悲しみと向き合うために役立つ名言をお届けします(写真:Graphs/PIXTA)

旅行中に16歳の娘を失ったマーサ・ヒックマン氏。死別の苦しみを癒す数々のことばを書きとめ、カレンダー形式で1日1句を紹介する書籍『別れを癒す、365日のことば』が、全米で共感を呼んでいます。今回は同書を一部抜粋・再編集し、ヒックマン氏の思いと、2月1日から7日分の言葉を、お届けします。

死別の悲しみを消化するには時間がかかる

大切な人が亡くなっても、最初の数日はお葬式の手配やもろもろの手続きに追われ、悲しみを噛みしめる余裕はありません。友人や親戚は弔問に訪れ、気づかいの電話をくれます。ともに流す涙や抱擁、食事の差し入れ、思い出話が私たちを慰めてくれます。愛と励ましのなかに人々が集う葬儀は支えであり、希望なのです。

しかしお葬式が終わり、友人や親戚が帰ってしまうと、残された私たちはひとりで見知らぬ国に入っていくことになります。そこは、かけがえのない人がひとり欠けてしまった世界です。

心にはぽっかり穴が開いています。昼にも夜にも、穴が開いています。ふとした瞬間に――何度も何度も――喪失の痛みに襲われ、そうなると悲しみしか目に入らなくなります。痛みは大波のようにどっと押し寄せることもありますし、海辺で流木を持ち上げた後のくぼみに海水と砂が満ちるようにひたひたとやってくることもあります。

死別の悲しみを消化するには時間がかかります。亡くなったのが近しい人なら、心が癒えるには数か月どころか、何年もかかります。子どもや配偶者といった特別な人の死は、決して「乗り越える」ことができません。

それでも私たちが賢くあり、喪失の神聖な大地に何度でも踏みこんでいく勇気と心の支えに恵まれるなら、悲嘆に振り回される日々はいずれ終わります。悲しみをある程度自分でコントロールする余裕が生まれるのです。

必要なら危険地帯から引き返し、心がしっかりするまで離れていられるようになります。涙が頬を伝うたびにおぼれてしまうのではと恐怖に駆られることはなくなり、そのしょっぱさを味わう余裕すら生まれるでしょう。

なぜなら喪失の痛みと亡き人への愛は表裏一体であり、痛みに胸を貫かれるとき、私たちは宇宙の神秘のなかで故人と断ち切ることのできない絆で結ばれているという思いを新たにするからです。

「本質的なものというのはけっして死なず、物事を明らかにする」と劇作家のソーントン・ワイルダーは書きました。「死者への最高の手向けは悲しみではなく感謝だ」とも述べています。

いずれ私たちは右も左もわからない悲嘆の世界で、道を見いだすでしょう。人生から悲しみの色が完全に消えることはないかもしれません。しかし亡き人とわかちあった人生を祝し、亡き人が見守ってくれていると信じて未来に希望を抱く強さと能力は、いつかきっと身につきます。

悲しみはなくならないが、向き合うことはできる

私たちはみな喜びと悲しみの体験をもとに語り、物を書きます。私も作家として人として、死別の悲しみに揺さぶられてきました。

なかでも一六歳だった娘メアリの死には、二度と立ち上がれないのではないかと思うほど打ちのめされました。娘はコロラド州のロッキー山脈で家族旅行を楽しんでいたあるうららかな夏の午後、落馬し、命を落としたのです。もうずいぶん昔の話になりました。

悲しみと向きあうには時間がかかりますし、残された者はしばらくのあいだ、悲しみから一瞬たりとも自由になれません。

大切な人を亡くして日が浅いうちは集中力が続きません。長く考えるよりも小さなヒントがいくつもあるほうが、思いやアイデアにつながります。一日の分量は短いですが、古くから言い伝えられ、力の詰まった言葉を選んでいますので、毎日噛みしめながら読んでいただければ幸いです。

