「ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている」批評家・東浩紀が振り返る ネットコミュニティの10年 - 村上 隆則

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※この記事は2019年05月28日にBLOGOSで公開されたものです

批評家・東浩紀氏のエッセイを集めた著書『ゆるく考える』(河出書房新社)が好評だ。同書には2008年から2018年の間に書かれた同氏の文章がおさめられており、その考えの変遷を辿ることができる。

今回、同書の内容に加え、この10年の「ネットと政治」の関係や、今後注目されていくであろう新たなコミュニティの可能性について、東氏にたっぷりと語ってもらった。【写真撮影:飯本貴子】


変わったのは「ネットを使うと新しい時代が作れる」という希望の有無

-- この10年、形を変えながら様々な活動をしてきたと思いますが、振り返ってみていかがですか

もともと僕は難しいタイプの哲学や批評をやるところからスタートしましたが、ゲンロン(編集部注:東氏が立ち上げたイベント、出版事業をおこなう企業)という会社をやり始めて、今までの哲学とか批評の言葉の限界というのを強く意識するようになりました。

大学人や物書きをやっている間は、付き合う人は編集者が多かったし、読者と頻繁に会うわけでもない。その読者も限定されていたので、あまり言葉の限界に気が付かなかった。

ゲンロンを作って以降、本来の哲学や批評というものはもっと広い形のものだと強く思うようになりました。そこで自分の表現も変えていくことにしました。

-- 東さんはネット時代の論者という見られ方をすることも多かったと思います。ネットを通じて発信をするということについては、この10年、どんな変化があったとお考えですか

10年前と今とでもっとも違う点は、「ネットを使うと新しい時代が作れる」という希望の有無だと思います。僕はその希望はもうないと思っている。

もちろん、多くのひとが今でもそう信じてるでしょうし、部分的にはよくなる部分もあると思います。けれど、社会全体としては、結局ネットやSNSが普及しても、それだけでは世の中よくなるわけじゃないな、というのはコンセンサスがとれてきたのではないでしょうか。

僕は1971年生まれで、Windows95がブームになったときに24歳くらい。まさにインターネットが世界を変えるようすを目の前で見てきた世代だったので、ネットで世の中をよくするとしたら自分たちの世代が第一陣だろう、という自負がありました。

実際、2000年代は僕も30代で、若い世代とネットの力で世の中を変えられるんじゃないかと思っていた。テレビでそんなことも言ったりしました。ところがそれはダメだった。少なくとも、そんな単純な話じゃないということがわかってきた。その中で、僕自身、元気のいいことを言うのではなく、もう少し深く足元を見つめる方向に変わっていきました。

--「ネットで世の中は変わらない」と思ったきっかけはなんだったのでしょうか

それは数多くあったと思いますが…、ひとつ挙げるとすれば震災のあとの国会前デモですね。反原発からSEALDsに至る流れ。僕の中ではあれが不発だったのがとても大きかった。同じ頃、世界ではアラブの春とかニューヨークのオキュパイ・ウォールストリートとかがあって、日本の国会前デモもまたそれらと同じSNSを使った祝祭型のデモだった。2010年代にはそういったデモが世界中で起きました。けれども結局は、一時的に盛り上がるだけで、ほとんど何も成果が出ずに忘れさられてしまう。日本でもそうでした。そういう光景を見て、ネットはお祭りを作ることしかできないと思うようになりました。

SEALDsもちゃんと持続可能な組織に育てばいいと思ったんですけどね。でもなぜか解散するのが潔いみたいな話になってしまいました。持続可能な、面倒なことはみんなやらないんですよね。

-- 確かに、一過性の集まりだけでなく、みっともなくてもちゃんと続けていって、条文をちょっとでも変えるとか、そういうことを目指してもいいと思いますね

日本の場合、もともとの同調圧力の文化とSNSがくっついてしまったために、とくに「祭り志向」の時代になってますね。

とにかく、いろんな人が同じ方向を向いていて、ぱーっと盛り上がって、すぐに忘れてしまう。そして、ちょっと違う意見の人たちをみんなでいじめて、いじめられた人がアカウントを削除したらすぐ別の標的を見つけての繰り返し。削除したアカウントのことなんて翌日には誰も覚えてない。


ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている

-- SNSでは議論はできない?

