※この記事は2019年05月13日にBLOGOSで公開されたものです

国を挙げて働き方改革が進められ、オフィスを持たないノマドワーカーや会社に所属しないフリーランスなど、時間や場所に縛られない働き方を選択するビジネスパーソンが増えつつある。こうした働き方は、私たちに幸福をもたらしてくれるのだろうか。

テラケイや白饅頭といった名義でインターネットを中心に社会問題についての言論活動を行う御田寺圭氏が、「フリーランスで働くことの危険性」について指摘している。

去年の秋ごろのことだ――春に大学を卒業して働き始めるという若者から、なにやら深刻な相談を受けた。

話を聞けばどうやら彼の内定先は有名な大企業で、配属先も教えてもらっており、ときどき出社しては職場体験のようなものもさせてもらっていたらしい。ところが、もはやこの時点で働きたくなさが自分の中に満ち満ちてきてつらいのだと彼はいった。

そこで、できれば私のような「会社で働く」という縛りを受けていない(ように見える)生き方をしたいようで、フリーランス的な生き方を送るには、具体的にどうしたらよいのか――という相談だった。なぜ会社で働きたくないのか問うと「そもそも会社でやっていける気がしない。きっと自分は社会不適合者だと思うから」と答えてきた。

このほどの彼にかぎらず「会社組織でやっていける気がしないから、なんらかのオルタナティブな生活の方法を見出したい」という若い人からの相談はしばしば受ける。「オルタナティブな生活」とはようするに「正社員ではない生き方」または広く定義をとれば「会社にしがみつかなくてもよい生き方」というようなことだろう。

たしかに憧れる気持ちはわからないではない。時間や場所に縛られず、また場合によっては稼ぎもそれなりに良さそうな人びとの姿は「まだ会社で消耗してるの?」といわんばかりの強いメッセージ性をもって、若者たちの目に飛び込んでくる。

しかしながら、人生の一大事を相談する相手にわざわざ私を選んでくれたのに申し訳ないのだが、正直なところ「オルタナティブな生活」などやらないですむならその方がよいと私は考えている。それなりの会社で正社員が勤まるのであればそれに越したことはない。

新社会人が働き始めて陥る錯覚

会社で働くあるいは「社会人(かっこつき)」として暮らしていく、というのは実際にやってみないとわからないところが多々ある。よくわからないなりに何年かやっているうちに「①問題なくやっていける人/②なんとかやっていける人/③ギリギリでふんばれる人/④どうしても無理な人」というルートが存在することが実感的に見えてくる。さらに時間が経過すれば自分がそれらのうちどのルートを進んでいるのかもわかってくる。

やっかいなのは、最初はだれもが「やれない人」というステータスからスタートするということだ。自分がまだどのルートの人間なのかがはっきりしない状態だ。このことに気づかないと、あたかも自分は最初から➃のルートにいるかのように錯覚してしまうのだ。すこし我慢をしていれば錯覚はやがて解けて、本当の立ち位置はかならず見えてくる。ただしそれがいつになるかは個人差がある。早い人なら2~3年でわかるかもしれない。長くかかった場合は10年がかりでもおかしくはない。

「自分は会社で、社会でやれる気がしない」と、働く前から強く念じてしまうと、すべての人に平等に訪れる「やれない人」のフェーズで「ほらみろ、やっぱり自分はやれない、無理な人間なんだ」という確信を強めてしまいかねない。もう少しがんばれば➀~➂のどこかに着地するかもしれなかった人が、この「やれない錯覚」によって早々に④のルートを積極的に選択してしまうのはもったいない。

サラリーマン生活にうんざりしてフリーランスを目指す人にとってはたいそうウケが悪い話なのは百も承知だが、そこにいては自分の命にかかわってしまうような究極的なことがないかぎりは、つらいだろうが可能なかぎりふんばって、働ける道(正社員としての道)を模索した方がよいだろう。

