【ネタバレ解説】映画『セブン』七つの大罪と衝撃的ラストシーンを徹底考察
キリスト教の「七つの大罪」を題材に、猟奇的な連続殺人事件を描くサスペンス・スリラー『セブン』。
その衝撃的な内容と先鋭的なビジュアル・センスは、公開されてから約20年経った今なお色褪せることはなく、アメリカの著名な映画評論家ロジャー・イーバートは「今までハリウッドで撮られた作品の中で、最もダークで最も無慈悲な映画のひとつだ!」と評している。
という訳で、今回は『セブン』をネタバレ解説していきましょう。
映画『セブン』あらすじ
奇怪な猟奇連続殺人事件を追う、ベテラン刑事サマセット(モーガン・フリーマン)と、志願して殺人課に転属してきた新人刑事ミルズ(ブラッド・ピット)。
やがてその事件は、キリスト教の「七つの大罪」になぞらえたものだと判明する。果たして犯人は誰なのか? そしてその犯行の理由は? 捜査を進めていくうちに、やがて事件は思わぬ方向に舵を切っていく…。
出典元:YouTube(Movieclips)
※以下、映画『セブン』のネタバレを含みます。
ビデオ屋店長の怨念が生み出した暗黒シナリオ
『セブン』を語るに当たってまず触れておかなければならないのが、シナリオを手がけたアンドリュー・ケヴィン・ウォーカー。
ビデオショップ店員からキャリアをスタートさせたクエンティン・タランティーノと同じく、彼もまた映画業界で働く日を夢見ながら、ニューヨークのタワーレコード店長としてあくせく働く日々を過ごしていた。
「ニューヨークでの生活は決して好きではなかったが、その生活なくして『セブン』は生まれなかっただろう」
と述懐していることから、この頃から鬱屈とした気持ちを抱えていたに違いない。
彼は一念発起し、図書館に通ってミルトンの「失楽園」やダンテの「神曲」を読み漁り、七つの大罪をモチーフにした世にもおぞましいシナリオを数年かけて書き上げる。そもそも『セブン』は、不遇を囲っていた男の社会に対する怨念が、サイコスリラーとして結実した作品だったのだ。
その超暗黒系シナリオは、巡り巡って映画監督のデヴィッド・フィンチャーの元へ。今でこそ『ファイト・クラブ』や『ソーシャル・ネットワーク』、『ゴーン・ガール』で知られる超大物フィルムメーカーだが、当時彼は劇場用第一作『エイリアン3』が批評的にも興行的にも大惨敗を喫してしまったことで、すっかり映画への情熱を失っていた。
デヴィッド・フィンチャーは当時の心境を、こんな風に語っている。
もう一本映画を撮るぐらいなら、大腸ガンで死んだ方がマシだ!
実際、映画会社のニューラインシネマから『セブン』のシナリオが回って来た時も、消沈モードの彼は数ページだけ読んで放置していたという。
だが改めてシナリオを読み直してみた時に、「これはものすごい脚本だ!」と衝撃を受けて、監督を受諾。アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーの怨念が、デヴィッド・フィンチャーのハートを動かしたのだ。
“全ての罪の根源” 七つの大罪とは?
この映画の最も重要なポイントである「七つの大罪」について、簡単におさらいしておこう。
「七つの大罪と四終」(ヒエロニムス・ボス 1485年)
そもそも「七つの大罪」とはキリスト教カトリックにおける概念で、堕落した人間が犯すとされる“全ての罪の根源となるもの”のことだ。
カトリックでは「罪源」と呼ばれ、罪そのものというよりも、罪を誘発する悪しき習性といった方が近いだろう。罪を罪として意識しにくい故に、神への甚だしい冒涜となるのだ。
シナリオを書いたアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは、毎日のように強盗や殺人が起こるニューヨークでの生活に心底ウンザリし、そんな日常に対して“見て見ぬ振り”を決め込む社会の態度にも辟易していた。
我々人類は、日々「七つの大罪」を犯しているのではないか?
そんな考えが『セブン』着想に繋がっていったことは、想像に難くない。
「七つの大罪」を罪の重い順に列記しておこう。
1.嫉妬(ENVY)
他人の幸福を妬み、他人の不幸を喜ぶ感情。
2.高慢(PRIDE)
過度に自惚れていること。美徳とされる「謙遜」の真逆の状態。
3.怠惰(SLOTH)
元々は安息日に関わらず労働を続けることを指していたが、現在では労働を放棄して怠けていることを指す。
4.憤怒(WRATH)
人間の最もネガティブな感情のひとつ。怒りは理性を破壊し、魂の中に悪魔を迎え入れることだとされている。
5.強欲(GREED)
金銀など財産に対しての異常な物欲。聖パウロは「一切の悪事の根なり」と説いたとされる。
6.肉欲(LUST)
色欲、邪婬ともいう。子孫繁栄のためではなく、みだらに性的快楽に陥ることは禁忌とされる。
7.暴食(GLUTTONY)
もしくは「大食」。節制のない食事は、欲望を助長させる根源となる。
七つの大罪をモチーフにした最も有名な文学作品は、映画でも言及されていたダンテの長編叙事詩「神曲(La Divina Commedia)」だろう。
三部作からなる本作の「煉獄篇」は、天国と地獄との間にある“煉獄”が舞台。死者が生前に犯した七つの罪を贖(あがな)いながら上へ上へと階段を登り、全て贖い終えると天国に到達する、という物語になっている。罪を浄化したその果てに、幸福が待っているのだ。
最も罪の重い「嫉妬」の罪人を、犯人であるジョン・ドウ(ケヴィン・スペイシー)自身が担ったのは、天国への近道として当然の選択だったのかもしれない。
連続殺人鬼ジョン・ドウとは何者か
出典元:YouTube(Movieclips)
「ジョン・ドウ」とはそもそも正体不明な者を指す言葉で、日本語でいうところの“名無しの権兵衛”。要は「どこの誰だかわからない奴」である(ちなみに女性の場合はジェーン・ドウと呼ばれる)。
世の中の無関心や小さな罪を許さず、猟奇犯罪的な手つきで次々と殺人を重ねていく彼の姿は、同じく社会に対して不信感を抱いていたアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーにも重なる。しかし、『セブン』におけるジョン・ドウの役割はより明確なものだろう。
1589年にドイツの学者ペーター・ビンスフェルトは、七つの大罪に特定の悪魔(ルシファー、サタン、ベルゼブブ etc.)を関連付ける著作を発表している。それに照らし合わせて考えてみると、ジョン・ドウは悪魔そのものである、と考えてもいいのではないか?
