番組タイトルに冠のつくさんま、つかなかった紳助。その決定的な司会術の差

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最近読んだあるコラムで、明石家さんまのレギュラー番組は、タイトルにその名を冠したいわゆる冠番組がほとんどなのに対して、吉本興業の同期でさんまと並ぶ稼ぎ頭であった島田紳助には冠番組が意外に少ないとの指摘があった。なお、そのコラムが書かれたのは2009年、紳助が芸能界を引退する2年前のことだ。


言われてみると、さんまの番組は、放送開始から30年をすぎた「さんまのまんま」をはじめ、「踊る!さんま御殿」「さんまのスーパーからくりTV」「さんまのホンマでっかTV」などなど、すでに終了したものも含めほぼ例外なくその名が冠されている。

これに対して紳助メインの番組は、おバカブームを起こした「クイズ!ヘキサゴン」といい、彼の引退後も続く「開運!なんでも鑑定団」や「行列のできる法律相談所」といい、紳助が出演するだけでなく企画からかかわったものがほとんどながら、タイトルにはその名前が冠されていない。

くだんのコラムでは、紳助に冠番組がほとんどないことについて「意図的に避けたのかも」としたうえ、執筆当時の2009年5月に「ホンネの殿堂!!紳助にはわかるまいっ」という番組が始まったことに触れ、《局サイドの要望もあってのことだろうが、あまり“さんま化”しないでほしいな》と結ばれている。

このコラムを書いたのは森卓也という映画評論家である。森は「中日新聞」に1979年から30年にわたり、そのときどきの映画やテレビ、演芸など広くエンターテインメント全般についてコラムを書き続けてきた(初出時は匿名コラムだった)。それらは先ごろ、『森卓也のコラム・クロニクル1979-2009』(トランス・ビュー)と題して一冊にまとめられた。冒頭で紹介したコラムは「中日新聞」2009年5月27日付に掲載されたもので、この本の最後に収録されている。先の結びの一文からもあきらかなとおり、森はさんまよりはどちらかといえば紳助びいきであった。

紳助vs.さんま


本書に初めて紳助の名前が登場するのは、1980年8月29日付のコラムだ。マンザイブームのさなかだが、紳助が野次に怒って舞台を降り、酔客に詰め寄ったがために謹慎させられたという“事件”にいささか同情的に言及している。驚くのは同じコラムの冒頭に《テレビでの漫才ブームは、実に短かったな。二カ月と続かなかったんじゃないか》と書かれていたこと。そのつい4週間前、8月1日付のコラムでは《気がついてみたら、漫才ブームである》と記されていたのだが。

紳助は1985年に松本竜介とのコンビを解消、漫才から退く。このことを森は同年7月16日付のコラムで、《資質としては、ビートたけしよりも漫才型だと思う。いずれ、しかるべき相方との高座を見たいものだ》と惜しんだ。ちなみにこのコラムと同じ見開きには、紳助の師匠である島田洋之介を追悼するコラム(1985年7月29日付)が掲載されており、編集の妙を感じた。

時代が下ると、さんまとの対比が折に触れて出てくる。1999年7月2日付のコラムはずばり「対照的な紳助とさんま」というタイトルで、「開運!なんでも鑑定団」での紳助の司会が、《出場者をからかう時も、テンポよく畳み込んでサッと切り上げるその呼吸》が小気味いいのに対し、「さんまのまんま」の明石家さんまは、《時としてゲストいびりがしつっこく、“西の萩本欽一”的になることがある》と指摘する。

もっとも、森はさんまを不当に貶めているわけではない。評価すべきところはきちんと評価している。たとえば、文化人を相手にしたときにも変わらないツッコミ。さんま司会のトーク番組「テレビくん、どうも!」(フジテレビ)に、元首相・田中角栄の秘書だった早坂茂三がゲスト出演したときには、こんなやりとりがあったという。

このとき、早坂が好きなテレビ番組として、「気持ちが落ち着く」からとNHKの「関東甲信越小さな旅」をあげると、ほかの出演者(作家の長部日出雄)が「政界なんて生々しいところにいるからでしょう」と応じた。これに「悪党ばっかりだからねえ」と早坂が口にすると、すかさずさんまは「自分が見て落ち着くんでしょう。自分が悪党なんですよ!」とツッコミを入れたというのだ。政治評論家などはこうしたゲストに面と向かうと及び腰になりがちだが、《さんまの自然体の“突っこみ”は、そうした評論家にありがちな弱腰を、軽々と超えている。あっぱれなやっちゃ》と森は褒め称えている(1988年11月9日付)。

テレビは「成長過程を見せるメディア」


こうして特定の人物に関するコラムを追って読んでいくと、対象の変化がうかがえて興味深い。同時に、一見関連のないようなコラムと併読することで示唆を受けることもある。

たとえば、あるコラム(1999年6月25日付)では、俳優・渥美清の「テレビは、演技ができあがる過程を見せるものではなかろうか」との言葉が引用されている。これを踏まえて、「クイズ!ヘキサゴンII」をとりあげたコラム(2007年10月17日付)での《以前「サルでもわかるニュース」で飯島愛に常識を授け、今この番組の「脳解明クイズ」でおバカ六人に出題を説明している、元“利口な不良”紳助は、落ちこぼれ指導の天才なのかも》との評を読むと、紳助はまさに「成長過程を見せるメディア」であるテレビの特性を最大限に生かしたともいえそうだ。そんなことに気づかせてくれる本書は、テレビ史を振り返る格好の資料でもある。

一般的には無名だった宮崎駿をいち早くとりあげる


本書でとりあげられているのはテレビにとどまらず、映画、演芸、演劇と幅広い。なかには山田太一のように、テレビドラマだけでなく演劇も含め携わった作品を丹念に追いかけているつくり手もいる。

アニメーションについての著書も多い森だけに、関連するコラムも多い。1980年10月24日付のコラムでは、テレビアニメ「ルパン三世」の最終回で脚本・絵コンテ・演出を手がけた「照樹務」とはじつは宮崎駿のペンネームだと明かされているのだが、そもそもこの当時、どれだけの人が宮崎の名を知っていただろうか(彼が一般的に知られるようになったのは、せいぜい1984年に映画「風の谷のナウシカ」が公開されて以降だろう)。手塚治虫が亡くなったときの追悼文(1989年3月1日付)も、手塚マンガでの作者の“遊び”に着目したのが出色だ。

なお本書に収録されたのは、森が「中日新聞」に寄稿したコラムのすべてではなく、選者の和田尚久が全体の半分ほどにまで取捨選択したという。それでも分量は700ページ近い。個人のコラムがこうしてまとめられることは、著名な書き手でも最近ではあまりないだけに、まさに快挙といえる。

驚かされるのは、森卓也が生まれてからこの方、愛知県一宮市在住ということだ。彼は映画や舞台を見るため、東京や大阪にたびたび足を運びながら、さまざまなことを記録し続けてきた。そこでは愛知から東京、大阪という距離がプラスに作用している、と和田尚久は巻末の解説で指摘する。《訪問者である彼はドメスティックな“雰囲気”の外部に身を置く》からこそ、客観的に書くことができるというわけだ。東京から愛知にUターンして文筆業を続ける私には、その意味でも学ぶべきところは多い。
(近藤正高)