新しい資本主義実現会議で発言する岸田文雄首相(左端)。左から2人目は山際大志郎経済再生担当相、10月26日の第一回会合(写真:時事通信)

「新しい資本主義実現会議」は8日、当面の経済対策や税制改正へ向けた緊急提言案を取りまとめた。岸田首相が強調してきた「分配戦略」の文脈では、「金融所得課税」のような課税強化策は盛り込まれず、「賃上げ税制」といった施策が中心となった。第2次安倍政権のときから「賃上げ」はデフレから脱却するという「成長戦略」の文脈でも重視されてきた経緯があり、「分配戦略」なのかどうかは疑わしいうえに、「賃上げ税制」は第2次安倍政権下で創設されているので、目新しさもない。


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このような「成長と分配」の「混同」は11月9日に行われた経済財政諮問会議でも散見された。民間議員が提出した資料によると、「リスキリング」(学び直し)の推進によって「誰もが何度でもチャレンジできてやりがいのある社会、格差が固定化しない社会を構築できる」と分配の文脈で説明された。この解釈は筆者にとって目からうろこであった。しかし、「リカレント教育」や「リスキリング」はこれまでの政権が主張していたように「成長戦略」だろう。

看護・介護・保育士の給与引き上げが焦点

さまざまな政策を具体化する中で、岸田首相の色は薄まりつつあり、「新しい資本主義」が「どこへ行こうとしているかまだわからない」(内閣官房幹部)という声も生じているとのこと(朝日新聞、11月9日付)。だが、首相周辺によれば看護や介護、保育で働く人たちの給与引き上げを中心とした「公的価格の引き上げ」に対する岸田首相の「思い入れは強い」(同、11月10日付)という。

この政策こそ、かなり「分配政策」の面が強く、「成長戦略」とは距離があると、筆者は考えている。財源が決まっておらず、政策の最終的な形は定まっていないものの、この政策が広く受け入れられるかどうかが、「新しい資本主義」の成否を占うことになるだろう。

今回のコラムでは、「公的価格の引き上げ」が経済に与える影響を議論することで、「新しい資本主義」の考え方に迫っていく。

結論を先に述べると「公的価格の引き上げ」によって、介護・医療・福祉業そのものの生産性を引き上げ成長率を押し上げることは、いくらかは期待できるものの、これらの産業に従事する人が増えることで、マクロレベルでは日本経済の生産性が低下する可能性が高い。介護・医療・福祉のサービス充実と、これらに従事する人の待遇を改善することと引き換えに、いったんは経済全体の生産性を犠牲にすることになるだろう。

また、国民は一定の負担を強いられる。内閣官房幹部は、「人件費なので安定財源がいる。賃金引き上げをやるために、簡単ではないが財源を寄せ集めなければならない」としている(朝日新聞、11月10日付)。現役世代や高齢者が月々払う介護保険料や、医療費の窓口負担が連動して増える懸念も指摘されている。政府関係者は国民の負担増について、「それだけのサービスを受けるんだから、社会システムを維持するために理解してもらうしかない」と話すが、一定の反発も予想される(同)。

財務省の矢野康治財務次官はいわゆる矢野論文(『文藝春秋』11月号掲載)で「国民を侮るな」と、バラマキ政策を批判した。「新しい資本主義」の議論も、「総花的に成長戦略を並べておけばよい」というこれまでの政府のメッセージ(少なくとも、筆者はそう感じてきた)に対して、「国民を侮るな」という、これまでの政権の安易な姿勢への反省なのかもしれない。

医療・介護・福祉業の就業者は増加する

「公的価格の引き上げ」が行われれば、人手不足感が強い「介護サービスの職業」や「保健医療サービスの職業」の就業者数が増えるだろう。これらの業種の有効求人倍率は高水準にあるからだ。そのうえ、厚生労働省によると介護職員の必要数は2022年度に2019年度比で約22万人増、2025年度には同約32万人増と、右肩上がりで増加していく見込みであり、人材確保が喫緊の課題である。


人手不足感を示す日銀短観の「雇用人員判断DI」(「過剰」−「不足」、2019年3〜12月調査平均)と「きまって支給する給与」(2019年平均)を比べると、正の相関関係(給与が低い業種ほど雇用の不足感が強い)が得られる。政府が介護・医療・福祉業の賃金を上げる姿勢を明確に示し、実行していくことにより、こうした業種の労働者が増加しやすくなるだろう。

