気のある人もない人も、仕事が出来る人も出来ない人も、そして仕事から逃げてしまう人まで、それぞれの言い分があり、それらは善悪を判断されず、ありのままの状態で読者に差し出される。だから読者も正解のない働き方の海を彷徨うことになる。普遍的なサラリーマンの理想像が分からない時代になったことを、本作では思い知らされる。

プロレタリア文学としての社畜漫画

2010年代になると脱会社意識はさらに進み、モバイルノートPCとスマートフォンの急速な普及を背景に、2012年に「ノマド」ブームが巻き起こる。ノマドとは会社やオフィスに縛られない遊牧民的ワークスタイルのことで、次世代の自由な働き方として注目された。一方で、会社にしがみつく不自由なサラリーマン=社畜のブラックな労働環境という自虐意識が表面化し、社畜を主人公にした漫画が急速に増えていく。

社畜漫画の代表格である『いきのこれ!社畜ちゃん』(ビタワン・結うき。/2015-)は、IT企業に勤務していた原作者自身の体験をベースにした半実録漫画だ。ブラック企業で深夜残業や休日出勤を繰り返すシステムエンジニアが主人公で、ギャグ四コマでありながら、現在労働の現場で若いサラリーマンがどんな困難に直面しているのか、意外なほど切実に描かれている。

そのほかにも、社畜だったサラリーマンたちの肉体をつぎはぎにして生まれた人造人間社員の悲喜劇を描く『社畜フランケン』(鳥屋/2016‐)、上司の理不尽なパワハラやモラハラに耐えるため、自分の中で別人格が5人も生まれてしまう『みんなで辞めれば怖くない』(中憲人/2018)など、優れた社畜漫画の多くは、その作者自身の過酷なサラリーマン体験をベースとしている。もはや現代のプロレタリア文学といっていいだろう。

劣化してしまった日本の労働環境を改善すべく、政府は2016年から「働き方改革」に取り組んでいる。特に近年は、電通の女性社員の過労自殺に対する反省から、労働基準監督署が長時間残業是正を中心に厳しい査察を行っており、その結果、労働環境は大企業から急速に改善されつつある。

働き方改革が実現した職場は『社畜が異世界に飛ばされたと思ったらホワイト企業だった』(結城鹿介・髭乃慎士/2018‐)で見ることが出来る。タイトル通り、パワハラや長時間残業が当たり前だと麻痺している社畜女子が、コンプライアンス順守の職場に転生し、そのギャップに戸惑う、というギャグ漫画だ。

ここで描かれるホワイト企業は、定時退勤が当たり前で、フレックスや有休を使ってOK、家賃補助など福利厚生があり、先輩より遅く出社したり早く帰社しても怒られないなど、実はルールに則った働き方を当たり前に守っている当たり前の企業だったりする。これがギャグではなく普通になる日が、遅かれ早かれくることを祈りたい。

個人からチームへ

平成のサラリーマンは、30年間を通して、労働環境の劣化に苦しみながらも、会社に依存しない「個」としての働き方・生き方を模索し続けてきた。そして今、「個の時代」になりつつあるからこそ、組織や世代の壁を越えた、アベンジャーズのように熱く強固な「チーム」の重要性が、より意識されるようになっている。

テレビドラマ化もされた『重版出来!』(松田奈緒子/2012‐)は、出版社を舞台とした女性新入社員の奮闘記で、無垢な彼女が周囲を触発してチームが活性化する群像劇を通して、サラリーマンの仕事とはプロフェッショナルが集うチーム戦であることを炙りだす。単行本の後付には制作スタッフだけでなく販売担当、宣伝担当の名前まで記載されていて、まさにチーム戦で挑んでいる仕事と言える。

『今どきの若いモンは』(古谷光平/2018‐)も、世代の壁を越えた調和を描いている作品だ。本作の課長は、部下を過重労働やお酌やセクハラといった悪習から守り、挫折と成長を温かく見守ってくれる、今どきの理想の上司と言える。

IT化によって働き方が急速に変わる現在の職場では、新しいワークスタイルについていけない古い世代と、もともとデジタル・リテラシーの高いスマホ世代が混在している。そのため、ネットの経済メディアが「さよなら、おっさん社会」という特集を組むなど、世代間の分断を煽る言説が飛び交っている。その中で本作は、やりがいと社畜意識の間で揺れる若いサラリーマンの成長を青臭く描きつつ、おじさんをその敵ではなく尊敬できる賢者とすることで、働き方改革時代の未来と過去を接続することに成功している。

一度は分断してしまったかのように見えた個を繋ぐ強い連帯感が、これからの時代を突破するカギになるのだろう。

島耕作から遠く離れて

時代が令和になると、財界のトップや大企業の経営者たちが終身雇用の限界を公言するようになり、ニュースを騒がせている。しかし終身雇用が幻想であるということは、平成を通して既に思い知らされてきた。今や非正規雇用者が4割だ。ひとつの会社に新卒から会長まで50年間寄り添い続けるサラリーマンの終身雇用ファンタジーは、島耕作を最後に、今後現れることはないだろう。

平成の初めに島耕作が手をつけた、戦後昭和的労働倫理からの解放は、平成30年間の労働環境の劣化によってなし崩し的に達成されてしまった。もはや我々は好むと好まざるとにかかわらず、プロフェッショナルな個人として、自分自身を経営しなければいけない時代を生きることになる。

近い将来、ホワイトカラー的な頭脳労働はAIに代替され、ブルーカラー的な肉体労働はロボットに代替されるという。人間が出来る仕事は限定的になっていく。そのとき、我々はどんなサラリーマン漫画を読んでいるのだろう━━━

プロフィール

真実一郎
サラリーマンとして働く傍らライターとしても活動し、幅広いメディアに寄稿を行う。サラリーマンの働き方を専門とし、著書に『サラリーマン漫画の戦後史』(洋泉社新書y)がある。

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