実際にサマセット刑事は、犯人を取り逃がした翌日の朝、ミルズに向かってこんなセリフを言う。
もし奴が本物の悪魔なら納得するだろう
しかもジョン・ドウはミルズを「憤怒」の罪に陥れるが、それは前述した通り「怒りは理性を破壊し、魂の中に悪魔を迎え入れること」なのだ。
まだ知恵の実を食べていない純真無垢なミルズ(だから多少バカっぽく誇張して描かれているのだろう)を、ジョン・ドウは悪の道に引き摺り込む。
ジョン・ドウ殺害の罪で逮捕されたミルズは、刑務所の出所後にどんな生活を送るのだろうか? 筆者には、彼が第二のジョン・ドウの道を歩む気がして仕方がないのだ。
本当の7人目の犠牲者とは?
『セブン』における「七つの大罪」の猟奇連続殺人事件を、時系列ごとに追ってみよう。
第一の殺人(暴食)
被害者:肥満の男
死因:窒息、内臓破裂
第二の殺人(強欲)
被害者:弁護士
死因:腹部への殺傷
第三の殺人(怠惰)
被害者:廃人?
死因:一年以上ベッドに縛り付けられているが死には至らず
第四の殺人(肉欲)
被害者:娼婦
死因:陰部への殺傷
第五の殺人(高慢)
被害者:モデル
死因:顔を切り裂いたうえで睡眠薬で自殺を選ばさせる
第六の殺人(嫉妬)
被害者:ジョン・ドウ
死因:射殺
第七の殺人(憤怒)
被害者:ミルズ
死因:殺人の罪で逮捕されるも情状酌量の余地があり、死刑には至らないと考えられる
カウントしてみると、「七つの大罪」で殺されたのは五人(廃人とミルズが生き残っている)。ミルズの妻トレーシー(グウィネス・パルトロー)も頭を切断されて殺害されたから、それをプラスしても六人だ。これは何故だろう? ジョン・ドウがあえて「七つの大罪」になぞらえた連続殺人の死者を7人にしなかった理由があるのだろうか?
いや、実際には7人だったのだ。そう、7人目の被害者は、トレーシーが身ごもっていた子供である。
そのあまりにも恐ろしい事実に気づいた時、ジョン・ドウの悪魔的策略に絶句してしまう…。
デヴィッド・フィンチャーがこだわり続けたラストシーンの真意とは?
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あまりに衝撃的で、あまりに救いのない『セブン』のラストシーン。ジョン・ドウはミルズの妻トレーシーを惨殺し、その頭を切り落とすことでミルズに「憤怒」の感情を芽生えさせ、自分自身を射殺するように誘い込む。
ジョン・ドウが抱えていた「嫉妬」の罪を自分自身が贖うことで、「七つの大罪」が完璧に完成するのだ。
しかし、この凶悪犯の望んだ通りに完結するラストシーンに映画会社は嫌悪を示した(そりゃそうだろう)。実は別案として、サマセットがジョン・ドウを射殺する幻のラストシーンも考えられていた。
ミルズが悪魔に魅入られて「憤怒」の罪を犯すことを阻止するために、サマセットがその身代わりとなる、というバッドエンド緩和策である。
映画会社はこの案を強硬に推したが、フィンチャーは最後まで現行のバッドエンド・バージョンにこだわった。打ち合わせの席で、アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーがこんな言葉を発したのを覚えていたからだ。
暴力が暴力を呼ぶんだよ
哀しい暴力の連鎖を描くには、引退間近の老刑事ではなく、若々しく無垢な青年が引き金を引くことが必要だと考えたのだ。
しかもフィンチャーはこの映画をサイコ・スリラーではなく、ホラー映画として捉えていた。『セブン』は人間が自制心を次第に失っていく映画である、と。だとすれば、やはり最後の罪を背負うのはミルズしかいないのだ。
もうひとつ、フィンチャーがこのバッドエンドにこだわった理由があるのだが、それは映画の終盤近くで交わされる会話の中にヒントがある。
ミルズが「2ヶ月も経つとみんな(猟奇殺人事件に対して)興味を失い、全て忘れてしまう」とジョン・ドウに問いかけると、彼はこんな言葉を返す。
まだ全部終わっていない。
全てが終われば、その結末は人には理解されにくいだろうが、認めざるを得なくなる
これは、『セブン』という作品そのものを指し示したセリフではないだろうか。
おそらくサマセットがジョン・ドウを射殺するラストシーンが使われていたら、2ヶ月も経てば人々の記憶から忘れ去られる映画になっていたことだろう。
文字通り「人には理解されにくい結末」だったからこそ、本作は公開されてから20年が経過してもなお人々を悪魔的に魅了しているのだ。
アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーがニューヨーク時代に抱えていた鬱屈とした感情は、とてつもないダークホラーとして昇華され、我々の原罪を糾弾し続けている。
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