医療・介護・福祉業の人手不足問題の解消と引き換えに、マクロ経済全体の生産性は低下するだろう。「公的価格の引き上げ」によるマクロ経済における最大の影響は、生産性が相対的に低い産業への労働移動が促される点である。

11月9日の経済財政諮問会議では、民間議員がリカレント教育の必要性について「人々がいつでも学び直し、能力向上を図ることができる環境を整備し、成長分野への労働移動を促進することが必要」としたが、(現状では)労働生産性の低い医療・介護・福祉業への労働移動は、この考えとは正反対である。

必要性と生産性をどう考えるか

紱田(2019)によると「高齢化の進展で医療・介護分野が拡大する中、これらの分野の労働生産性が低い水準のままにとどまれば、マクロ的な労働生産性が低下していく」という。秋元(2021)も、過去20年程度の業種別の産業構造とTFP(全要素生産性)の変化を分析し、「経済全体に占める付加価値シェアが高まっていくことが想定される医療・福祉等の産業分野において、重点的に生産性向上の取り組みを進めることが重要であると考えられる」としている。

<参考資料>
・ 紱田雄大(2019)「医療・介護セクターの拡大によるマクロ労働生産性への影響」、財務省ファイナンス、コラム経済トレンド
・ 秋元虹輝(2021)「産業構成の変化によるTFP上昇率への影響と今後の見通し」、財務総研リサーチ・ペーパー

2019年時点で実質労働生産性(1時間当たり)は全業種(5761円)と「保健衛生・社会事業」(3200円)となっており、約44.4%乖離している。日本経済全体では、「保健衛生・社会事業」を含む産業構造の変化による労働移動によって、1995〜2019年の累計で実質労働生産性は約2.9%低下した。


2019年のデータによると、「保健衛生・社会事業」の雇用者数の比率は約12.6%である。仮に、「保健衛生・社会事業」の雇用者数が1%増加すると(他の業種は減少)、経済全体の実質労働生産性は約0.5%低下する。

紱田(2019)によると、今後も高齢化等の要因で、「保健衛生・社会事業」の就業者数は増え続ける見込みであり、保健衛生・社会事業の産業別就業者の就業者全体に占める割合は、2030年には15.1%程度、2040年には17.5%程度に比率が上昇するという。これは、年当たり約0.1%の実質労働生産性の押し下げに相当する。

秋元(2021)は、「TFP上昇率の高い産業が必ずしも付加価値シェアを拡大してきた訳ではない」と分析している。また、筆者も2017年3月の東洋経済オンラインのコラム「個人の『働き方改革』では生産性は向上しない」で、「社会における必要性が産業構造の変化を生じさせる可能性が高い」と分析した。

実際に、あまり実質労働生産性と就業者数の変化には関係がなさそうである。特に、「保健衛生・社会事業」は1994年以降の実質労働生産性の変化率がマイナスであるのに対して、就業者数が大幅に増加している。人々は経済合理性の観点とは関係なく、社会の必要性などに鑑み、就業する業種を選択しているのである。


むろん、これらの業種は恒常的に人手不足の問題を抱えており、経済合理性がまったくない訳ではない。「新しい資本主義」は、「社会の必要性」と「経済合理性」のバランスに介入することになる。「新しい資本主義」は時代の要請によって必然的に発生したものと言え、変化に身構える必要はないのかもしれない。

「新しい資本主義」には尺度がない

「経済成長」にはGDP(国内総生産)や企業利益といったわかりやすい尺度があるが、「新しい資本主義」にはそれが存在しないため、曖昧さが残る。

「新しい資本主義実現会議」では、有識者構成員の平野未来氏(株式会社シナモンCEO)から「成長の定義を、Inclusive Wealth(経済資本+⼈的資本+自然資本)としてはいかがか」という意見が示された。「GDPの追求だけでは限界があり、短期的な経済発展のみならず、持続可能性にも焦点を当て、多様な資本の充実を図り、⼼の豊かさや成長の持続可能性を実現すべき。成長の定義をより広範なものとする議論が必要と考える」という。

筆者のようなエコノミストがGDPに代わる尺度を予想する時代が来る可能性は否定できないが、相応に時間がかかる。「新しい資本主義」の議論は曖昧なまま進む可能性が高いが、「公的価格引き上げ」の動向が、その試金石となるだろう。岸田政権にとっては、本気度が試されることになる。