「世襲批判は受けるしかない」中曽根康隆議員が語る、政治家として働くということ - BLOGOS編集部

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※この記事は2019年05月17日にBLOGOSで公開されたものです

祖父が首相、父が外務大臣――。

家族が政治家だったとき、その働きかたは子どもたちの目にどのように映るのだろうか?

祖父に首相中曽根康弘氏を、そして父に現役で参議院議員を務める弘文氏をもつ中曽根康隆氏(37)。2017年に衆議院選挙に立候補し、初当選した。

民間企業で5年間勤めたのち、政界に飛び込んだ康隆氏に、政治家の孫・子どもとして、また、当事者として、政治家という仕事について語ってもらった。【石川奈津美】

「どれだけ頑張っても僕の努力が評価されることはない」と感じた幼少期

――生まれた時から「政治家」という仕事が非常に身近なものとしてあったのではないかと思います。幼少期の記憶で印象に残っていることはありますか?

私が生まれた年、1982年に祖父が総理大臣になりました。祖父が総理大臣を務めたのは私が0~5歳までのことだったので記憶はそこまでないのですが、ただ、物心ついた時には、家の前に常時、警察官がいましたね。

「どこの家でもみんなお巡りさんがいるのかな…」というのは冗談ですが、何でうちの前にはお巡りさんが立っているんだろう。何かがおかしいなと感じたことを覚えています。

「総理の孫」と自分を意識するようになったのは、小学校2年生ぐらいになってからです。小学校に入って教科書に祖父が出てきたり、周りから「中曽根さんのお孫さん」とどこへ行っても祖父基準で自分のことを紹介されるようになりました。

小学校受験にしても「受かるでしょ、中曽根の孫だから」。抽選で何度も落ちてやっと当選したコンサートのチケットでも「中曽根の孫だしコネで取れちゃうでしょ」と。

何をやっても当たり前として受け止められましたし、「どれだけ頑張っても私の努力が評価されることはない」とイジケていた時期もありました(笑)。

――政治家の場合、家族がトラブルを起こすとメディアで取り上げられるなど、周囲の目も厳しくなります。

中学にも入れば多少やんちゃしたくなる年頃です。同級生たちが楽しそうにしているのを見てうらやましく思ったこともありますが、スポーツにひたすら明け暮れ「いい子」にしていました。

高校に入り17歳のとき、父が文部大臣になりましたが、自分の父親が教育行政のトップに立っている時に、その息子が酒を飲んだ、タバコを吸っていたとして、そのことがもしメディアに出たとしたら父の政治家生命も終わる…と自然に自覚していました。

私本人が見られているというよりも、私の印象や評判が祖父や父に直接影響を及ぼすということは、ずっと感じてきました。結果、誰に言われるでもなく自分を律していました。

突然「あいさつしてきて」と、300人の前にポーンと出された選挙応援

――政治家の仕事でもっともタフなことのひとつは数年に1回仕事を失うという「選挙」です。いつごろから手伝うようになったのでしょうか?

公職選挙法で、家族であっても当時は20歳以上でないと活動できないので、初めて手伝ったのは大学3年生のとき、6年に一度改選を迎える父の選挙でした。

大学の授業を6限で終えると、そこから東京駅に直行。そのまま群馬に向かいました。

集会場に着くと、「長男としてあいさつをしてきて」と言われ、地元の皆様の前にポーンと出されたのを覚えています。

大学では部活で体育会に所属していて学ランを着ていたのですが、会場の皆さんからすれば、いきなり制服を着た男の子が壇上に上がってきたので、「この高校生誰?」と、ポカーンとした空気になっていました。

スピーチの準備も何もしていないので、皆さんに「父は本当に皆さんのことを、群馬のこと、国のことを考えてます。どうぞ父をお願いします」とお願いをして。

そこから選挙中には、学校が終わると群馬に行って手伝ったり挨拶回りをしたりという生活が始まりました。

――それはご自身で決めて行かれていたのでしょうか?

いえ、勝手に組み込まれていました。行きたい・行きたくないという選択肢は私には一切ありませんでした(笑)。

やはり、本人の代わりに秘書が行くのと、家族が行くのとでは相手の受け止めが違っているんですね。まずは本人。次に奥さん、そして子ども。だからこんな私でも行って喜んで下さる方がいるならという思いで必死に駆け回っていました。

こういった経験から選挙では家族も大きな「戦力」になることを子どもながらに実感しました。

「政治家になるつもりは一切なかった」

――大学院卒業後は、外資系の証券会社に就職。どのような理由があったのでしょうか?