●2月1日
山を動かすには小石から。
――中国のことわざ

かけらを拾い集め、人生を立てなおすにはどうしたらいいのでしょう? しばらく大きなことには取り組めないかもしれません。

しかし小さな一歩を踏み出すだけでじゅうぶんなのです。その一歩が、内なる自分に伝えてくれるでしょう。私たちは終わりなき悲しみではなく人生を信じ、期待をかけているのだと。

自分の服を縫っているうちに気分が少しずつ軽くなったと、ある友人は教えてくれました。裁縫は彼女にとって、人生に対する期待の表れだったのです。

私にもはじめの一歩がありました。食料品店で買物をしていたときに、突然ひらめいたのです。顔に何週間も張りついていた陰気な表情を捨てて「笑顔になろう」と。このひらめきが転機となりました。そうでなければ20年近く経った今も、覚えているはずがありません。

小さな一歩を踏み出そう。心の目で、うなずきながら私を励ますあの人が見えるかも。さあ、踏み出して。できるから。一緒にいてあげるから。

悲嘆の中でも生きていける力がある

●2月2日
人にこれほど強い忍耐力が備わっていることを知る機会は今までなかったと、彼女は思った。そして苦しみに耐えた者すべてを、耐えきれなかった者をも含めて、彼女は愛し、敬った。
――ジェイムズ・エイジー(アメリカの作家、映画評論家)

悲しみが感受性を鋭くする、というのは本当です。大切な人を失った人は、似た経験の持ち主に対してにわかに連帯感を覚えます。エイジーの小説に出てくる夫を亡くしたばかりの女性のように、悲嘆のなかでも生きていける自分の力に驚くこともあるでしょう。

あるいは、今までこれほどの悲しみを味わわずに済んだ自分の幸運を悟るでしょう。気ままに青春を謳歌できるはずの若者が悲嘆に暮れるのを見れば、心を痛めるでしょう。

悲しみに出会ってまもない私たちは、こうした心の変化に驚きます。冷たい水に飛びこんだときのように、一瞬息ができなくなります。ショックで物の見方も一変します。でも大丈夫。慣れますから。冷たい水に飛びこんでも、身体が水温になじめば、すいすい泳げるようになるでしょう?

堪え忍ぶ日々のなかに、私はそこにあることすら知らなかった自分の力を見る。

●2月3日
沈黙は内面生活を支える力だ……暮らしを沈黙で満たせば、希望のなかで生きていける。
――トマス・マートン(アメリカのキリスト教聖職者、作家)

人づきあいとひとりの時間には、微妙なバランスが必要。社交にかまければ、つらい真実から逃げることになります。逆にひとりですごす時間が長すぎれば、うつうつと引きこもりがちになります。

でもちょっと待って。沈黙を守るときはかならずひとり、というわけではありません。クエーカー教徒は沈黙の時間を共有することで神を崇めます。またただ黙って一緒にいるだけで、誰かと気持ちが通じあうこともあります。

とはいえ沈黙と向きあうときはたいていひとりですし、その価値を理解するのは大切なこと。瞑想が身体にいいことは、近年、つとに知られています。血圧を下げ、心拍数を落ちつかせ、ときには健康の回復につながるというのです。静かなひとときをすごすことで気分がリフレッシュするのは、みなさんご存じですよね。

ですから悲しみの傷を癒すために、たっぷり沈黙を味わいましょう。深遠な魂を探り、やすらぎを見いだすヒントになるはずですから。

ひとりでじっとしていることを私はおそれない。沈黙の癒しを心ゆくまで味わおう。亡き人たちの魂もそこに会いにきてくれるかもしれないから。

苦しんでいるのは自分だけではない

●2月4日
気が狂ってなどいません……。狂えるならどんなにうれしいか、狂えるなら己を忘れることもできるのに。ああ……この悲しみを忘れられるのに!
――ウィリアム・シェイクスピア(イギリスの劇作家)

ときに悲しみは人を狂気に追いやります。「この恐ろしい喪失感から逃げられるものなら……いっそ狂ってしまいたい」と願うこともあるでしょう。さいわいそうした瞬間は過ぎ去ります。

