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努力は裏切っても、内村航平は裏切らない!

いよいよパラリンピックが始まるという時期ですが、その前にひとつ節目としてオリンピックの出来事を振り返りたいと思います。かつてない困難のなかで迎えた東京五輪、僕はひとつの言葉をずっと支えにしてきました。それは内村航平さんの「どうにかできるように、そういう方向に考えを変えてほしい」という言葉です。

僕はこの言葉を昨年11月8日に国立代々木競技場で行なわれた、コロナ禍以降初となる国際大会「Friendship and Solidarity Competition (友情と絆の大会)」で聞きました。テレビや報道を通じてではなく、現地で直接この耳で聞きました。それ以来、片時もその言葉を手放すことなく握り締めてきました。

当時、コロナ禍という事態のなかで自分自身も迷いながら、ためらいながらの日々でした。東京五輪はもちろん観たい。何よりもアスリートのためにやってあげたい。何とか試合だけでも。そう思いつつも同時に、とは言えアスリートも怖いだろうな、とも思っていました。こちらの「やらせてあげたい」は本当に後押しとなっているのだろうか。そういう後押しは求められているのだろうか。そんな腰の引けた気持ちを抱えていました。

しかし、あの言葉を聞いて腹が決まりました。

誰も自分の考えを強く言えずにいる状況のなかで、ほんの一握りの、この人こそはレジェンドだと思える真のアスリートがあの言葉を言ってくれた。困難を承知のうえで、どうにかしてできるように頑張ってみませんかと呼び掛けてくれた。できるかどうかはまったくわからない状況でしたが、最後までトライしてみようと。諦めはしないぞと。折れそうになる心を支えてくれたのは、あの言葉でした。


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その結果、内村さんは大変な逆風に打たれたと思います。ひょうひょうとして、体操以外は心にあらずというような人だから、逆風に潰されこそしませんでしたが、ほかの選手では耐えられなかっただろうと思います。率直過ぎるがゆえに、ざっくばらんであるがゆえに、内村さんの言葉すべてが揚げ足を取られ、すべてに罵詈雑言が飛び交いしました。生き死にに言及するような誹謗中傷も多数目撃しました。「生命を大事に」という正義を掲げる人が、簡単に他人の生き死にに言及することにおぞましささえ覚えました。

だからこそ、内村さんには最後に金メダルを勝ち取る瞬間を迎えて欲しかったのですが、現実は無情でした。予選でのまさかの落下。それも手放し技ではなくシュタルダー1回半ひねり片大逆手での落下。練習段階から落下が見られた技でしたので、今にして思えば別の技にしておけば、というタラレバ話もありますが、とにかくよもやの落下でした。種目別一本に絞っていた内村さんの東京五輪はこれで終わり、「僕が見せられる夢はここまで」と内村さんは姿を消しました。のちに聞けば、さすがの内村さんも落ち込んだそうで数日は体操も五輪も見られなかったと言います。

僕個人としても落ち込みましたし、ショックを受けもしました。うなだれる気持ちでした。しかし、ものすごく深く落ち込んだかと言えば、それは違うなとも思います。内村さんは試合で落ちたのです。それは正当な結果です。落ちないほうがよかったけれど、「落ちることができた」のだとも思います。もしかしたら鉄棒につかまることもできなかったかもしれない状況のなかで、この舞台に立ち、大技を決め、そして正当な試合の結果として落下で終われたのです。この一年半のことを思えば、納得するしかない終わり方だったなと思います。

そして、その落胆に囚われる隙もないほど、希望が押し寄せてきました。全員五輪初出場というなかでの男子団体銀。橋本大輝さんの個人総合金。そして種目別での萱和磨さんの銅、橋本大輝さんの金。女子でも村上茉愛さんが女子では初となる個人のメダルを手にし、盟友・寺本明日香さんの号泣も見られました。新世代への継承も、内村さんが持ち帰るだろうと思っていたメダルの確保も、「思い知ったか」の痛快さも、全部体操ニッポンの選手たちがやってくれました。「あれ?全部やってくれたじゃん」と思いました。

そして大会後には、事前の公言通りに橋本大輝さんが内村航平さんに金メダルを掛けに行ってくれました。そのとき、満面の笑顔のなかで「願いが叶った」と言ったのは橋本さんのほうでした。「内村さんに掛けてあげたい」という願いが叶ったのだと。そして、メダルを返すときにはニッコニコの橋本さんが「お願いします!やってやって!」の目でせがむなか、内村さんが橋本さんの首にメダルを掛けました。表彰式では自分自身でメダルを首に掛けたものを、「この人がプレゼンターだったら最高に誉れ高いなぁ」と思えるレジェンドから、首に掛けてもらったのです。しかも「継承します」の言葉付きで。受賞式本番以上の式典じゃないですか。

