ドイツの大学入学資格「アビトゥア」はハードだ。過去の問題集も売られているが、表紙が赤いのはなぜか日本と同じ(筆者撮影)

大学生になる手前の中等教育について、ドイツと日本を比べるとずいぶん異なる。まず制度的にいえば、高校に相当する学校、ギムナジウムの卒業時に「アビトゥア」と呼ばれる大学入学資格を取得すると、一部の学部を除いて、希望する大学にいつでも行くことができる。

教育はどこの国でも大きな課題で、つねにさまざまな議論はある。それにしても日独の対比を行ったときに、際立ってくるのが、入学資格という「資格制度制」であること、そして試験の内容だ。記述や口頭によるもので、高度な思考力を問う。今回、試験内容を紹介するとともに、日本でどういう議論が必要か考えてみたい。

ハードなギムナジウム

日本は個々の大学で入学試験が行われるが、ドイツは「アビトゥア」が付与されると、医学部など一部を除いて、いつでもドイツ国内のどの大学・学部でも入学できる。フランスの「バカロレア」とよく似た制度だ。

そもそも、ドイツの学校制度は日本から見ると少しややこしい。小学校に相当する基礎学校は4年生まで。その次の中等教育がおおよそ3種類に分けられている。職人などの職業が前提の「基幹学校」(5〜9年)、中級クラスの技術者などが前提になった「実科学校」(6年)、そしてアビトゥア取得(=卒業)が前提になった「ギムナジウム」(8年)である。最近はこれらをまとめた「総合学校」もできているが、伝統的にいえば、この3つのどれかを選択することになる。

ドイツの学制は基本的には個人の適性に合った教育を行おうという制度だが、昨今は日本風にいえば「学歴」を欲しがる傾向があり、アビトゥアの取得を考える人が増えている。しかしアビトゥアを取得しても、特に大学でしたいことがなければ、そのまま職業教育に入る人も多い。というのも、アビトゥアの価値が高いからだ。あえて日本社会になぞらえていえば中堅の大卒ぐらいの値打ちはあるかもしれない。

ドイツの学校は自分の修学具合を見て自主的にもう1年やり直したり、ギムナジウムから実科学校へ移ったりするようなケースもある。もちろん一定の成績に満たない場合も同様のことを行う。つまり「留年」だ。そういう生徒はドイツ全国で2.8%程度いる。また学校制度は各州文科省管轄になり、細かい部分で州ごとに異なる。学力的に南ドイツは高いレベルを問われる傾向があるが、そのせいか、バイエルン州(ドイツ南部の州)のとあるギムナジウムでは、入学時に150人程度いた生徒が、卒業時には100人程度にまで減ったケースもある。これは留年などで生徒が減り、さらに1学年上の生徒が留年で加わったプラスマイナスの結果だ。

アビトゥア付与はギムナジウムの最後の2年間の成績と、最終学年に行われる試験で決まるが、もちろん全員が受かるわけではない。再チャレンジは可能だが、それ以上はもうチャンスはない。いずれにせよ、制度からみても、ギムナジウムとアビトゥアはなかなかハードだ。

パンを持ち込み、5時間のテスト

次に試験内容を見てみよう。州文科省が作るかたちで、記述と口頭の2種類に分かれる。バイエルン州の例を踏まえながら、ある程度単純化して紹介する。

筆記試験では数学とドイツ語(国語)が必須で、さらに別の言語、英語、ラテン語、フランス語のいずれかを選択する。

口頭試験は自然科学と人文科学に分かれる。自然科学は科学、物理、生物などの学科から、人文科学のほうは政治・法学、歴史、倫理/宗教、地理学などから選ぶ。

アビトゥア試験は5〜6月の間で行われるが、1日1科目、計5回。自分が通う学校で試験を受ける。驚くべきは筆記試験の時間だ。数学は4時間、ドイツ語などになると5時間余りかかる。生徒たちは菓子類やパンを持ち込んで、試験に臨むのだ。

日本のテストはマークシート方式のものが多く、つねに一定の批判がある。ドイツは対称的で記述が多く、しかも高度なものを要求される。

たとえばドイツ語の場合、「文学」と「即物的」なテキストが出題される。一例を挙げると詩の内容分析や、類似のテーマの文学作品などと比較し、時代による表現の特徴などの視点から解説していく。これだけでA4で10〜15枚程度、多い場合は20枚程度書く生徒もいる。「即物的」なテキストでは政治家の演説などが用いられるが、これもまた、構造や表現についての分析を書かねばならないのだ。

