鶯谷(東京・台東区)の”巨乳専門風俗店”でナンバーワンだという田中美幸さん(編集部撮影)

この連載では、女性、特に単身女性と母子家庭の貧困問題を考えるため、「総論」ではなく「個人の物語」に焦点を当てて紹介している。個々の生活をつぶさに見ることによって、真実がわかると考えているからだ。
今回紹介するのは、「早稲田大学を出ていますが、私は40代の職歴なしのアラフォー。この先の人生がとても不安です。風俗じゃない仕事をしたい気持ちもありますが、精神病なので無理です」「21歳で産んだ息子がいるので、彼の学費も稼がないといけない」と編集部にメールをくれた、41歳の風俗嬢だ。

華やかな学歴と現実のギャップ

「よく死にたくなります。かなり深刻な希死念慮がいつまでも抜けない。もう、ずっとそんな感じ。夜が危ない。仕事終わって1人でいるとき、死のうって考えますね。お客さんといるときは、演じているので“無”でいられるけど」


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東京都台東区、JR鶯谷駅近くのファミレス。田中美幸さん(仮名、41歳)は、ひっきりなしにタバコを吸いながら深刻な状態を語る。語りながら大きなカバンを漁り、使い込まれているお薬手帳を取りだした。彼女の本名が刻まれ、複数の抗精神薬や睡眠薬が処方されていた。加えて精神薬の副作用を抑えるための薬がある。重なりに重なったカスケード状態だ。危険な精神状態であることは、薬名の羅列ですぐにわかった。

学位記を見せてもらったが、彼女は早稲田大学を卒業している。出身高校は全国的に有名な超進学校で、受験戦争を勝ち抜いた成功体験と、高学歴というプライドがある。しかし、彼女は専業の熟女風俗嬢だ。風俗嬢になって18年間が経ってしまった。華やかな学歴と現実のギャップも、精神状態の悪化に拍車をかけている理由の1つに見えた。

「死にたいみたいなことが、いちばんひどかったのは30代。私、なにしているの……って悩みすぎて、混乱して、逃げたくて何度もオーバードーズした。もう、薬じゃ死ねないことはわかっている。だから首を吊るとかしないと、死ぬことはできないってわかっています。40歳を超えて結局風俗嬢のままで、腹をくくって今は風俗で耐えるしかないと覚悟しているけど、年齢を重ねるごとに不安は大きくなるばかり」

家庭の事情も複雑なようだった。大学在学中に結婚、同じ男性と結婚離婚を繰り返したバツ3で、今春大学1年生になった息子がいる。息子は遠く離れた地方の実家で父親が面倒をみていて、学費はすべて彼女が支払っている。父親と息子は、彼女が精神疾患に苦しむことや、ずっと前から風俗嬢であることを知らない。

外見は、普通の中年女性だ。スーパーマーケットとかパチンコ店にいるような「普通のおばさん」である。カラダを売っても簡単には稼げない外見であり、年齢だ。鶯谷に多い、本番を売る違法店に所属し、巨乳と淫乱痴女、さらに最後までの生サービスを売りにしてなんとか集客し、東京で1人暮らしをしながら実家で生活する息子に学費を送っている。

鶯谷駅の徒歩圏にあるマンションで、1人暮らし。家賃は月9万円。店には基本的に休日は取らずに、毎日働くと伝えている。毎日、午前中から翌日朝方まで出勤状態にして自宅で待機する。お客がつけば店から連絡があり、自転車で鶯谷周辺の指定されたラブホテルへと向かう。男性客に本番サービスを提供して、終わればそのまま自転車で自宅へと戻る。1日何往復もする。


鶯谷の様子(写真:かみぞー / PIXTA)

