「差別はなぜいけないの?」倫理学者に聞いた、″正しさ″が強調される時代を生き抜くためのヒント - 村上 隆則
※この記事は2019年05月23日にBLOGOSで公開されたものです
さまざまな場所で倫理的に振る舞うことが求められる現代社会。しかし、よく考えると「倫理」そのものについて考える機会は少ない。そこで『ふだんづかいの倫理学』を上梓した倫理学者の平尾昌宏氏に、「倫理って何?」「差別はなぜいけないの?」など、素朴な疑問をぶつけながら、この時代を生きるためのヒントを聞いた。
-- いきなりですが、倫理学ってどういうものなんでしょうか
一言で言えば、倫理の研究をします。まあ、当たり前だけど(笑)。
倫理と言われると、なんとなく「うさんくさい」感じがするでしょうね。あいまいだとか、押しつけがましいとか。でも、そういう食わず嫌いの人に分かってもらうのに手間はかかるものの、学問としては科学の数倍の歴史があって、案外ちゃんとしています。授業を受けてくれた学生さんたちは、「思っていたのと全然違って、明快だし面白い」とさえ言ってくれます。もちろん全員ではありませんが。
雑に扱われがちな「よい」「正しい」という言葉
-- 最近、ネットの世界でも「倫理的に振る舞う」必要性を感じているんですが、考えてみると「倫理」とはどういうことなのかもよく知らないんですよね
これも、説明するとめんどくさいんですよねえ(笑)。まず、「倫理」と「道徳」という言葉を同じ意味で使うとしましょうか。これらは何かというと、人間がよい生き方をする、よい行いをするための「規範」だと言えます。
ところが、よい生き方と言っても、「よい」の定義もわからないし、「規範」についても、決まり事を押しつけられるようなイメージを持ってしまう。だから、なんとなく必要なのは分かっても、「それでどうなの?」というのが多くの人が感じるところだと思います。
-- 「よい」というのはつまり「正しい」ということではないんでしょうか
私たちは普段、「よい」とか「正しい」という言葉を雑に使ってしまっているところがあるんです。「道徳」という言葉もそう。ちょっと遠回りだけど、「よい」と「正しい」の前に「道徳」から考えましょう。
例えばこのあいだ、ピエール瀧さんがコカインを使用して逮捕された事件について、舛添前都知事が「道徳が支配する国に芸術や文化は育たない」というツイートをし、そこにはさまざまな意見が寄せられていました。
品行方正な芸人に魅力はない。ピエール瀧、新井浩文、勝新太郎。芸人はマージナルマンである。だから、常人に不可能な創造ができる。面白くもないエンタメは定義矛盾だ。品行方正でもやぶな医者は要らない。芸人も同じ。道徳が支配する国に芸術や文化は育たない。勿論犯罪を称賛しているのではない。
- 舛添要一 (@MasuzoeYoichi) 2019年3月13日
この様子を見ると、「道徳」やそれにまつわる言葉に対する共通理解が、やはり人々のあいだにないのではないか、と思います。
舛添さんがここで言っている「道徳」は、ツイート中にある「品行方正」や、言い換えれば「人のよさ」なんだと思います。そして、「芸人」や「芸術家」にはそれとは別の価値観が必要だと。さらに最後のところで、「もちろん犯罪はいけないけど」とも書かれている。これは法律の話ですよね。つまり、舛添さんの頭の中では、道徳、文化や芸術、法というものがそれぞれ別のものとして捉えられているんじゃないかと思います。
でも、それは1つの捉え方に過ぎません。だとすれば、そこに違和感を感じる人がいるのは当然です。
例えば、舛添さんに対して「法律だって非道徳的じゃあ困るんじゃないですか?」と聞きたくもなるわけで、つまり、法律だって道徳に基づいていて欲しい。だとすれば、芸人であれ誰であれ、道徳を大事にしなくちゃいけないことになります。
私たちはこういった言葉を日常会話ではなんとなく使い分けているんですが、重要な場で定義づけがなされていないと、そこで齟齬が生じてしまい、トラブルが起きるんですね。
-- そういった日常で曖昧に使われる言葉の定義づけをしっかりとしていくことが倫理学の一つの役割なんですね
そうです。曖昧なのは倫理学ではなく、我々の倫理や道徳についての理解なんです。だから、整理して曖昧でなくするために倫理学が必要。
-- もう一つ、ではなぜ我々は倫理的に振る舞う必要があるのか、という問題がありますよね
法律も倫理・道徳に基づいているべきだとしても、法律には特徴があります。法律を犯すと罰が与えられる。でも倫理はそうじゃなくて、外から強制する力を持ちません。むしろ人々がそれに納得することによって自ら従うというところにポイントがあるんです。納得して従うんだったら、それは押しつけじゃなくて、自分の自由で行うことにもなります。意外に思えるかもしれませんが、倫理学の目的は、我々を自由にすることなんです。
差別はどうしていけないの? 倫理的に考えると?