できませんね。日本では原発事故のあと、原発の是非が議論になりかけました。けれど、SNS上ではあっという間に原発賛成派と反原発派の罵り合いになってしまって、対話も何も生まれなくなってしまった。みなが毎日同じキーワードで検索をかけて、自分と違う陣営の人を見つけてはスクラムをかけて潰す、そんなことをやり合うだけの道具になってしまった。

その点では、ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている。フェイクニュースとかポストトゥルースといわれていた現象で、これもいまはみなわかっていることだと思います。

-- マイナスのイメージが強くなってしまったんですね

SNSは人々の生活を窮屈にしている。インターネットを使っても、人間は全然賢くならない。むしろ愚かな部分が増幅されていくだけ。当たり前ですが、世の中を変えるためには、まず人間を変えなければいけない。新しい技術が来たから新しい世の中が出現するというものではない。そんな非常にシンプルなことを感じ続けた10年でした。

-- SNS以外はどうですか?

問題は「リアルタイム」が重視されすぎていることです。いいかえれば、みな時間の価値を軽視しすぎている。ゲンロンカフェ(編集部注:ゲンロンが運営するイベントスペース)では動画の中継をやっていますが、そのプログラムでは、コミュニケーションには一定の時間がかかることを前提にしています。他人の意見を理解するためには3分のパワーポイントではダメなんですよ。それでは、自分がその人に期待していることを確認するだけで終わってしまう。人格が見えてこないから、ちょっとでも違うと思ったら攻撃してしまう。

これはよくいうんですが、ゲンロンカフェは、TEDなら3分で済むところを3時間かけてやる場所です。残りの2時間57分で何をやっているかというと、その3分の背景にある人格を見せているわけです。なぜそんな一見無駄なことをしているかというと、そのような部分があると、たとえその人が間違ったことを言ったり、ミスをしたりしても、その背景の文脈がわかるからです。そうすると、批判する側も一歩ふみとどまって考えることができる。そしてそこから対話が始まったりする。そういう対話を作るためには、どうしても登壇者や視聴者を一定時間拘束するというか、話に付き合わせる必要がある。

-- 脊髄反射的な攻撃をされにくいようにしているということですね

そうです。もうひとつ、ゲンロンカフェの中継ではプログラムは番組単位で買ってもらうようにしています。無料公開して盛り上がっているところに投げ銭してもらうほうが、いまはメジャーな中継方法です。実際に収益性も高いのかもしれないけど、そうすると登壇者の言うことは変わってきます。誰もが極端な発言で盛り上がることばかり目指すようになってしまう、あるいはその逆に炎上しないことばかり考えてしまうので、議論の質が変わってしまうんですね。

僕はネットは否定しません。現にいま、うちの会社ではそうやって一定時間の「無駄な部分」をひとつのパッケージのなかに入れて売ることをやっているわけですが、こういうことを意識すればネットもコミュニケーションをよくするために使えると思います。ただ、今はプラットフォーマーもコンテンツを作る人たちも、とにかくリアルタイムで瞬時に沢山の人に共有されるものを目指している。そして、スケールさせてお金を集めようぜという話しかしない。これだと提供できるものの質が限定されてきますね。

-- 確かに、ネット上のコンテンツはシェアされるためにどんどん短く、早くなっているように感じます

猫の動画とかを紹介しているうちはいいし、それはそれでいいんでしょうけどね。でも、それは議論には絶対向かない。つまりは、ファスト志向のリアルタイムウェブには向いているものと向いていないものがあって、なかでも政治は一番向かないものなんです。政治をネットに使うときはそこを真剣に考えなきゃいけない。

プラットフォーマーが別のサービスを開発してくれればいいんですけどね。でもとりあえず短期的な収益を考えると、今の流れが必然なんでしょう。

コミュニティ意識のあった「はてなダイアリー」

-- ちょうど10年くらい前、まだ今ほどリアルタイム重視のSNSが盛り上がっていなかった頃、ブログ論壇みたいなものが注目されていましたが、そのときは長い記事を書いている人も多かった気がします