「鶯谷のラブホテルは全部行っていますよ。それも何十回も。何年間も毎日やっているので、誰でもそうなります」

鶯谷は女性のセーフティネットである性風俗の中でも、もっとも下層の地域として知られる。関東圏から、稼げなくなった風俗嬢が集まる。多くは40歳以上の中年女性で60代、70代の女性も普通に働いている。風俗嬢の終着点と呼ばれ、他地域で淫を売る若い風俗嬢たちはおそらく誰もが“鶯谷まで落ちたくない”と心の奥底で思っている。田中さんは、その鶯谷に流れて6年目。東京に仲間や友達がいるわけでなく、淡々と自宅とホテルを行き来するだけの生活を送る。

「風俗嬢の仕事は向いていたので、ここまで続けてしまいました。ずっと強迫観念的に悩んできたけど、簡単にいえば、社会に所属することができないことがツラかった。すごく苦しみました。風俗は世間に認知された仕事ではないので、風俗嬢は職歴がないのと同じ。18年間なんのキャリアもないわけで、自分が社会で生きていてはいけないんじゃないか、みたいな感覚になる。しかも、立ち直りが効かない。40歳を超えて現実は受け入れたので、死にたくなることもあるけど、今はなんとか生き延びようって気持ちではいます」

家計簿に客数、指名数、1日の売り上げを記録しているというので見せてもらった。本当に週6日平均、朝から晩まで働いていた。2017年12月は27日出勤で61万円を稼いでいた。精神疾患になりながら鬼出勤と呼ばれる過密労働をしているので、現状は経済的には貧困ではない。しかし、お薬手帳の処方箋から察すると、すぐに休養するべき状態で、医者にもそう言われているという。病気で倒れてしまえば、風俗嬢には、なんの保証もない。さらに地方出身なので周囲に助けてくれる人は誰もいない。精神状態が悪いからと仕事を休めば、生活保護しか頼る術がなくなる。

「息子の大学費用のために、なんとか稼がなければならないんです。それはすごく重荷で、ずっと精神状態も悪いけど、頑張るしかないですね」

無理してカラダを売りながら、命を削って生活を維持する深刻な状態だった。灰皿は早くも吸い殻が山盛りになっていた。ヘビースモーカーなんてものではない。明らかにタバコを吸いすぎだった。

“鶯谷”は一大デリヘル街

ここ鶯谷の説明を簡単にしておこう。JR山手線鶯谷駅に面した線路を底辺にして、駅を囲うように通る言問通りまでの台形の土地が、台東区根岸1丁目。300メートル四方ほどの小さな街で約50軒のラブホテルが密集する。利便性の高い駅前からラブホテルばかりで、狭間に立つ賃貸マンションは風俗店をどんどんテナントとした。鶯谷駅周辺は“鶯谷”と呼ばれる一大デリヘル街となった。

鶯谷は、行き場のなくなった風俗嬢が低価格で本番行為を売ることが常態化していて、カラダを売っても普通の生活ができない貧困女性の巣窟となっている。実際に生活保護の受給者も多い。月40万〜60万円を稼ぐ田中さんはおそらく鶯谷では最も高収入な部類で、それは休まずに午前中から朝方まで客を取るという長時間労働をしているからだ。

田中さん自身も鶯谷まで風俗嬢を続けるつもりはなかった。何度も抜けだそうと行動したことはある。

「20代のときは30歳、30代のときは40歳。年齢の節目で抜けだすのが目標でした。結局、それがかなわなかったとき、大きな絶望感というか、精神的なダメージがきました。特に29〜30歳のときには必死に就職活動をしましたけど、全然ダメでした。全滅です」

風俗嬢は法律的にグレーで、多くの女性たちには“いつまでもできる仕事ではない”“できればやらないほうがいい”という自覚はある。いずれ抜けだしたい、そう思いながら目先のおカネを稼ぐ日々を送っている。

「塾の先生ってウソをついて企業に面接にまわった。本当に全滅。最後の最後に奇跡的に1社だけ採用されて、これまでの在籍証明書を出してくれってなった。断念しました。それまで高学歴は自分の1つの大きな武器だと思っていたけど、通用しない、もう普通には生きていけないってわかった瞬間でした」