「脱社畜」ムーブメントがはらむ危険性

オルタナティブな生き方をいま風にいえば、ノマドワーカーとかフリーランスなどがそれに該当するのだろう。そうした働き方が向いているのはどのような人だろうか。適度に自分を律することができ、規則正しい生活を送り、外部の人とのコミュニケーションに抵抗がなく、定期的かつ具体的な連絡が可能――などの能力を有していることが望ましい。

しかしながら、それらは結局、会社員として通常のオフィスワークを行う際にも重宝されるものなので「会社組織でやれないからフリーランスがよい」という考え方でやるとかなり厳しい展開になるだろう。

社会的(会社組織の一員としての)スキルがことごとく欠如しているにもかかわらずオルタナティブな生活を成立させている人は「⑴ なんらかの代償的な方法を発案して疑似的に会社的スキルが高いように調整している」とか「⑵ 社会的スキルの欠如が不問になるほどに特定の領域の能力が高い」といった生存戦略をとっている。

⑴⑵どちらもやれない人だと、フリーランスという名の実質的ニート生活が待っている可能性が高い。インターネットで目立つのは⑴⑵いずれかの能力を持つ人であり、そうでない人は可視化されないから、フリーランスになればだれしもが⑴⑵に落着するとさえ錯覚してしまう。

ちかごろは「いまどき正社員にしがみつくのは負け組」のような風潮があたかも主流となっているかのように思えてしまう。会社組織の枠を超えて華々しく活躍している人たち、豊かな生活をしている人たちがあちこちで目につく。賛否両論は激しいながら「脱社畜」的なムーブメントはその時流のひとつの象徴なのかもしれない。

彼らが(かつてフリーターがそのように時代の寵児かのようにもてはやされていたように)道に迷いがちな若者たちを悪意でもって騙そうとしているとはことさら思わないが、しかし現代においてもっとも多くの人を「食わせてきた」のは会社的世界観の方だろうとは思う。試行錯誤を重ねて、ふんばりにふんばりを重ねて、熟慮を重ねたうえで、それでもやはりダメだったときにだけ、➃の道へと続く門をくぐる方がよい。

④の道を選んで幸運にも成功した人たちは「毎年毎年、宴会芸の練習させられる奴隷乙」とか「毎朝満員電車で消耗して哀れ」などとしばしば煽ってくるかもしれない。経緯はどのようなものであれ、彼らは結果的に会社的世界から「お前は不適合者だ」と烙印を押されて追放された人びとが多少含まれているので、それくらいの恨み言を放つのは仕方ないことだ。

しかし、「こっちは自由で楽しい世界だ。お前もこっちにこいよ。いつまでそんなところで人生を浪費しているんだ?」といってはばからない人たちがいる④の道の路傍には、社会から捨てられたが、しかし華やかな成功を手にした人びとのようにもなれずに沈殿し、不可視化された人たちの悲しみや絶望であふれている。

――私はおそらくいま③の道にいるが、まもなく④の道に切り替わりそうである。③と④の境界ギリギリのエリアをとぼとぼ歩いている。旧友たちはみな、①の道あるいは②の道でがんばっている。本当のことをいえば、彼らに対して強い憧れとコンプレックスがある。

ちゃんとした社会人をやれなかった自分に対する情けなさと、彼らへの憧れが、こんな文章を書かせたのかもしれない。もし神様がやってきて、もしいまからでも①や②でやっていけるような人間に変身させてくれるのなら、いまのすべてを失ってでもそうしたいとすら思う。

現代社会の仕事は、たとえコンビニのアルバイトであろうが非常に高度で複雑化している。「楽」な仕事など根本的な意味ではほとんど失われている。けれども若い人は、最初からあきらめたりしないで、自分の足元や行く末を見えにくくする靄(もや)が晴れるまで待ってみてもよいだろう。④の道は暗く険しい崖道だ。④の道の成功者たちがあまりにまばゆいから、崖下深くにある多くの人びとの悲しみが見えにくくなっている。

プロフィール
御田寺 圭(みたてら・けい)
会社員として働くかたわら、テラケイ、白饅頭名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS」などにも寄稿。デビュー作『矛盾社会序説』が11月に発売された。