はじめはまったく政治家の道は考えていませんでした。

特に私は金融に対する苦手意識が強かったので、20代のうちに克服したいと思いあえて金融機関への就職を決めました。

また、大学院は米国ニューヨークに留学したのですが、大学の近くにはウォールストリートもありそこで働く人たちとの交流もあったため、自然な流れでアメリカ資本の証券会社に願書を出し、面接をすることになりました。

証券会社では、債券営業本部で発展途上国の債券の売買していました。目の前に6個ぐらいのスクリーンを並べ、ブラジルとニューヨークを電話でつなぎながら仕事をして…と資本主義の最先端の環境で働かせてもらっていました。

ただ、元々苦手意識を克服しようと思って入ったので、「これこそ自分の仕事だ!」と思ったことはなく、勉強や知識欲のためということで仕事をしていました。

――その中で、政治家になるという思いへどのように変化していったのでしょうか?

必死で働き仕事にも慣れた3年目にもなった頃。働きながらも、父の地元活動の手伝いで週末は群馬に通っていました。

群馬では、支援者の方たちのご自宅を一軒一軒ごあいさつに回っていたのですが、突然の訪問にもかかわらず、「これ食べていきなよ」とそのご家庭のたくあんや、おにぎりをいただき、息子の私に本当に良くして頂きました。

月~金曜日は丸の内で資本主義のど真ん中にいて、週末は自然豊かな群馬県を自分の足で一軒一軒訪ね、インターホンを押す両極端の生活を1週間の中で繰り返すうちに、ふと、「都心と地方で環境は全く違うけれど、どちらが幸せなんだろうか」と考えることもあり、都心は確かに便利でモノに溢れていますが、群馬での生活も、とてもクオリティタイム(幸せな時間)だと感じました。

さらに、回れば回るほど、祖父や父がどれだけ地元群馬の皆様にお世話になってきたかということを日々感じるようになりました。

群馬の皆さんのおかげで今の私があるなと感じ、その方々のお孫さん世代に私が恩返しすることができたら、そしてそれは自分だからこそできることなのではという感情、格好良く言えば使命感が芽生えました。

また、私は政治というものが国民生活に密接に関係していて、極めて責任が重いものであるということを、祖父と父を身近に見て肌で感じていました。しかし、今、あまりにも多くの人にとって政治が「他人ごと」になってしまっている。

もっと政治を国民にとって身近なものとしたいという思いもあり、政治の道を志すことに決めました。

「政治はそんなに甘いものじゃない」父は政治家になるのを反対

――政治家になることを決めた時、ご家族の反応はどのようなものでしたか?

父に秘書にして欲しいと伝えると「だめだ」と却下。「政治はそんなに甘いもんじゃない」と言われました。

自分としては気持ちも固まってるし、とにかく秘書になって勉強したいんだということを説明しようとして、「父上へ」と手紙も書きましたが、だめだの一点張りで平行線をたどり、2年が経っていきました。

許してもらえない日々が続く中、最後は「もう、らちが明かない」と思い、退路を断つことに決め、ある日突然、会社を先に辞めることにしました。

会社に辞意を伝えたその日の夜、父に「今日、会社に辞めると言ってきたので、とにかく名刺を用意してくれ」と伝えると、父も私の覚悟を理解してくれ、なんとか秘書となりました。

――その時お父さんは何ておっしゃっていましたか?

驚いていたというか、呆れていましたね。

確かに、政治家に実際になってみると、もちろん自分で選んだ道であり毎日充実していますが、民間企業で働いていたときと比べても、想像を超えるくらい重責を担っていることを日々痛感します。

さらに、私の場合はその仕事の大変さに加え、「中曽根」という名前を背負い、この世界に入ることになる。そのつらさを一番知ってるのが父です。

金融という分野で、一社会人としてやっていけていたので、父にとっては「それでいいのでは」という思いもあったのかもしれないし、親心として息子には同じ思いをさせたくなかったのかもしれません。

だからこそ簡単にいいよとは言わなかったのだと思います。

はじめは1人も友達がいなかった群馬

――秘書として働いてみて、民間と比べた仕事のつらさは具体的にどんなことがありましたか?