実家で暮らしている息子は中高一貫の名門校に在籍し、国公立の医学部を目指していた。父親には学費は面倒みてくれと言われていた。中途の就活に失敗したので、もう風俗嬢しか選択肢がなかった。35歳のときそれまでいた吉原で働ける店がなくなり、鶯谷の違法店に流れた。

鶯谷の報酬は安い。本番をして1人7000〜1万2000円程度で、40歳で足を洗うことを目標にした。おととし40歳を迎えようというとき、ハローワークの職業訓練を受けようと必死に調べた。相談員に薦められた介護や飲食業は給与水準が著しく低かった。また、断念した。自宅とホテルの往復だけの日々を過ごしているうちに、41歳の現在を迎えた。

家庭環境が複雑な「できる子」

どうして、厳しい現状を迎えることになったのか聞いた。田中さんは地方の、家庭環境が複雑でも学業優秀な子だった。

「子どもの頃はメチャメチャ勉強ができました。オール5で偏差値70くらいあって、中学から有名進学校に行きました。ずっと自分は医者になると思っていた。赤ちゃんの頃に両親が離婚した1人っ子で、家族は母方の祖父母でした。特に祖母が母親代わりで、エリート意識が強くて人生のすべてを支配するみたいな性格で、ずっと嫌いで高校生のときに反抗した。そこからおかしくなりました」

離れて暮らす父親は個人塾の経営者、育児は母方の祖父母に任せた。祖母の望み通りに有名進学高校でまじめに過ごしていた彼女は、性に潔癖な祖母が忌み嫌うであろう援助交際に手を出した。

「伝言ダイヤルです。女子高生だったので2万、3万で売れました。だから処女喪失は売春ですね。こんなもんかと。正直なんとも思わなかった。“割り切って遊んでくれる人を探しています。おっぱいGカップ”とか入れると、返信がボンボン入ってくる。ちょうど女子高生ブームだったし、本当に軽い気持ちで売りました。高校時代は頻繁にやったのでおカネはありましたね。国公立の医学部が祖母の意向で、そこも反抗して私大しか受けませんでした」

一浪して、東京理科大学に合格した。学費は父親がすべて支払い、東京で独り暮らしするアパートも見つけてもらった。仕送りは家賃込みで毎月15万円以上が振り込まれた。単身の学生生活でも、おカネに困ることはなかった。

大学1年からアルバイトを始めた。自宅近くのパチンコ店の時給が高く、カウンター業務のパチンコ店員になった。

「旦那は同じパチンコ屋の店員。同僚ですね。お互い好きになって、彼に告白されて付き合った。すぐに妊娠、産むことにした。機能不全家庭で育ったから新しい家族が欲しかった。それで、20歳のときに親に黙って結婚して出産した。それと、その頃に文学に興味が出てきて早稲田大学に入り直した。子どもがいるからってやりたいことを諦めたくなかったんです」

夫のパチンコ店での収入と、実家からの仕送りで生活しようとしたが、夫は出産早々に仕事を辞めてしまった。コンビニ、派遣など、新しい仕事を見つけてもすぐに辞めてしまう。仕事がまったく続かなかった。

「帝王切開で産んで、1週間入院して帰った。最初のお給料日に『いくらか入った?』って聞いたら、仕事に行ってないって、ゲーセンで遊んでいたって。こっちは大変なときに、怒るじゃないですか。そしたら逆ギレして殴られた。DVが始まりました。旦那は最終的にパチプロになる、みたいなことを言って本当に働かなくなった」

実家からの仕送りだけでギリギリの生活となった。育児は大変で夫は働かない、DVも日々激しくなって大学もある。精神的に負担がかかった。

「それでも好きだったので別れたくなかった。お嬢様で育って、そういうメチャクチャな人に初めて会った。底辺というか。だんだん心を病んで、不眠とか無気力状態みたいなのが続いて、初めて精神科医にかかりました。子どもも虐待されていた。児童相談所に相談に行ったら、大学を辞めて子どもを守れと言われて、大学は辞めたくなかったので無視していたら緊急措置になりました。息子は2歳のときに乳児院に保護されて、3歳からは児童養護施設に送られました」