-- 自ら従うといっても、守りなさいと言われるようなこともありますよね。たとえば「差別はいけない」とか。これを倫理学的に説明するとどうなるんでしょうか
倫理学で「差別はなぜいけないか」ということを考えるには、なぜ差別するのかということについて考える必要があります。
差別というのは、人を分けるということですよね。ではなぜ、人を分けるのか。それは、仲間を作ることの反作用だと考えることができます。つまり仲間を作ると「仲間以外」が生まれる。そうするとそこに違いが生じ、対立が生じる可能性が出てくる。
私たちが「差別はいけない」というのは、「人間の間には違いはなく、等しい」と考えるからです。そのときにあるのは、「どんな人もみんなそれぞれに権利を持つわけだから、そういう、お互いの領分を守りましょう」という暗黙の前提です。もちろんこれは正しい。これが「正義」の基礎です。でもそれは建前としては正しいけれども、それだけでは自分を安心して委ねられるような場所、自分自身の拠り所は得られない。
「建前だけでは寂しい、自分の居場所を与えてくれるもの、仲間が欲しい」というのは当然です。でも、「仲間じゃない」ものは簡単に「敵」にされやすい。「敵は憎い」。そうなるとナショナリズムだとか排外主義だとかになってしまう。
-- ここまでが差別が生まれる理由ですね
ええ、そうです。
で、仲間を大事にすること自体は「よい」こと。でも、それを「正しい、正義だ」と思ってしまうと、ちょっと違います。「敵は嫌い、憎い」という気持ちから「だからやっつけてよい」になってしまいがち。でも、これは自分の中にある憎しみの感情を「正義」と取り違えているだけです。
「正しい」ことは全ての人にとって同じであるべきなのに、「自分の仲間だけを大事にすればよい」と、まるで「なんとかファースト」のように思い込んでいるわけで、この思い込みが差別を産み対立を産む。そこで、もっと広く全体を見る必要が出てくる。この、全体としての正しさから見れば、「仲間だけが大事、違う奴らはやっつけてよい」という差別は「いけない」ことになりますね。
授業でも、「正義は国や文化によって違うと思います」と書いてくる学生さんはものすごく多いんですけど、それは特定の集団や仲間にとっての「よさ」を、全ての人にとっての「正しさ」と混同しているわけです。
-- なるほど、倫理学では他者との関係性を起点に「正しさ」や「よさ」を考えていくんですね。近年、ネット上では他者とのつながりが大きなウェイトを占めるようになってきていますが、倫理というものに変わりはないのでしょうか
倫理とか道徳というのは、人間の生存の条件が変わらなければ、あまり変わらないものです。しかし、現代は人類史上はじめて、情報技術の発達で人間関係の距離の取り方に戸惑っている時代になっているのかもしれません。
普通のサラリーマンでも、居酒屋で会社の愚痴を言ったり、社会が悪いというようなことを言う。それは仲間内では許容されるわけですよね。それがインターネット上に書き込まれると、仲間内とは違う領域にまで発信されてしまう。ところがぼくらの意識は仲間内に止まっているので、許容されず、困惑することになる。
これまでの時代は、人前に立つときには建前、家庭の中では本音、というように状況がわかりやすく分けられていました。いまはその区別が非常に難しくなってきていて、ごちゃ混ぜになったときにトラブルが起きていると思います。
「とにかく倫理的に!」より、「倫理のレベル分け」をしてみよう
-- いわゆる「炎上」ですね。とすると、これから私たちは倫理や道徳を強く意識して生活する必要があるのでしょうか
