トイレットペーパー・パニックから見る経済パラダイム転換/純丘曜彰 教授博士
日本だけでなく、世界各国でトイレットペーパーが売り切れになり、パニックを起こしている。買い占めのせいだ、というが、そんな簡単な話なのだろうか。
たとえば、トイレ共同の安アパートが、部屋ごとのトイレに改築したとしよう。この場合も、住人数が変わらなければ、このアパート全体で一ヶ月に使われるペーパーの総ロール数は一定だ。しかし、以前は共同トイレにのみ適量のストックがあるだけで足りたのに、改築の後は、それぞれの部屋のトイレに余裕のストックが必要になる。
これと同じことが世界で起こっている。学校休業、在宅勤務によって、トイレは各家庭での使用にシフトした。総量は一定なのだから、学校や会社で使用量が減ったトイレットペーパーを振り替えれば足りるはずなのだが、それぞれの家庭で余裕のストックが新たに必要になっている。つまり、買い占めによって足りなくなっているのではなく、トイレが分散したことで、いま、一時的に実際の需要が爆発的に拡大しているのだ。
食料に関しても同様。同じ人口が一ヶ月に食べる総量は一定だが、共同の厨房を持つ給食や社食、外食から、家庭食にシフトした。このため、ストックの共有性が失われ、個々の家庭で新たにストックを持つ必要が生じた。とくに主食の米やパスタ、自分で調理できるレトルト食品やインタント食品の需要が、この新たな家庭ストックのために、実際の消費量以上に劇的に増大している。品切れを起こすのは、当然だ。
銀行や保険でも、近代は、全員が同時には必要としないという経験則から「信用創造」としてストックを共有し、社会的に融通することで、効率運用を図ってきた。製造業や販売業でも、サプライ(部品供給)とロジスティックス(運送搬入)の安定性に依存して、「ジャストインタイム」として、場所と資金を取るムダなストックをギリギリまで削り込むことで、徹底的に効率化してきた。
しかし、いま、これらが崩れようとしている。貸し倒れだらけの銀行では、いつ潰れるかもわからず、そうでなくても、預けておくだけで手数料が取られるようになる。保険も、将来性が不透明な株式などの運用で損失を抱えれば、いざというときに支払いを渋って揉めるところが出てくるかもしれない。部品や商品がほんとうに製造されるのか、それが予定どおりに搬入されるのか、当てにならなくなってきた。それなら、できるだけ現金を手元に残しておいて、部品や商品も、手に入るときに手に入るだけ手に入れておこう、ということになる。
二十世紀、共産主義は、強権的にありとあらゆるものを共有化することで、社会的な余裕をひねり出し、それを「科学」で運用することで国家を富ませようとしたが、失敗した。そして、資本主義でも、持てる者たちの任意の「信用」さえも瓦解しようとしている。人に感染させるかもしれない人でも自分勝手に平然と街に出歩く。放射能のときもそうだったが、専門家たちが「ただちに影響は無い」と言って、後々の深刻な健康上の問題の可能性については口をつぐむ。公衆トイレ、学校や会社のトイレットペーパーのストックを盗み出すやつも出てきた、などという話も漏れ聞く。同じ国民、同じ仲間、というような「公共」の精神そのものが壊れてきたのだろう。
やがて、災害などが加われば、トイレットペーパーはもちろん、食料などの生活物資、ライフラインまで、いよいよ絶対量さえ足らないということになるだろう。こうなると、ふたたび集団で結束して、たがいに協力せざるをえないかもしれない。しかし、その集団で武装し、他の集団から奪い取ってでも生き残ろう、ということになるのかもしれない。
いまだに、いつ元に戻るのか、などと寝ぼけている者がいるが、世界は、もう絶対に元には戻らない。生き残るのは、変化に耐える強者ではなく、変化に順応する賢者だ。現実を直視し、割り切って、頭と心を切り替えることが必要だろう。