5月18日、政府・与党は、検察官の定年を引き上げる検察庁法改正案の今国会での成立を断念した。この法案をめぐっては、ツイッターで「#検察庁法改正案に抗議します」という投稿が相次いだ。文筆家の御田寺圭氏は「コロナ禍で日本社会は混乱している。ネット上の抗議が盛り上がったのは、そうした不安の裏返しではないか」という--。
写真=時事通信フォト
検察庁法改正案に抗議するため国会前に集まった人たち=2020年5月15日、東京都千代田区 - 写真=時事通信フォト

■ツイッターに現れた「不穏なハッシュタグ」

5月に入ってから、ツイッターのハッシュタグが「ある文字列」をやたらに表示していた。すなわち「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグだ。ふだんはまったく政治的なツイートをしない人も、職業や専門分野、興味関心領域を問わずそのタグをつけて自らの政治的スタンスを表明していたので、この大きなうねりの「震源地」を特定することはできなかった。

「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグをつけた投稿は10日夜までの2日間で延べ480万件を超えるなど急速に広がりました。
このハッシュタグを含む投稿を専用のソフトを使ってNHKが分析したところ、最初の投稿は今月8日夜にされましたが、9日になって多くの俳優やミュージシャンなどの著名人が賛意を示し始めると増加し、10日午前4時の時点で抗議の投稿はリツイートも含めて100万件を突破しました。
(NHKニュース『検察庁法改正案 日弁連が臨時会見「法案成立急ぐ理由は皆無」』2020年5月11日より引用)

■さながら「オンライン抗議集会」だ

現在では検察庁法改正案に話題を限定せず、なおかつ政治的な左右のスタンスや賛成も反対もかかわりなく、「〜に抗議します」だけでなく、類似の構文を使った(いずれも政治的な主義主張を前面に押し出すことでは共通している)ハッシュタグがさまざまな陣営から発信され、さながら政治的闘争の様相を呈してきている。

この大きなトレンドの波については、なんらかの政治的な「仕掛け」があったのかもしれないが、だからといっていわゆるスパムやbotなど、発見されるリスクが高くなおかつ発見された際のダメージが大きなものの類いではないと推測している(※)。しかし今回の主旨とは逸れるので脇に置く。

※ 参考:「検察庁法改正案に抗議します」に投稿されたのは「ほとんどがスパムツイート」だったのか?(ねとらぼ、2020年5月12日)

いずれにしても、突如として人びとの間に湧出した「賛成か反対か、支持か不支持か態度をはっきりしろ」と言わんばかりの雰囲気に呑まれた人は多かったようだ。正直なところ、戸惑った人は多かったのではないだろうか。

■賛否を求めるのは「つながり」を再編成するため

近頃のSNSを開けば、だれもが「ご意見番」になっている。「あなたはこれについて、必ず意見表明をしなければならない」と言わんばかりの威圧的な雰囲気が、どこからともなくやってくる。そればかりか、意見表明をしないと「お前は敵か?」と凄まれることも珍しくはないように見える。

それにもかかわらず、自らの意見をはっきりさせなければならない明確な理由が説明されることはほとんどない。ただなんとなく、だれもが意見を明確にしなければならないかのような同調的な圧力に呑まれているのだ。

2011年の光景がデジャヴする。あの時もそうだった。未曽有の大災害・原発事故の衝撃が社会を大きく動揺させ、これまで疑う余地もなかった「ただしさ」の永続性が損なわれたとき、多くの人をゆるやかに統合していた「ただしさ」が失われたことで、人びとは些細な価値観や社会観の違いを許容できなくなっていった。

世の中の問題はたいてい複雑系である。単純にその場の雰囲気や感情的好悪で直感的に態度を表明するべき事柄は少ない。単純な解答を即時的に見出せないにもかかわらず「〜〜について賛成か反対か、支持か不支持か態度をはっきりしろ」というイチゼロの問答がSNSに広がっていくのは、人びとがより同質的な人間同士で「つながり」を再構築・再編成しようとする動きが急速に進んでいるからだ。