狂気に陥っても悲しみからは逃れられません。強いストレスで理性が曇り、現実がぼやけて見えるときもありますが、私たちは現実逃避がやすらぎへの道でないことを知っています。違法薬物やアルコールへの耽溺が、悲しみを癒す薬でないのも同じです。

それでも正気をなくしてしまいたい、現実から逃げ出したいという衝動は他人事ではありません。だから、このシェイクスピアの一節のような文章に触れると、ここにも同類がいたとほっとするのです。

苦しんでいるのは私だけじゃないと知ることで、明日が見えてくる。

●2月5日
悲しみを他人に押しつける件についてだが、しじゅう「悲しい、悲しい」と泣きながら社会生活を送りたい人などいない。感情をさらけだすのは、信頼の証という友への贈り物とも考えられる。また相手が自分の感情と向き合うきっかけにもなりうる。
――マーサ・ヒックマン

みっともないところは見せないようにしよう?落ちついて、自制心をなくさないようにしよう?やせ我慢はほどほどに。心が壊れてしまったというのに、落ち着いてなどいられるでしょうか。

人前で悲しみを見せない人、麗(うらら)かな日曜の午後に「こんにちは」と声をかけられたかのように笑顔でお悔やみの言葉を受けとめる人を、とかく私たちはほめそやします。偉いわ。立派よ。一度も涙を見せないなんて。

けれど、感情をよろいで覆い隠して誰のためになるのでしょう?本人でしょうか。それとも自分の身に不幸が降りかかることなど考えたこともなく、悲しみが伝染するのを恐れる弔問客?
ある友人は言いました。「目の前で誰かが泣きだしたら、私はその涙を贈り物としてありがたく受け取る」

涙を見せるのを意味もなく禁じて、自分を追い詰めるのはやめよう。

自然が刻むリズムが亡き人々を生かしている

●2月6日
あたかも眠っているように、静かに音もなく飛沫も散らさず満ちてゆく潮路にのって、私は船出がしたいのだ。果てなき海原の彼方から流れてきたものが、今ふたたび故郷へ帰ろうとしている。
――アルフレッド・テニスン(イギリスの詩人)

自然が刻む絶え間ないリズムを、テニスンは力強くうたいました。潮の満干や月の満ち欠けや規則正しい星々の自転、どれもおなじみの自然の流れです。ラマダン、イースター、過ぎ越しの祝いといった宗教行事を月の満ち欠けや太陽を回る地球の動きにあわせて祝う私たちもまた、滔々(とうとう)たる生命の流れに組みこまれているのです。

自然界で高らかに鳴り響くこのリズムが、私たちの感覚と理性の届かない場所で今も亡き人々を生かしている――そう願い、信じてみませんか?

テニスンの言う「故郷」には、私たちのうちで最も恵まれた者でさえ手の届かない滋養と安全と成長の可能性とが染みこんでいるのだと思い描いてみませんか?

私たちすべてのなかに流れる自然のリズムに、私は希望と約束を見る。

●2月7日
暗くなれば、星が見える。
――チャールズ・ビアード(アメリカの歴史家)

星を見るなら、寒く長い冬の夜が一番。生命にかかわる危機――自動車事故や天災、大病――を乗り越えた人は、人生観の変化を語ります。愛する者を失う悲しみも同じこと。耐えぬいた暁には、本当に大切なことが見えるようになるのです。


娘を亡くして数年後、わが家に泥棒が入り、先祖代々受けつがれてきた骨董品と結婚祝いの銀食器のセットが盗まれました。

もちろん家族一同、動転しましたが、すぐに私の口をついて出たのはこんな一言でした。「でも、たかが物じゃない?」。

娘の死の前に泥棒に入られていたら、これほど落ち着いていられたかどうか。それは知る由もありませんが、おそらく大騒ぎしていたんじゃないかと思います。

冬の星はただはっきりとではなく、より美しく輝いて見えます。いにしえの船乗りは星を頼りに海を渡りました。喪失の経験は本当に大切なことを示すだけでなく、私たちがいまどこに立ち、どの方角を目指せばいいのかを知る手がかりなのかもしれません。

漆黒の闇のなかでも、見上げれば星が見える。