英語の場合もリスニング試験と記述試験が行われるが、ニューヨーク・タイムズやガーディアンなどに掲載されている記事や小説が出題され、それに対して、言葉の定義、分析、比較などを英語で記述していく。

アビトゥアは試験のみならず、過去2年の成績も反映されるが、その成績では10〜15枚の論文も評価の対象となる。ある程度専門的な内容になってくることもあり、親が手伝うことも多い。これには親もアビトゥアかそれ以上の知的訓練を経験していないと対応できない。ギムナジウム進学の生徒の6割程度が親も高学歴という統計もあるが、当然かもしれない。ともあれ、記述していく量と質の高さが半端ではない。気になる採点だが、記述試験については、教員2人で取り組み、公平性を担保しているようだ。

付け焼き刃では通用しない口頭試験

口頭試験もなかなか厳しい。試験時間はトータルで1時間。

たとえば歴史の場合、かなり前から複数のテーマが提示され、その中から自分で選ぶ。試験当日、最初の30分は教室でプレゼン用のメモなどを作成。必要に応じて、グラフや図などのOHP用のシートを作ることもある。

次に10分間でプレゼンテーション。その後、試験官の2人の教諭からの質問に答える。それで終わりと思いきや、次に自分が選んでいないテーマについても質問が飛んでくるのだ。そのため生徒側にとって結局提示された全てのテーマについて語れるように習得しておかねばならないのだ。

気になるテーマだが、その一部を見ると次のようなものが提示されている。

15世紀から18世紀の階級社会における生活
19世紀の新興工業社会の生活
ワイマール共和国――民主主義はあったか? それともなかったか?
ドイツ人とホロコースト
中東――世界の政治紛争の歴史的なルーツ
アメリカ――反抗的なコロニーから帝国主義の現在まで
識別パターンとしての「フォルク」と「ネーション」

欧州の歴史を見ると、中東やアメリカと民族、イデオロギーなどさまざまな角度からのつながりの歴史があるが、それらを網羅しておかねば答えられない内容だ。またナチス時代の反省や近現代を取り上げる「ドイツの歴史教育」でよく紹介されるが、口頭試験のテーマを見ると、あくまでも大きな歴史の中の一部として、他の時代区分と関連付けて理解しなければならないのがよくわかる。

ギムナジウムの教師には博士も多い

アビトゥアは18世紀末に端を発し、ギリシャ語やラテン語などの古典を中心にした知的教養(=文化)を持ったドイツ独特のエリートが養成された。それ以前のエリートは家柄などの出自によって決まっていたが、それに比べると、開かれた制度である。それでも低いとされる出自からの階層移動はなかなか容易ではなかったようだ。

それから、ギムナジウムの教師のほうも、エリートを養成するというのが仕事という意識があったようだ。そのせいか現在でもギムナジウムの教師には博士号を持つ人も少なくない。著述活動や、地元で政治活動を展開する人もいる。また19世紀の各都市を見ると、パワーマネジメントとでもいうようなかたちで、都市の質を高めていったのは「教養(=文化)」という価値を共有しているエリートの官吏たちだった。

一方、今日までの歴史を見ると、アビトゥアの取得者の質の低下など、時代によって出てくる問題点もあり、議論も起こる。またエリートたちがナチスの台頭を防げなかったという反省もある。それでも今回紹介した試験内容から言えることは、さまざまな要素を関連づける高度な思考力、そして他者に対して説得力のある記述・プレゼンテーションをする能力を必要とする点だろう。

昨今、日本の教育ではアクティブラーニングやグローバル人材育成など、さまざまな言葉が次々と出てくる。筆者は教育の専門家ではないが、そんな日本の様子を見ていると、まずは記述の量と質に傾注するだけでかなり変わってくるように思えるのだが、どうだろうか。プレゼン能力の向上にもつながるはずだ。さらに語学力が加わると鬼に金棒だ。

それから、ドイツ社会全般への効果に目を転じると、こういう教育を受けた層がドイツの社会にはいるわけで、言い換えれば、世界の構造を理解・意識しながら、地域社会で生活する「市民」たちがいるということだ。「街づくりは『役に立たない』文系教育が必要だ」や「ドイツの小学生が『デモの手順』を学ぶ理由」でも触れたが、地方のデモクラシーの質の底上げにかなり影響しているのではと思う。