あの頃はみんな長文を書いていましたね。

-- でも、真面目にやっていた人ほどいなくなってしまった

長くちゃんとしたブログを書いている人たちが、世の中のダメな反応に疲れて消えていった。僕も気持ちはわかります。

ブログの評価基準がPVしかないんなら、炎上するのが一番だということになる。じゃあ過激なこと言っときゃいいか、となっちゃうわけです。PVではない基準があればいいんですが、結局そこでリターンを作れなかった。PVがなかったとしても、きちんとした文章を書けばしっかりした承認がもらえ、未来の仕事につながるという信頼があれば、ブロガーたちも残っていたはずです。

つまり、ブロガーたちを育ててくというか、維持していくというのは、ネットのサービス作ってあとはお任せではダメだったんだと思うんですよ。ブログ論壇のコミュニティを育てる企業や人がいなかった。受け皿がなかったということですね。


-- これまでの日本のネットで、東さんが考えるコミュニティの原型みたいなものはありましたか

はてなダイアリー(編集部注:株式会社はてなが運営するブログサービス、現在は閲覧のみ可能な状態)ですね。あれはすごく可能性があった。日本でいまブログ論壇と呼ばれているものを最初に作ったのは、はてなダイアリーだと思う。

はてなダイアリーは、なぜだったかわからないですが、意見が違ってもみんな「はてな」に所属しているという独特の感じがありました。いまでも「はてな村」ってよく言いますけど、あれは別に蔑称で使うべきものではなくて、「俺たち同じ村に所属してるんだ」という感覚があったからこそ、実は議論もできていた。それがみんなバラバラにいて、みんなで爆弾を投げあうような感じになってしまうと、ただ相手を潰せばいいということになってしまう。

はてなダイアリーが無意識に持っていたあのコミュニティ感というものを、上手く次のサービスにバトンタッチできなかったのは、すごく残念なことだなと思っています。

-- 確かに、はてなダイアリーでは色々な論争があって、それぞれの立場から意見が出て議論も盛り上がっていたように思います

僕の個人的な記憶では、あのとき有名なはてなダイアラーの名前はみなお互いに認知していました。誰と誰の仲が悪いとか、喧嘩になってるということがあったとしても、トータルには仲間意識があった。それは世の中からすれば、まだまだブログやSNSがマイナーで、そのマイナーなものを自分たちがやっているという自負心があったからかもしれません。

そのコミュニティ意識はとても大事だったはずですが、あまり重要視されなかった。その後、ブログは一般化し、コミュニティ感がなくなって議論ができなくなった。時代の必然ですけどね。

-- とすると、もう我々にはネットで議論することは難しいという感じなんでしょうか

いまはもう難しいですね。議論というのは本来、論点を抽出して、その勝敗を決めれば誰もが納得する結論が出るというものではないわけです。そもそも最初から意見は違うんだから。その最初の「意見が違うということ」の意味を深く考えず、勝ち負けだけ決めようとすると、不毛な罵倒合戦しか生まれない

自分はAが正しいと信じている。にもかかわらず、こっちには全然違うBが正しいと信じている人がいる。これはなんでなんだろう。まずはそう考えるのが大事なんです。説得や論破が大事なのではなくて、違う意見が存在するのはなぜなんだということを考えること。これは、違う考え方を持っている人に対する一種の尊敬の念がないとできないことです。そして、それがどうやって生まれるかというと、時間だったりコミュニティの感覚だったりが必要です。

ところが、今のネットでは、この根本のところが忘れられて、とにかく論破すればいいということになっている。裏返せば、いま重要なのは、ネットサービスの中でどうやってコミュニティ感とか時間というのを回復するかってことですね。

考えるべきは「お金ではない価値」

-- コミュニティといえば、最近ではオンラインサロンみたいなものも人気を集めていますが

オンラインサロンそのものはいいと思います。でもその多くは、ファンクラブにすぎず、そこでものを売りつける道具ですね。

本当は、オンラインサロンは政治運動にも使えるわけです。「俺はこれから世の中を変えたい、みんなサポートしてくれ」と。そういうことのために使う人がもっと現れるといいのですが。

-- もっと可能性があるはずだと

そもそも僕は、なんで人間は金のことばっかり考えるのか、不思議でね。最初に本を作りたいとかブログやりたいとか思ったときに、金のことを考えているひとってあんまりいないと思うんですよ。

むろん、今はITをやると金持ちになれそうな気がするから、そういう若者が多くなってはいる。けれども、昔はそうじゃなかった。本を作るのも、そもそも全然金になりそうにない仕事です。それなのに選ぶってことは、つまり金よりも本が好きなんですよ。それなのに、いまは出版にいる人たちまで、みな金のことばっかり考えている。

