後年の小泉純一郎元首相の名言とされる「世の中には“まさか”という坂がある」は、妻・佳代子との結婚から始まったようであった。なぜなら、小泉はこの結婚そのものには十分満足し、わずか4年での破局、離婚など、まったく予測していなかったからである。

 二人の結婚は、昭和53年(1978年)年1月、小泉36歳、衆院当選2回目を果たしたあとだった。相手の宮本佳代子は、時に青山学院大学経済学部の4年生、小泉より15歳年下であった。佳代子はエスエス製薬の創業者・泰道照山の孫娘。小泉の親戚と佳代子が知り合いだったことによる見合い結婚である。佳代子は高校生にして、関東女子ゴルフ選手権で優勝するほどのスポーツウーマン、一方で料理学校にも通う才色兼備の“お嬢さん”であった。
 結婚式の媒酌人は、時に小泉が所属していた福田派の領袖、福田赳夫首相(当時)夫妻。東京プリンスホテルの披露宴には政財界を中心に2500人が集まる盛大なものであった。
 ウエディングケーキもいかにも政治家らしく、国会議事堂をかたどった豪華なものだった。一方、この結婚式当時、じつは佳代子のお腹にはのちに俳優・タレントとなる長男の孝太郎が宿っており、言うならば、“できちゃった婚”でもあった。

 じつは、40年前のこの結婚式の直後、当時、週刊誌記者として、筆者は衆院議員会館の小泉の事務所で2人揃ってのインタビューに応じてもらった経緯がある。小泉は終始、上機嫌、佳代子は大きな目を時にクルクルとし、ハキハキと答えてくれたものである。その際の佳代子の話を再録してみると、次のようなものであった。
 ここでも、政治手法同様の小泉の“速攻”ぶりが覗けるのである。
 「初めてのお見合いの席で、『私、政治の世界は知らないんです』と言ったんですね。すると、小泉は『いや、無垢が一番いいんだ。それがいいんだ』と。その翌日、電光石火のプロポーズを受けたんです」
 「そのプロポーズを受けた日、帝国ホテルで待ち合わせてから映画を観たんです。その帰り、『僕を信頼してくれますね』と言われ、返事を考えているうちに、小泉は『よし、決まった』と。その夜、小泉が私の家に来て、母に結婚を承諾してもらいました」
 「小泉ったら、デートのたびに言うんです。『選挙の凄まじさを全部話すとビックリするから、徐々に話すよ』と。私の友達からも、『代議士の妻、ご愁傷さま』って言われましたね。代議士夫人は、電信柱にもおじぎをするくらいでないといけないらしいですね。さて、私にできるかしら」

 それでも佳代子が嫁入りした直後は、小泉家では「いい嫁がきた」と歓迎したものだった。なぜなら、当時、小泉家では誰言うことなく「嫁の条件」が“20カ条”ほどあったとされる。例えば、そのいくつかは次のようなものであったとされていた。
 語学ができる、社交界に出られるようなタイプ、政治には素人であること、地元の人間ではないこと、性格や気性がおだやか、身長は160センチくらいまで、作法がきちんと守れること…などのほか、夫や小泉家にいわゆる“忠誠心”を持つことなどがあったようである。佳代子夫人は、その「条件」に合致したということのようであった。

 そうした中で、佳代子はよかれと思って小泉の選挙区である横須賀での選挙の応援に出た。まだ乳飲み子だった孝太郎を背に、JR横須賀駅前に立ったり、地元後援会へのあいさつ回りも足繁く動いた。しかし、「代議士の妻」としてのこうした選挙活動も、どうやら小泉家の“家訓”に合わなかったようだと、小泉家の内情に詳しかった政治評論家だった故・浅川博忠が、筆者にこう語ってくれたことがある。そこには、「女系家族」に入った嫁ゆえの難しさも垣間見られた。