もしかして、私も発達障害かも……過熱している「発達障害バブル」とは(写真はイメージ)

写真拡大

 現在、発達障害の専門外来では、予約から診察まで3か月待ちは当たり前といった状況が続いているという。わが子の行動やコミュニケーションに不安を抱く親たち、また仕事や人間関係の尽きない悩みに原因を求めるおとなたちが列をなしている。

この記事のすべての写真を見る

『「発達障害」と言いたがる人たち』(SBクリエイティブ)の著者であり、精神科医の香山リカさんに、現代の生きづらさの原因を「発達障害」に求める人たちの心理と時代背景について聞いてみた。

「片づけられない私」「空気が読めない私」

 ここ7、8年ほど、診察室に時折こう訴える人たちがやって来るようになった。多くは女性だ。

「私、発達障害なんじゃないでしょうか。たぶん注意欠陥障害(ADD)か注意欠陥多動性障害(ADHD)だと思います。あ、コミュニケーションも苦手だから、アスペルガー症候群の可能性もあるかもしれません」

 最初の頃は私も、「子どものうちには見逃され、おとなになってからはっきりする発達障害も多いらしい。この人もその可能性が高いのではないか」と考えて、問診を進めていた。

 精神科医の市橋秀夫氏は、論文で「わが国ではADD/ADHDの児童期受診率は低く、成人になって受診に至るケースが多い」と述べている。なぜなら、この人たちは「社会人となってから時間管理、正確さと速度、同時並行作業や情報の綿密性を要求されて事例化すると考えられる」からと言う(「注意欠如性障害者の生きにくさの源泉──社会・文化的枠組みからの考察──」『精神科治療学』第25巻07号 2010年7月)。相談に来る女性たちもこれと同じケースなのだろうか、と私も考えたのだ。

 診察を始めるとすぐに、彼女たちにははっきりした受診のきっかけがあることがわかる。彼女たちの多くは米国のカウンセラーであり自らもADHDだというサリ・ソルデンが書いた『片づけられない女たち』(WAVE出版〈2000年〉)というベストセラー本を読んでいた。「整理整頓が苦手な人はADDやADHDの可能性があるというこの本を読んだり、その内容を紹介するテレビ番組を見たりして「私もそうかも」と来院した、というのだ。

 同書は、従来は子どものみに見られ、かつ男性が大半を占めると考えられていたADHDに、実は「女性の成人型」が少なくない、とわかりやすく解説した本である。原書は1995年にアメリカで刊行されており、そのタイトルはシンプルに『Women with Attention Deficit Disorder』(直訳すると「ADDの女性たち」)なのだが、邦訳版が出るにあたって、中で取り上げられている「部屋の整理が苦手である」という特徴に焦点をあてた『片づけられない女たち』というタイトルがつけられた。これが日本でベストセラーになった大きな理由と考えられる。

 また、この本が売れていることなどを取り上げるテレビ番組の中には、同じ発達障害の中に「知的には問題はないが“空気”が読めず、ひとつのことにこだわりが強いこと」を特徴とする「アスペルガー症候群」というタイプもある、と紹介されていることが少なくないようだった。外来を受診した女性たちは、それらを目にして「自分のことではないか」と思い込み、診断を求めて来院したのだ。

 この「成人型のADHD」は診断ガイドラインが確立しているわけではないので、子ども時代の様子なども振り返ってもらいながら話を聴くと、学校時代はとくに問題もなかったどころか、あるいは優等生や生徒会長だったという人がほとんどだった。

 では、その「片づけられない」というのがどの程度なのかと尋ねても、「もう春なのにまだ冬物のコートが出しっぱなし」「家族で食事をした食器を翌日まで洗わない」など、さほど深刻ではないことがわかる。「書類をすぐに提出できずに溜まってしまう」といった仕事上の支障について語る人もいるが、それでも会社勤めを続けていたり、中には役職に就いていたりするところを見ると、「どちらかといえば苦手」という程度なのではないか。

 診察の範囲では、この人たちにはADD、ADHD、アスルペルガー症候群などと診断されるような発達の障害は感じられず、むしろ何ごとも完璧にしないと気がすまない、理想の自分でないと許せない、という完璧主義的な性格が問題であるように思われた。