これが最高の結末だったかはわかりませんが、現実的にあり得たいろいろな可能性のなかで、「決して悪くない」世界線だなと思います。未来を選択できるガチャで「こうなりますけど、いいですか?」と聞かれたら、不確実な選び直しはせず、これを選んでもいいなと思える現実でした。東京五輪が行なわれ、内村さんがその舞台に立ち、狙っていたメダルが首に掛かったのですから。内村さん自身ではできなかったぶんまで、継ぐ者たちが代わりにやってくれて、思い描いた光景はほぼ見られたのですから。





もしあの言葉がなかったら、と思います。僕などは強い信念を持って五輪やスポーツを後押し…信じていますので、少々の逆風には負けない自信もありますが、今回は「少々」ではありませんでした。「猛烈」でした。そのなかで、「選手はきっと試合を望んでいるはずだ」と唯一の拠り所としたのが内村さんのあの言葉でした。誰も本心を言えず、発言自体も差し控えるような状況のなか、懸命に探し求めた言葉は内村さんから発信されたあの言葉でした。五輪に参加した選手たちの笑顔、そして涙のなかでも「幸せです」と語る姿を見たとき、言えずにいた本心をようやく確認できたような気持ちになりました。そして改めて、ハッキリと言葉にしてくれた内村さんに感謝しました。

今もなお、あの言葉を僕は握り締めています。東京五輪を経て、たくさんの素晴らしい光が放たれたことで、あの言葉ひとつを拠り所とする必要はなくなりましたが、それでもなお手放せずにいます。これから始まる東京パラリンピックをまっとうするために、そしてまだ数年はつづくであろうこの状況を乗り越えていくために、引きつづきあの言葉を頼ろうと思っています。「どうにかして、できるように」していくために、そういう世のなかであるように、自分の1票をそちら側に投じつづけるために。

10月の世界体操は、内村さんの地元・北九州での開催となり、内村さんも代表に選出されました。東京五輪ではできなかった納得の演技で、今度こそ世界一の体操を見せてくれるでしょう。金メダルを獲得できるかどうかはさておき、「内村航平と金メダリストの競演」を見られるなんて、こんなに胸躍ることはありません。勝って当たり前、優勝して当たり前と思われて久しいレジェンドが、背負ってきたたくさんの荷物を下ろして試合に臨む。ひとりの選手としてチャレンジする。何と新鮮で、何と見たくなる試合であることか。

それは「内村航平不在の未来を憂う」ことよりも、ずっとずっと軽やかで明るい世界です。

あの落下はもしかしたらバトンパスだったのかもしれないなと思います。あのときバーを握ったままでいれば、おそらく内村さんは鉄棒の金メダルを獲得していたでしょう。素晴らしい喜びが生まれたはずです。しかし、あのバーが手から離れたことで、未来の憂いが小さくなり、希望は俄然大きくなりました。すごい若者がすごいことをやってくれそうな希望が燃え上がりました。

東京五輪の体操会場を見渡せば、審判席には冨田洋之さんがおり、男子日本代表の監督には水鳥寿思さんが就き、鹿島丈博さんが日本代表のあん馬でのメダル獲得を解説し、米田功さんが日本代表が金を決める鉄棒を解説し、女子の解説を塚原直也さんがつとめている。こうやってバトンは人から人へ受け継がれ、バトンを渡したあともまたそれぞれの仕事をしていくのだなと思います。

あの日、東京五輪を支える言葉を言えたのは内村航平さんだけでした。

金メダルを獲ることは継ぐ者たちでもできましたが、あの言葉を言うことはできなかったでしょう。

それぞれがやるべきことをやり、バトンがつながった、そう思います。

「一番思い入れのある五輪で、一番思い出が残っていない」と内村さんは自嘲しますが、「何も思い出が残っていない」をどうにかして避けられたのは、内村さんの思いがあったからです。一緒に逆風に打たれた者として確信しています。あの言葉がなければ、こんなには頑張れなかったと。すでに金メダルという形で感謝は届いているとは思いますが、僕もこの大会の節目として改めて伝えたいと思います。

「ありがとうございました!」と。

奇跡のような好転で、10月には大手を振って九州に行けるような世界を期待しながら、ますますのご活躍を期待しています。もしも、いつかどこかでお会いする機会でもあれば、土下座で感謝させていただきますね!





この光景が東京五輪閉会式の最後のプログラムだったような気がします!