【第4回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 国際プロレスが設立されたのは、1966年10月。ジャイアント馬場の率いる日本プロレスに対抗すべく、吉原功(よしはら・いさお)社長の斬新な数々のアイデアによって、プロレスファンの心を徐々に掴んでいった。アニマル浜口は、その時流に乗ってさまざまな経験を積んでいくことなる。

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国際プロレスへの参戦で初来日を果たしたビル・ロビンソン「アニマル」の名付け親・吉原功(4)

 1970年代に入り、アントニオ猪木とジャイアント馬場が相次いで抜けて弱体化した日本プロレスに対し、1972年、国際プロレスは名古屋での興行戦争で勝利を飾った。だが吉原は、馬場が設立した全日本プロレス、猪木が設立した新日本プロレスとはお互い潰し合うことなく共存共栄を図ろうと考え、日本プロ・レスリング協会を設立することを画策していたという。

「吉原社長が1930年生まれで、馬場さんが1938年、猪木さんが1943年ですから、おふたりとも吉原社長からすればかなり後輩ですけど、一国一城の主というか、選手として自ら戦いながら団体をリードしていく馬場さんや猪木さんを立てていました。『俺が、俺が』と出て行かず、謙虚な方でしたよ。

 吉原社長は本当に数多くの改革や新機軸を打ち出しましたが、なかでも一番はヨーロッパルートを確立したことだと僕は思います。それまで日本のプロレス界は、アメリカ一辺倒でしたからね。レスラーを呼んでくるのも、こっちから遠征に行くのも。ヨーロッパのプロレスなんて、日本では誰も知らなかった。

 ところが、吉原社長はヨーロッパから選手を連れてきた。”人間風車”の異名を取ったイギリス人のビル・ロビンソンしかり、フランス人のモンスター・ロシモフ――のちのアンドレ・ザ・ジャイアントしかり。ロシモフは国際プロレスで一緒になったバーン・ガニアがアメリカに連れていって大活躍し、大スターになったんですから。

 前にも言いましたけど、社長はアマレスをやっていて、しかも早稲田の出身だったから、国際レスリング連盟の理事や副会長を長年務めた八田一朗さんとのつながりがあって、その関係でヨーロッパルートをつくれたんでしょう」

 1970年8月28日にはストロング小林、マイティ井上がヨーロッパ遠征に出発しているほか、田中忠治、八木宏、鶴見五郎らも次々とヨーロッパ遠征を行なっている。

「吉原社長は、選手たちをよく海外遠征に行かせましたよ。アメリカだけでなく、カナダ、ヨーロッパ、南米、ニュージーランドなどあちこちに。トップ選手たちだけでなく、若手も。それも吉原社長の功績でしょう。

 僕も入団3年目の1972年2月に武者修行としてアメリカ遠征に行かせていただいて、1年ほど各地を転戦しました。そして1973年に帰国。2度目の遠征は、1976年6月から。そのときも半年以上でしたね。インディアナポリス、デトロイト、シカゴ、ミネアポリス、さらにはカナダ、プエルトリコなども転戦しました。向こうでのリングネームは”ヒゴ・ハマグチ”。本名のヘイゴ(平吾)というのを、彼らはうまく発音できなくてね。

 あのころは航空券の手配やホテルの予約から、買い物や洗濯まですべて自分でやらなければいけなかった。そのうえ、当時は”ジャップ”とバカにされてね、ずいぶんと悔しい思いもしました。自慢じゃないが、まったく英語がわからないまま渡米して、2ヵ月もしないうちに英語でケンカしていましたよ。まぁ、相当いい加減だったでしょうけど。

 あれはね、『日本という国を、内と外からしっかり見つめろ。どんな相手にもビビるな』という吉原社長のお考えだったんじゃないかな。そんな経験をさせてもらったから、女子レスリング日本代表の特別コーチとして海外に渡ったときでも、どんなに大きい外国人コーチが来ようが少しも臆(おく)することなく、渡り合うことができたんです。