お金が目的なら、他にいろんな職業があったはずです。それやればいい。だから、今の世の中はちょっと変になってる。みんなもともとやりたかったことを思い出したほうがいいんじゃないの、という気がしています。

-- ブログやメディアみたいなものを収益化するのはなかなか難しいですよね

でも、そもそも論壇的なものとか、社会をよくするための議論とか政治とか、そういうものは簡単にマネタイズできるものじゃないでしょう。それは皆最初から知っているはずですよ。お金ではない価値があるからこそ、古来続いてきたものなんです。だから、そのお金ではない価値をどうやって今のネットとかメディアの環境の中で提供し続けるか。それこそが大事だと思います。

ところが、そこの部分をなぜかみな考えなくなってる。「儲かることが正しいこと」みたいに思ってる人たちが多いですね。

-- 関連しているのかどうかはわかりませんが、SNSを見ていても、身も蓋もないことを言う人が増えましたね

そうです。ライブドアが2000年代中盤くらいに勃興してきたときは、拝金主義はよくないということになっていました。ホリエモンなんかそれで叩かれていた。金ですべてが買えるってアホか、と。ところが、今は金ですべてが買えるって言うと、むしろ先進的だってことになっている。

少し前に前澤友作さんがお年玉をプレゼントして話題になった件がそうです。「100万円をばらまいてもあれだけ広告効果があったんだから賢い」とかになってる。いやいや、ちょっと待ってくださいよと。あれはふつうに考えて、拝金主義の成金の下品な行動ですよ。でも、いまそういうことを言うと老害と言われる。

--(笑)

今の世の中は、未来から振り返るとかなり変な時代に見えると思います。拝金主義がいい、新しい、みたいな雰囲気ですから。倫理的なことや正しいことを言うと、頭が固いことになる。

-- なんでなんですかね?

さあ。とにかく、僕はおかしいと思いますね。


これからのコミュニティのヒントは「家族」にある?

-- これまでネットについて聞いてきましたが、先日発売された、『ゆるく考える』は、後半からご家族の話が出てきていました。東さんの考え方を変えたものとして、ご家族の影響も大きかったりするんでしょうか。

娘が誕生したことは大きかったです。なんというか「人間が新しく生まれるというのは大変なことだ」みたいな。そして自分も老いていくんだみたいな。

たとえば、自分が50歳になったとき、娘が何歳だなというのは当然考える。だから時間を娘の視点でも捉えるようになる。2030年のことは、僕にとっては60歳のことですが、うちの娘が25歳のときのことでもある。すると、ちょっと未来に対する感覚が変わってくる。


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-- 世の中的にも、家族というものが、たとえば是枝裕和監督や細田守監督などの作品を代表に、注目されているように思います。ここに注目が集まるのはなぜだと思いますか

人間は一人では生きていけないからじゃないでしょうか。持続可能な共同体のモデルを考えたときに、結局いま残されたのは家族ぐらいしかない、ということではないか。

今は、会社もない、地域共同体も崩れている。かといって、急に国家とか言い出すのも飛躍がある。そのときに共同体の核というか、どこを足場にするかといったら、そういえば家族ってあるよねと。ほぼみんなに家族がいて、じゃあ家族ってなんだろうというのは、もう1回考え直すに値する。そして、現実にいまより柔軟な家族の形が必要とされている。

一昔前だと、たとえば団塊世代なんかがそうですが、一人であることが自由であることの条件だと考える人が多かった。それは世代のリアリティとしてあったと思いますが、一人であることは必ずしも自由を意味しなくて、むしろ一人であることによる弊害も今は見えている。そのときに、会社も信じられない、かといって地域も国家も信じられないとなってくると、家族くらいしか足場になるものがないだろうということですね。

ただそこで、古い家族の形に戻るのではなく、新しい家族の形をどういうふうに提案するか。是枝さんや細田さんはそれを試みているし、僕も似たことを考えています。

-- それが今おっしゃっていたように「柔軟な家族」というような形になっていくんでしょうか

同性婚の話が出るのも、そういうことの一環だと思います。国際結婚も増えていくでしょう。

ひとことでいえば、「家族みんなでこたつに入って紅白歌合戦見ます」みたいなものではない、新しい家族の形態を再発明しなきゃいけないってことですよね。旧来の昭和的な家族から自由になりたいということで、平成はみんな一人になっていったんだけど、もう一度、21世紀の新たな家族像を再発明することが実践的にも求められている。