結局、結婚3年目の24歳、息子が3歳のときに離婚。父親と実家の祖母に出産と結婚、そして離婚を伝えた。児童養護施設にいた息子は、父親が引き取った。

歌舞伎町のピンサロに応募した

離婚して仕送りを止められた。大学もまだ2年残っていて、時間も限られてくる。時給の高い風俗で働こうと思った。自分が華やかなソープやヘルスに採用されるとは思わなかったので、ハードルの低そうなピンサロに応募した。歌舞伎町の店だった。

「今、女の子募集しています?と聞いて、その日からピンサロ嬢です。ピンサロでは稼げた。稼げたといっても月40万円ぐらい。性的サービスが苦痛じゃないこともあって、いい仕事を見つけたくらいの感覚でした」

風俗はすぐに成果が返る出来高制の仕事で、男性から必要とされることにやりがいを感じてしまう女性は多い。

「機能不全家庭で育ったのと離婚もあって、とにかく私を必要としてほしい、愛してほしいというのがあった。指名が増えると、やっぱり承認欲求が満たされる。ハマってしまいました。ピンサロで4年間働いてその次は吉原で8年、鶯谷で6年目です。就職活動しないで大学卒業して、そのまま風俗を続けた。30歳手前になって現実に気づいた。もう、取り返しがつかなくなっていました」

20代の頃はなにも考えていなかった。30歳のときに就活に失敗して社会に戻れない現実に気づいて、急激に不安になった。祖母のいる実家には居場所はなく、父親も息子も戻ってくることを望んでいない。学生時代は結婚、出産、離婚があったので、学生時代の友達は誰もいない。親戚も近所付き合いもなく、風俗の仕事にしがみつくしかなかった。

「吉原の店で早朝から閉店まで働くようになった。いつまでできる仕事かわからないし、稼げるときに稼がないと不安で仕方がなかった。週の半分は店に泊まるみたいな働き方で1日10本とかの日もあった。本当の肉体労働なので、本当にヘトヘトです。そこまでやるのはおカネに対する執着ですよね。おカネがあれば、不安を消してくれるので」

働いてばかりで恋人はできなかった。離婚から7年後に離婚した元夫から連絡があった。やり直したいと泣きながら言われて、頷いた。

「元旦那は相変わらず働いてなくて、ヒモになりました。ソープで働いていることは当然知っていて、頑張れみたいな感じだった。2年くらい一緒に住んでおカネを盗まれて、追いだして離婚。忘れた頃にまた現れて3回目の再婚したけど、相変わらず働かないのが嫌になって離婚しました。今は福祉に頼ってホームレスの救済施設みたいなところにいるみたいです」

30代後半からは、寂しさ紛れでハマったビジュアルバンドマンに貢いだ。今も心の支えは、ビジュアルバンドマンだという。

精神崩壊させてまで働いてきたが…

18年間。不安から逃げるために、おカネに執着してひたすらカラダを売った。精神崩壊させてまで現在進行形で働き続け、今残っているのは銀行口座に75万円、それに財布に昨日働いた報酬の2万6000円が入っているだけである。

中学から学費を払い続けている息子は、母親と同じく国公立大学医学部を目指したが、失敗が続いた。アイドルオタクになって勉強をしているようには見えなかった。2浪して合格したのは、中堅私大の看護学部だけだった。

「もう、絶望しました。まともに育てることができなくて、息子には申し訳ない気持ちがあって頑張った。償いというか。けど、本人はおカネを払ってくれるおばさんくらいにしか思っていないし。ここまでカラダを張ってきたのに、お前はなにも知らないねって」

父親は期待をして東京に送りだし、高額な仕送りを続けてくれた。それから20年が経って、鶯谷から抜けだせないでいる。精神疾患になりながらカラダを売っておカネを稼ぎ、支援を続けた息子はアイドルオタクになって、母親の苦労をなにも知らないで今日も安穏としている。因果応報だと思った。

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