(ナニワトレーニングセンターの)荻原先生といい、吉原社長といい、偶然なんですけど、すごい出会いです。僕は本当に運がよかった。プロレスラーになれたことはもちろんですけど、入ったのが国際プロレスでなければ、吉原社長のもとでなければ生き残れなかったでしょう」

 国際プロレスといえば、関係者はもちろん、ファンの間でもよく知れた”酒豪”ぞろいである。さしずめ、グレート草津、ラッシャー木村、アニマル浜口あたりが「三大酒仙」といったところだろうが、社長の吉原も大の酒好きだった。

「あのころは地方に行くと、旅館に泊まっていました。外国人選手は別だったけど、我々選手たちだけで少なくとも15人、それにレフェリーやリングアナウンサー、営業担当、トラックでリングを運んで設営するスタッフもいたから、ざっと数えても20人以上の一個連隊。スポンサーと街に繰り出さないときは、大広間で宴会ですよ。

 学生の合宿みたいだったけど、社長も来ると一緒になって呑んでね。宿のビールも日本酒も焼酎も全部なくなっちゃって。それで終わりかと思ったら、今度は誰かの部屋に行って、持ってきた酒で2次会。夜が明けるまで延々と呑んでいました。呑んだら最後、『このへんで終わりにしよう』なんて誰も言わなかったですからね。社長を筆頭に、木村さん、草津さん、寺西(勇)さん、井上さん、僕、鶴見(五郎)、大位山(勝三)、米村(天心)、(スネーク)奄美……そのあたりがだいたい、いつもいるメンバーで。

 そうだ、大位山といえば、また話が脱線しますけどね。あのころ毎年、お正月は埼玉の浦和にある社長のご自宅にみんなで集まっていたんですよ。そのときも、例によって朝から座が開いて、呑んで、呑んで。それでも、『まぁ、電車があるうちに』と帰ったんですけど、大位山は山手線に乗り換えたところで寝てしまった。それからぐるぐる、ぐるぐる、何周も回って、結局ずっと山手線に乗っていた。彼もめっぽう酒が強かったけど、あんまり自分をさらけ出さないタイプ。静かに呑んでいて、女のコなんか横にくると、フランク永井さんの『おまえに』を歌ってモテてたけど、こっちは騒いで終わりでした。

 社長は何を呑んでいたのかなぁ。そうそう、ウイスキーの”ダルマ”、サントリー・オールドをよく呑んでいましたよ。どんなに呑んでも、酒に呑まれるということがなく、絶対に乱れない。みんなが呑んでいるのを黙って見ながら、静かに呑んでいました。その点は、ラッシャー木村さんも同じ。社長と木村さんが呑んでいると、ふたりともまったくしゃべらず、ただ黙々と呑んでいるだけ。それでふたりでウイスキーを2〜3本空けていたな。

 僕はというと、もう真逆でね。呑めば騒ぐし、裸になって踊り出す。社長の前でも、呑んだら好き勝手にやっていましたよ。そうしたら、あるとき社長に言われたんです。『ハマ、おまえはいいねぇ。呑むとすぐ、いい気持ちになれて』と。

 社長はプロレスラーには珍しく物静かな方でしたが、歌もうまくてね。鶴田浩二さんの『赤と黒のブルース』や、『街のサンドイッチマン』をよく歌っていました。なんとなく鶴田浩二さんの、甘いけど陰りがあるイメージとダブるというか、逞しい背中に男の哀愁ってヤツを感じさせていて、カッコよかったですよ。”ダンディ”という言葉は、この人のためにあるのかと思いましたね。義理人情に厚く、不器用だけど筋を通す男気があって。昭和5年のお生まれですけど、明治気質な方で、男の美学を貫かれていました。僕は今でも、『吉原社長のそばにいたい』、そう思っています」

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

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