「あさが来た」は朝ドラのテーマ「女と家」を再認識させた傑作だった

写真拡大

朝ドラ「あさが来た」(NHK 月〜土 朝8時〜)4月2日(土)放送。第26週「柔らかい心」第156話より。原案:古川智映子 脚本:大森美香 演出:西谷真一


雨と家


朝ドラ「あさが来た」が156回を駆け抜けて、4月2日(土)、ついに最終回を迎えた。
朝ドラ初の幕末スタートとなった「あさが来た」は、大阪の両替商のもとに嫁ぎ、銀行、学校、女子大学校と次々設立していった実在の実業家・広岡浅子をモデルにして描かれた主人公あさ(波瑠)が、男尊女卑が激しい江戸から明治時代にかけて、女だてらに事業を興していくという痛快なサクセスストーリー。
これまで戦後の女性の生き方を多く描いてきた朝ドラが、男尊女卑の意識が極めて厳しい時代を舞台にしたことで、女性の生き方についていっそう深く考えさせる。放送開始55年にして、朝ドラの原点に立ち返った意欲作だったと思う。

最終回はこんな内容だった。
最愛の夫・新次郎(玉木宏)が亡くなって7年、まだなお女子教育に意欲をもやすあさ。勉強会の休憩中、杖をつきながら歩くあさ(波瑠)の目の前に、若き新次郎の幻影が。
杖を放り出して駆け出すあさ。その姿はすっかり若返っている。
花の咲く野原で向き合うふたり。
新次郎があさを抱えてくるくる回る。
新次郎「ご苦労さん、きょうもようがんばってはりますな」
あさ「へぇ、旦那さま(台本にはハートはついてないと思うがハートついて聞こえた)」
新次郎があさのほっぺたに触れる。ふたりいつまでも見つめ合う・・・
〈終わり〉

「きょうもようがんばってはりますな」で、ビューネくんのCMを思い出した。
女が働いて疲れて家に帰ってくると、イケメンのビューネくん(人間の姿形をしてるが妖精っぽい)が癒してくれる化粧品のCMだ。
最近だと、スナック菓子のCMで小栗旬が猫を擬人化したようなキャラを演じているものもこれに近い。“がんばる女性にイケメンの癒しの需要”は高く、この手の表現は後を絶たない。
大森美香はかつて、働く女が若い男子を飼うように同居させる漫画のドラマ化「きみはペット」(03年)の脚本も書いているので、働く女のツボを抑えていて、最終回、女性がうれしいまとめ方を選択したのだろう。
こういったサービスも含め、「あさが来た」の成功は、大森が最後の最後まで練りに練って紡いだ脚本による部分が大きい。終盤、脚本の上がりが遅く、撮影スケジュールがかなり押したようだが、それも無理ないと思うほどの細やかさだった。
とりわけ唸ったのは、155回のラストの「雨」だ。
155回のレビューではモノローグについて書いたが、それ以上に雨が秀逸だった。
亡くなってもう話しかけることのできない新次郎を惜しんで泣いていると、雨が降ってくるのは、新次郎があさに声をかけているように見える。
亡くなってしまった人とやりとりの見せ方として、最終回のような幻パターン、同じく朝ドラの「マッサン」にあった手紙パターンなどがある中、大森美香は、自然現象でそれをやって見せた。新次郎のジンクス「嬉しいことがあると雨が降る」という自然現象は、過去、何度も名場面を生んできた。もう充分過ぎるほど使われたこのジンクスは、完全に視聴者の意識に根付いているから、雨が降ったら、新次郎だ! と誰もが思う。
亡くなってもう会えない悲しいシーンなのになぜ雨か。
あさがこんなにも自分のために泣いてくれていることを新次郎は嬉しいのだろうと思わせる。なぜなら彼は長らく、あさは商いのほうが大切なんではないかと心配していたから。
死んだ人間が生きてる者とコミュニケーションする斬新な方法を、大森が最初から考えていたとしたら、ヤラレタとしか言いようがない。

もうひとつ秀逸だったのは、「家」だ。
新次郎の四十九日の法要の合間、あさとはつ(宮崎あおい/崎の大は立)は「お家を守れたか」と確認し合う。
彼女たちが最後の最後まで、嫁ぐ際に父母から言い聞かされた「家」を守ることを軸にしていたことに驚いた。
そういえば、大森は「調べれば調べるほどこの時代の女性は男性との差に苦しんでいたことに驚く」というようなことをインタビューで漏らしていた。

「ようやった ようがんばりました」と互いをねぎらいながらも、あさとはつの一代では、女性が「やりたいこと好きなように自由にできる」ことは容易でないことを、大森はチクリと描いている。彼女たちは彼女たちなりにがんばったが、まだまだ革新には届かない。
終盤、登場した次世代の女としての平塚らいてう(大島優子)の存在意義がそこで明確になってくる。この後、彼女をはじめとして、この時代の家父長制度に異を唱える女性が登場してくる。
けれども、あさが勉強会で「国が育ったらもっともっとみんな幸せになれると思うてたのに こない生きづらい世の中になってしまったのがなんでなんだすのやろな」と言うように、その後の平塚たちが拓いた女の道だって完全なものにはならない。だから、2016年、いまなお、女性の問題はなくなっていない。
それでも、その時代、その場所で、あさやはつのようにできることをせいいっぱいやって生きて行くことしかないのだろう。そんな彼女たちに、「あさが来た」の男性たちはほとんどが女性に優しく、妾も作らずひとりの女を愛し抜き、女性のやりたいことのために手を貸してくれる人たちばかりだった。これは、脚本を書くにあたってたくさん調べて知った昔々に苦労しながら亡くなっていった女たちへの、大森なりの弔いではなかったか。あさやはつとは違ってうまくいかなかったたくさんの女性たちのために、大森美香は最高の夢を描いたのだ。そして、その夢の象徴こそが、白岡新次郎だった。
(木俣冬)

木俣冬の日刊「あさが来た」レビューまとめ読みはこちらから