-- それはどんなものになると思いますか

わからないです。ただ僕としては、現実の家族の経験も大きいんですが、それとは別に、ゲンロンという組織を作っていく中で、家族的原理で組織を作るのが一番サステナブルなのではないかと思ったところもある。

わかりやすい例でいうと、ゲンロンではスクール事業もやっているんですが、これなんて、講師が一種の「親」として存在していて、そこに生徒たち、子どもたちが何期も何世代も生まれてくるわけですね。そういう子たちが活躍して、また新しい子を引っ張ってきたりする。そうすると今度は孫世代みたいな生徒が生まれてくるわけです。そうやって増殖していく。

そういう生徒たちは、普段バラバラなことをやっているんだけど、ゆるやかにコミュニティの感覚はあって、ときどき集まったりもしている。この構造ってなんだ?と考えたら、「家族的」という言葉がしっくりくるなと思うようになったんです。

-- 組織運営の理にかなっていたということでしょうか

というか、人間にはそれでしか組織を作れないというか…。人間にとって、一番自然な組織ってそういうものなんだなと。擬似的な家族みたいな構造を作ると、色々上手くいく。

家族という言い方をすると抵抗を感じるひとも多いし、それにもむろん理由があると思います。だから、僕がいま考えていることは、将来的にはもっと抽象化していきたいと思います。それを「家族的」と呼ばなくてもいい。ただ、持続可能な共同体を今の時代の中でどう作るかというのは、政治的にも日々の生活的にも、また理論的にも重要なことですよね。

-- 一方で、まさにフラットでプロジェクトごとに集まるようなことを志向している人もいますよね

そういう人も、もちろんいていいと思います。ただ、問題は、メンバーの多様性をどう受け入れるかです。趣味のサークルをモデルにして、それが可能になるか。僕がよく出す例はフットサルですが、みんなでフットサルをやりたいから週末に集まる。そういうタイプの共同体がある。SNS上の政治運動はこのフットサルモデルです。けれど、そうするとフットサルに興味がなくなると来なくなってしまう。

こういうタイプの共同体を維持しようとすると、リーダーがみんなに対して、フットサルをやろうぜと常に言い続けなきゃいけない。「みんなフットサル楽しいよ!」と。これは維持するのがものすごく大変なんです。テンション高くいかなきゃいけない。家族モデルはそれがいらない。

家族って別に何も理念とか趣味とか共有していない。それぞれ全然違う職業を持っていて、年代も違ってて、人生も違う。ただ家族だから、しょうがないからというのもあれだけど、いっしょにいる。定期的に集まる。家族とはそういうものだと思います。なので、テンション低めに維持できて、しかも多様的なものを入れるモデルとしては、サークルモデルよりも家族モデルのほうがいい。

-- そのあたりの話は東さんの経験として、たとえば2017年に刊行された『ゲンロン0 観光客の哲学』からも続くものなんでしょうか

『ゲンロン0』の動機のひとつは、SNS型の政治運動はダメでしょうということにありました。それと今の問題意識は密接にリンクしています。

だから僕はメディアには出ず、いまはゲンロンに引きこもっているわけです。サステナブルなコミュニティを作るためにはどうすればいいのか、というのが僕の関心の中心です。

-- 最後に、これから先のネット論壇やコミュニティはどうなっていくと思いますか

面白いことを言う人たちが次々に現れてはすぐに消える、そういう状態ではなくて、持続可能なコミュニティにならないと「論壇」とはいえないと思います。問題はそういうコミュニティが作れるかどうか、誰が作るかです。昔は雑誌がその役割を担っていましたが、今はもう難しい。

ゲンロンでその核になっているのが、ゲンロンカフェというイベントスペースであると同時に放送局みたいな存在であり、ゲンロンスクールという教育機関です。僕はこれを核にして、今後もコミュニティを作るために活動していくと思います。


プロフィール
東浩紀(あずま・ひろき):
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(1998年、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(2001年)、『クォンタム・ファミリーズ』(2009年、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(2011年)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017年、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(2019年)ほか多数。