「障害がない」と言われて失望する女性たち

 ところが、問題はその先だ。

「私は発達障害についての専門的知識は乏しいので、絶対に正しい診断とは言えませんが」と断ったうえで、「あなたには何らかの発達上の問題があるとは思えません」と告げると、これまで経験した限りではすべての女性は失望の表情を見せたのだ。

「えっ、そうなんですか。私、ADDじゃないんですか。アスペルガーでもない? そうか……」

 最初はその失望の意味がよくわからなかった。「障害の可能性は低い」と言われて、なぜがっかりするのだろうと思っていた。

 しかし、何人かに話を聴くうちに、そのわけがわかった。やや厳しい言い方をすれば、彼女たちは自分が思うどおりに整理整頓や書類の提出ができないのは、「自分のやる気や性格のせいではなくて、障害のせい」と思いたがっているようなのだ。

「じゃ先生。私が“片づけられない”のは何のせいなんですか? 病気や障害じゃないとしたら、やっぱり私がだらしないからだとおっしゃりたいのですか?」と怒り出す人もいた。

 私は彼女たちに、「あなたのお話を聴いていると、“片づけられない”のもそれほど深刻な問題じゃないじゃないですか。そもそもあなたは働きすぎですよ。それくらい忙しい毎日なら、掃除や整理整頓ができなくてもムリはないです。少しゆっくりしてください。片づけは後回しでもいいじゃないですか」などと、「がんばりすぎ」や完璧主義にこそ問題があることを指摘するようにした。それで納得してくれる人もいれば、それでも中には「セカンドオピニオンを受けたいので、発達障害の専門医を紹介してほしい」と希望する人もいた。

 もしかするとこの人たちは、「そうです。あなたは成人型のADHDです。あなたの悩みのすべてはこの障害を持つがゆえです」と告げられるまで、延々とドクターショッピングを続けるのかもしれない。必ずしもそうではないのに、「あなたは発達障害です」と言ってほしい人たちがいる。「私、発達障害なんだって」と言いたい人たちがいる。そういう人たちの存在に気づき、私は今回『「発達障害」と言いたがる人たち』を書くことにした。

 その可能性は低いのに「私は発達障害かも」と思う人が増えているという、医療の問題というより社会的な現象について取り上げ、その原因などを考えてみたい、というのが目的だ。

誰だって世界に二人といない「かけがえのない自分」

 この本は、「発達障害そのもの」についての入門書ではなく、「発達障害を取り巻く医療の問題と世間の問題」について書いたものだ。

 実際にこの障害を抱えて支援を受け、社会や施設で懸命に生きる当事者や家族を批判するものではまったくないことを、強調しておきたい。

「何者かでいたい」という私たちの欲望は、とくにこの現代社会、根深くてキリがない。もちろん「スターとして注目を集めたい」「作家になって多くの人を感動させたい」といった前向きな夢や願望もあるが、これはなかなかかなうものではない。

 そういう人たちの一部がいま、メンタルクリニックを受診し、「私に病名をつけてください」と言っているように思うのだ。その人たちは社会全体から見るとごく一部だが、そこに集約されているいまの社会の問題は、そう簡単には解決できない気がする。

 発達障害の人も、そうでない人も、誰だって世界に二人といない、かけがえのない自分なのだ。すべての人がそういう手ごたえを持って生きて行ける世の中になることを、心から願っている。

<プロフィール>
香山リカ
1960年北海道生まれ。精神科医。東京医科大卒。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。豊富な臨床経験を生かして、現代人の心の問題を中心にさまざまなメディアで発言を続けている。専門は精神病理学。『しがみつかない生き方』(幻冬舎新書)、『「私はうつ」と言いたがる人たち』(PHP新書)、『多重化するリアル―心と社会の解離論』(ちくま文庫)、『「わかってもらいたい」という病』(廣済堂出版)など著書多数。
連載・レギュラー:北海道新聞(ふわっとライフ)、毎日新聞(ココロの万華鏡)、創(「こころの時代」解体新書)。