選挙結果を"民意"と呼ぶべきではない理由

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■多数派の意見すら尊重されない実態

10月22日、衆議院選挙の投開票が行われる。今回も政党間の選挙協力がどれだけ進むかによって、結果の明暗が分かれるだろう。

2014年の衆院選。東京1区では自民党の山田美樹氏が10万7015票を獲得して当選した。次点の8万9232票で落選したのは当時民主党の代表だった海江田万里氏だ。代表の落選は民主党に大きなダメージを与え、その後に他党と合流し、民進党と改称する契機のひとつとなった。

この選挙で注目したいのは、3位だった日本共産党候補の冨田直樹氏が3万2830票を獲得したことだ。仮に冨田氏に投票した人に、「山田氏と海江田氏のどちらを支持するか」と聞いたら、多くの人が海江田氏を選んだのではないだろうか。もし民主党と共産党が選挙協力し、候補を一本化していたら選挙に勝っていたかもしれない。

2016年の参院選では、民進党は他の野党と選挙協力を行い、32区ある「一人区」で11議席を獲得した。中でも青森、三重、新潟、大分の4選挙区は僅差の勝利だったが、2位の自民党候補と3位の幸福実現党候補の票の合計は、1位の民進党候補の票を上回っていた。幸福実現党の政治的スタンスは自民党に近い。もし幸福実現党が候補を擁立していなかったら、自民党候補が勝っていた可能性は高い。

■一番簡単なのは、決戦投票

かように選挙の大勢には関係ないように見える第3の候補も、実は結果に大きな影響を与えている。これは多数決というものが、選択肢が3つ以上ある場合、「票の割れ」に弱い制度であるからだ。

多数決には「少数派の意見が尊重されないのではないか」という批判がついて回るが、票が割れた場合、多数派の意見すら尊重されないという事態が起こりうるのである。多数決はいかにも優れた制度のように思われているが、実は数ある物事の決め方のうちの1つにすぎない。使われているのはただの慣習だと考えたほうがよい。

「票の割れ」を解決する決め方で、一番簡単なのは、決戦投票である。

多数決で1位の候補が過半数に届かなかった場合、1位と2位で決戦投票を行う。もしくは1位に3点、2位に2点、3位に1点といった具合に、順位に配点して投票するボルダルールだ。有権者が投票用紙に1位候補の名前しか書けない多数決は、2位以下をすべて白票にしているようなもので、圧倒的に情報が少ない。しかし心の中には、2位以下に対する考えを持つ場合もあるわけで、ボルダルールのほうが多くの情報を投票用紙に反映できる。もう少し複雑な方法になるが、実際にオーストラリアでは有権者が上位4名まで意思表示できる制度を採用している。

■多用される「民意を問う」という言葉

今回の衆院選でも、候補者は「民意を問う」という言葉を多用するだろう。しかし多数決が必ずしもいい決め方とは言えない以上、選挙結果を安易に民意と呼ぶべきではない。選ばれた政治家が民意を代表しているという理屈で、好き勝手にやる考えは成立しない。

政治家を選ぶことと政策を選ぶことがイコールではない事実を表すのが、「オストロゴルスキーのパラドックス」である。

政党AとBが財政、外交、環境でそれぞれ別の政策を打ち出しているとする。これに対して、有権者1は財政と外交ではAを、環境ではBを評価し、総合評価で支持政党はAになった。同様に、ほかの4人の有権者も総合評価で投票した場合、Aに2票が集まり、Aが選挙に勝つ。

だが仮に財政、外交、環境のそれぞれの項目で多数決をとると、すべての政策でBがAを上回るのだ。これはマニフェストが「政策の抱き合わせ販売」ゆえに、起きる現象とも言える。この真逆の結果を見て、多数決の選挙で勝った政党や候補が、「民意に支持された」と言い切れるだろうか。