私にとってはつらかったのは群馬での仲間づくりですね。父の秘書になり1年が経った頃、東京・永田町の議員会館の秘書から地元の秘書になり群馬に移り住むことにしました。

生まれ育ちが東京でなので、群馬の友人はひとりもいません。なので、自分の仲間を作るべく、まずご縁会って出会った人に「今度、一緒に飲んでください」とお願いするんですね。30歳を超えて「友達になってください」とお願いするのは、正直恥ずかしかったです(笑)。

だけれど、同じ小学校や中学校といった同級生もいませんので、そうやって自分の世代の仲間を作っていく以外ありませんでした。今考えると、本当に肝臓を使っていました(笑)。

――政治家の場合、飲み友達からさらに「支援者」になってもらいたいという思いもあるのでは

そうですね、私の場合、可能であれば自分を応援してもらいたいという気持ちがあるので、私という人間を2時間の中で判断してもらうという、いわば食事面接みたいなものでした。

様々なイメージを持たれていましたが、等身大の30歳の若者である姿を見てもらうことで「こいつ全然、おれらと一緒で普通じゃん」と、まず自分のイメージを良い意味で壊すことから始まります。その後、熱い想いを伝え応援してもらえるかどうかを考えてもらうといった感じです。

「今度、俺の仲間とまた飲もうよ」と言ってもらえると、本当に感無量なのですが、もちろんそんなに甘くはありません。「お前のこと知らないし、そもそもこの会は何なの?」といきなり目の前で言われることも日常茶飯事でした。

でもそういった出会いをひとつずつ積み重ねていったからこそ、今の仲間たちとのつながりができていきました。よそ者だった私を受け入れてくれた仲間達には心から感謝していますし、これからを共に歩んでいく大切な同志です。

「世襲批判は、受けるしかない」

――同世代の政治家というと、党内の小泉進次郎議員と比べられる機会も多いかと思います。

進次郎さんは同い年で、同じアメリカの大学院出身です。地元の特に年配の方たちからは「同い年だし小泉進次郎に似てるね」と言われることもあります(笑)。

ライバル意識はあるのかとよく聞かれるのですが、まったくありません。進次郎さんはもう4期生で、私はまだ1期生です。また、私と比べても進次郎さんは知名度も発信力も抜群にありますし、食事を一緒にさせていただくこともあるのですが、いつも勉強をさせてもらっています。

――おふたりとも政治家一家。世襲制に対する批判もあると思いますが、どのように受け止めていらっしゃいますか?

世襲批判は、受けるしかないと思っています。地盤・看板・カバンといわれる世襲で批判される3つのバンを少なからず享受してる部分はあるし、下駄をはかせてもらってるということも事実です。

ごもっともなところも本当にあるから、その批判は受ける。その上で、自分自身が政治家として成長し、仕事で結果を出す事でしか、自分自身を認めてもらうことはできないと思っています。

進次郎さんもご本人がどのように感じているかどうかはわかりませんが、今や、誰も「小泉純一郎の息子」とは言わず、小泉進次郎といいますよね。むしろいまは「小泉進次郎のお父さんは総理大臣だった」とか、俳優の小泉孝太郎さんが「進次郎さんの兄」だと言われる機会も多いのではないでしょうか。

こうした「逆転」の変化は、よほど本人が政治家として認められないと起こりません。本当にすごいことだと思っています。

元号も変わり「令和」の時代が始まりました。政治家としてどのような社会にしていきたいですか?

30代は、令和時代の日本をまさに中心となって引っ張っていく世代です。元号が変わるこのタイミングに、私が37歳という年齢で国会議員のバッジをつけさせてもらえているというのは、極めて責任が重いことだと感じています。

まずやるべきは「当たり前」を今一度見直すこと。昭和・平成で当たり前だった制度や仕組みはこれからの令和の時代では通用しない事が多い。急速に進む少子高齢化を踏まえて、今から30年、40年と持続可能な社会の仕組みづくりをしていく事が急務です。

また、これからの時代を担う若い世代に対して、政治を身近に感じてもらうということに当事者として取り組んでいくことが重要だと感じています。

若い世代はfacebookやtwitter、instagramなどを日常的に使いこなすデジタルネイティブ世代です。私もツールのひとつとして使っていますが、これからどんどんテクノロジーが進化しても、いつの時代も変わらず、政治家自身が有権者に出向き直接会って話をすることで、初めて政治というものを具体的にイメージできるようになると思っています。

一般的に国会議員は「金帰火来」(金曜の夜に地元に戻り火曜に東京に来る)と言われていますが、だからこそ私は国会会期中もほぼ毎日、群馬に帰り地元の人たちに会うようにしています。

「トイレにいるとき」ぐらいが休息だといっても過言ではないくらい、休日もなく、プライベートもない仕事ですが、議員の仕事は国民の皆様の大切な主権をお預かりして、立法府において代弁者として国民の声を届けることです。そのため、これからも、ひとりでも多くの人たちに向き合い、その声を政策に反映していきたいと思います。