「大同小異」--すなわち「大筋で合意できていた」ことによって友好的に結ばれていた人たちにとって、その「大筋(大同)」を支えていた社会の安定性が吹き飛んでしまったら、どうなるかは想像に難くない。これまで「大筋」の枠組みで結ばれていたからこそ気にするまでもなかった「価値観の違い」「職業の違い」「貯えの違い」「住む街や地域の違い」などの相違点によってたちまち大きな亀裂が入り、社会に分断が生じる。

■生き残るために「同質的な仲間」を集めたい

もうまもなくやってくるであろう、社会的・経済的・政治的混乱と停滞に備えて、自分の周囲を「より同質性の高い味方」で固めておくことにはたしかに一定の合理性がある。厳しい環境下では「より信頼のおける仲間」をできるだけ多く獲得した者の方が、生存確率が高まるためだ。「〜〜について賛成か反対か、支持か不支持か態度をはっきりしろ」というネット上の大きなうねりは、これまで自分の周囲にいた人々がコロナ後の世界でも「より同質的かつ信用できる仲間たりえるかどうか」を多くの人が急ピッチで見極めようとしているからこそ生じている。

なおかつ、いまは物理的に他者に会えない時間が長いため、SNSにアクセスする時間が長くなっている人は少なくない。「他の人がいま何を考えているのか」を知るための手段として、実際に会って話をするのではなくSNS上のコミュニケーションに頼っているからこそ、今回の拡散がさらに促進されたと考えられる。

コロナ・パニックが社会的にも政治的にも経済的にも、長期的な混乱をもたらすことが必至となっている以上、今後しばらくは、お互いを敵か味方か厳しく峻別するような「友敵理論」が社会に頻繁に登場することになる。いまあなたが、SNSに言い知れぬ閉塞感を覚えているのであれば、これがひとつの理由だ。

しかしながら、こうした世間の潮流は「生き残りのために、同質的な仲間を集めたい」とは、別の動機にも裏付けられている。

--それは「教えたい」「変えたい」だ。

■「人を教え、人を変える」ことで自分の価値を確認する

--人は不安に呑み込まれて心身ともに弱ると、ふさぎ込むばかりではない。だれかに教えてあげたくなる。そして、だれかを変えたくなる。自分が抱いている不満や怒りを表明し、賛同者が集まれば、自分はただしいのだと確信することができるからだ。

だれかになにかを教えて、だれかを変えたくなる。自分のなかにある不安を親切心だと置きかえて、なにも知らない「昨日までの自分」と同じ姿のだれかに近づいていき、「気づき」を与えてあげたくなる。社会や経済が混乱し低迷していくなかで、余波を受けた自分もまた力や自信を失っているが、それでもなお、自分には力がまだ残されていると確認したいからだ。

「教えてあげる」「変えてあげる」、あるいは「自分の意見や行動に賛同者が集まっていく」ことを通して、だれかに影響できるだけの力がまだ残されているし、だれかに信じてもらえるだけの信頼があるし、なにより自分にはまだ価値があるのだと確認できるのだ。

世の中や暮らしが劇的に変わっていくなかで、自分ではどうすることもできない無力感に毎日苛まれる。不満や苛立ちをどこにぶつけたらよいのかもわからない。自分が苦しんでいるとき、不安に押しつぶされそうなとき、耐え難い痛みに呻き苦しんでいるときにこそ「自分によって変えられた他人がいる」「自分に賛同してくれる他人がいる」という事実の味はたまらなく甘美なものになる。自分の存在価値を回復してくれる。自分のいまの考えは間違っていないのだと勇気づけられる。忘れられないほどの味わいである。たくさん果実を集めて、いくらでも食べたくなる。