■多数決の「適切な使い方」とは

とはいえ、多数決がダメな制度というわけではない。天才科学者フォン・ノイマンは、低性能な電気回路から高性能なコンピュータを作る「電気回路の多数決」原理を見出した。

低性能な電気回路は、本来「A」という信号を送るべきときに、エラーを起こして反対の「not A」という信号を送ってしまう。しかし3本のうち2本が同時にエラーを起こす確率は非常に低い。そこでノイマンは、低性能の電気回路を並列して3つ以上並べ、多数決の結果「A」という結果が出れば、それを採用することにしたのだ。結果、コンピュータが誤作動を起こす頻度は格段に下がった。かように多数決は、適切に使えば、「正しい判断をしやすい」という利点がある。電気回路を人間、コンピュータを集団に置き換えたとして、個々の人間が判断を間違えたとしても、集団の多数派による判断では正しい確率が高まっていく。

多数決が適切に使われるには、いくつかの条件がある。まず「ボスがおらず、空気に流されないこと」。3人のうち1人ボスがいて、もう1人がその意見に従う子分である場合、ボスの判断=多数決の結果になってしまう。そして「共通の目標があること」。

電気回路にはコンピュータを正しく動かすという共通の目標があった。人間社会であれば、「私たちの社会にとって必要なものを選ぶ」が共有されなくてはならない。これが「私にとって必要」もしくは「私の属する特殊な集団にとって必要」と考えていたら、私的利害のぶつかりあいになり、共通の目標が生まれない。

しかしこの条件を現実的に満たすのは、容易ではない。〈私たち〉よりも〈私〉の利益を尊重して、投票に向かう人は少なくないからだ。

適切に使うのが難しいのであれば、多数決で決めていいことには制限を設けるのが賢明である。日本の国会において多数決で決める法律は、憲法に違反してはいけないというルールになっている。これは「憲法を使って多数決に制限をかけている」状態と言えよう。また多数決が暴走しないためには、「複数の機関での多数決にかける」「多数決で物事を決めるハードルを過半数より高くする」ことも有効になる。

そもそも多数決は、どうでもいいことを決めるのには非常に適している手段なのだ。たとえば「昼飯は中華にするか和食にするか」を決めるとき、挙手して多いほうの意見を採用するのは、時間もかからず便利だ。しかしこうしたことでも、長い期間にわたって同じ選択が続きすぎると、少数派の鬱憤がたまって、集団の分裂を起こすことがある。それを防ぐには、多数派が多めにお金を払うことで明暗の差を縮めたり、たまにジャンケンで勝った人が行きたい店を決められるような運任せの要素を取り入れたりする必要がある。

■選挙の勝者にこそ説明責任が必要だ

多数決を利用する場合、注意したいのが「説明責任」だ。集団レベルの決定には、反対意見の人も従わされる。全員は無理でも極力多くの人が納得できるよう、「なぜAよりBがいいか」について、説明を尽くさねばならない。

本来、理屈Aと理屈Bが対立し、かつ一定期間内にどちらかに決めなければならないときに、最後の手段として利用するのが多数決であるべきだ。

「理屈で決められないから、やむなく多数決」なのであって、「理屈は無視して、とにかく多数決」は、使い方を間違えている。さらにそこで「多数決で勝ったから従え。説明責任も不要」という態度に出るのは、多数決の横暴である。

与党が自ら公職選挙法と選挙制度を変える可能性はほぼないだろう。しかし私は変わっていく期待は捨てていない。たとえばマスコミが世論調査をする際、ボルダルールを採用すれば、人々がどの政党をどの程度評価しているかの詳細や、人気の高い政党がどれか、よりよくわかるようになる。

人気があるとわかった政党は政策を変える必要がなくなり、国民にとっても利益になる。多数決に代わる優れた決め方を取り入れることで、「私たち」が納得できる社会が近づくことを望む。

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坂井 豊貴(さかい・とよたか)
慶應義塾大学経済学部教授1975年、広島県生まれ。米国ロチェスター大学Ph.D(経済学)。横浜市立大学、横浜国立大学、慶應義塾大学の准教授を経て、2014年より慶應義塾大学経済学部教授。著書に『多数決を疑う』(岩波新書)、『大人のための社会科』(共著、有斐閣)など。

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(慶應義塾大学経済学部教授 坂井 豊貴 構成=吉田洋平)