そうだけど(笑)、やはり人間はそこまでしっかりしていないというか、いい加減なところがあるので、「よしっ、いつでもどこでも道徳的!」と頑張るとあまりうまく行かないかもしれない。それよりも、いくつかのレベルを設定しておくのが賢いやり方になるのではないでしょうか。
ものすごくざっくり言うと、倫理っていうのは「人を大事にする」ということです。でも、そこにはいくつかのレベルというか、場面が区別できます。ざっくり言って社会、身近な関係、個人という3区分です。
私にとって身近な人、仲間は大事です。でも、同時に、我々は知らない人たちと社会を作って生きている。そういう知らない人たちのことも、「すごく大事」とまでいかなくても、少なくとも差別したりしない。これが最低限の「正しさ」です。さらに、他の人との関係から離れて自由になって、自分としてどう生きるかを考える場面、ここでは「正しさ」ではなく、むしろ「よさ」が大事。「正しさ」はみんなにとって同じでなければならないけど、「よさ」は個人個人で違っていていい。そして、社会と個人の中間にあるのが、大事な人との関係、仲間。ここでは、ざっくり言って「正しさ」と「よさ」が混じっています。
そして、この3つを分けた上で、切り替え、バランスをとることが大切です。
-- なるほど、常に高い倫理観を求めるのはやはり難しいですから、切り替えを意識する方が現実的ですね
この3つはさらに細かく分けられますし、その具体例はふだんの生活、マンガや小説、映画やドラマにたくさん見つかるので、それらについては本にまとめました。
『ふだんづかいの倫理学』平尾昌宏 - Amazon.co.jp
でも、書き終わった後で、自分が書きたかったのはこういうことかと改めて気付いたことがあります。倫理や道徳について強調する人も否定する人も、ある意味で純粋さを求めすぎているということです。そして純粋さを求めるからこそ、うさんくさくも感じてしまう。
物語の世界にいる昔ながらのヒーローは、悪者を倒す純粋な「正義」のように見えるかもしれませんが、それは純粋と言うかナイーブと言うか、現実的な倫理や道徳性とはかけ離れています。そういう「純粋さ」って、悪く言えばものごとの複雑さを考えない「単純さ」かもしれない(笑)。何せ悪い奴は全部同じように「ちゅどーん!」とやっつけてしまうわけだから。
そういう純粋さ、単純さのままに「ともかく倫理的であれ」、「常に正しさだけが大事だ」と言い続けると、それ自体が摩擦を生みかねません。特にこれからはさまざまな人がさまざまな場所で交流する時代になるでしょうから、まずはそうした多様性を互いに認め合うことです。ただ、そうは言っても「これはいいけど、これはだめ」と感じことがあるでしょう。そうしたら、なぜそのラインが引かれるのかを自分自身で考えていく必要があると思います。その際に大事なのは、先ほどお話ししたように、最低でも3つの領域を分けた上で、それぞれの領域で何が大事になるのかを見極め、柔軟に切り替えることだろうと思います。
倫理学の仕事は倫理の基本を整理するところまで。そうした倫理の基本を使うのは我々の一人一人です。倫理学が細かいところまで全部決めるのではありません。いくつかある倫理の基本を自分なりにバランスよく使う。そうすれば、そこに一人一人の個性が生まれ、我々自身が自分の人生の主人公になる。これが「生きる」ということです。
プロフィール
平尾昌宏(ひらお・まさひろ):専門は哲学、倫理学。立命館大学などで講師を務める。著書に『愛とか正義とか』(2013)、『哲学、する?』(2018)。
【更新】文中でピエール瀧さんが「覚せい剤」を使用したとの記述がありましたが、正しくは「コカイン」でした。お詫びして訂正します。(5/23 14:30)