■ネットでは「有用」な自分も、現実では「みじめ」だった

私はいわゆる「リーマンショック氷河期世代」にあたる。

当時のころを思い出し、自らを顧みながら考えてみると、自分にも思い当たる点が多い。恥ずかしながら告白すると、当時の私はまぎれもなく「教えたい人」「変えてあげたい人」だった。

大不況真っただ中の就職活動で、案の定まったく就職のめどが立たず、この社会において自分の存在価値も存在意義も見えなくなっていた。

そんな折、ツイッターで書き綴った何気ないことばが、偶然にも多くの人の共感を呼んでいた。とりわけ同年代の若者を中心に大きな反響があった。自分が彼・彼女らに「教えている」こと、彼・彼女らの思考や行動を「変えている」ことが、なにより心地よかった。就職活動では散々な扱いを受けている自分でも「無用な存在ではない」と、その時だけはたしかに実感できたのだ。

しかし現実では相も変わらず「無用」を突き付けられ続けていた。不採用通知の連続。不採用の連絡があるたび、自分の存在を否定されているような気がした。

だが、どうあがいても自分は結局現実を生きなければならない。ネット空間でいくら「有用」な存在であるという証拠を顔も名前も知らぬ賛同者から集めても、現実のみじめな自分の存在が1秒でそれを否定した。ネットでツイートを乱打して「インフルエンサー(当時はそんなことばはなかったが)」となり「有用」の果実を貪り食っても、PCの電源を切って玄関のドアを開け、現実世界を半歩歩けばたちまち飢餓感に襲われていた。

■「社会を変えたい」と言って自分の心を満たす人々

いま「社会を変えたい」「周囲の人の目を覚まさせたい」という思いに駆られている人びとのなかにも、終わることのない憤懣(ふんまん)と渇望に呑み込まれている最中の人が少なからずいるように見える。

人によっては、昼夜を問わず「社会運動」「人権擁護」「政権批判」「陰謀説」「被害者意識」などのツイートを連発しては、数千・数万のRTや「いいね」をかき集めて「自分は有用」と確認する作業をやめられなくなっているのではないだろうか。それはまるであの日の自分だ。ずっと変わらずあると信じていた世界、穏やかに続いていくはずだった日常が突然失われ、たちまち拠り所を失い、その流れに抗うこともできず無力感に支配され、「無用」をひたすら突き付けられて打ちひしがれていたかつての自分。あなたにも、もしかしたら身に覚えがあるだろうか。

「〜に抗議します」の流れを受け「あなたのためを思って、教えてあげているのだ」--と、親切心を表明しながらだれかに近づいていき、熱心に政治問題や社会問題を説いて「変化」や「気づき」を与えようと懸命になっている人が数多くみられる。その多くは実際のところ、自分のためにやっている。自分のためにやっているからこそ「意見表明」を求めた相手が、自分の期待している表明を行わなかったとき、自分を否定されたような気分になり、激しい憤りが生じる。

■ネットで「友と敵」を分けても世界は変わらない

残念なことだが、私たちは結局のところ、いくらオンライン上で自分の有用性をかき集めても、肉体を捨てて完全な電脳世界の住人にはなれないかぎり、飯を食わなければ腹が減ってしまうし、風呂に入らなければ身体が臭くなるし、不摂生ですぐ風邪をひく。

自己責任論を振りかざすつもりはないが、この現実世界に生きているかぎり、「飢え」から解き放たれるには、見ず知らずの他人を変えて一時の有用感を享受するのではなく、自分の現実を自分でよくしていくほかない。それはときに、耐え難くつらい。それでも、前を向かなければならない。理不尽で、無慈悲でさえある。

人生は問答無用だ。インターネットで「敵」を見つけて攻撃し、同調する味方を増やしても、その達成は私たちの現実には還元されない。玄関を開けたらすぐに「弱くてしょぼい本当の自分」に押しつぶされないように、少しでもいまを変えていくしかないのだろう。

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』を2018年11月に刊行。Twitter:@terrakei07。「白饅頭note」はこちら。
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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)