「昭和元禄落語心中」10話。死神ふたたび

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フィナーレが迫ってきた「昭和元禄落語心中」、第10話は有楽亭菊比古の一人立ちと落語家としての覚醒を描き、現代編へつながる1話だった。雲田はるこの原作では第4巻にあたる部分である。


本題に入る前にファンの方には朗報を。第2巻が来週3月26日に発売になる。収録分は第2、3話だ。ご記憶だろうか、第2話の冒頭では、子供時代の菊比古と助六が登場し、どちらが先に入門するかで門前で小競り合いを繰り広げていた。あのとき助六は子供ながらに「野ざらし」の一部を口演してみせたのだが(第9話のラストにも意外な形でこの噺が出てくる)、その声を当てたのが落語立川流、立川談春門下の二ツ目、立川こはるだった。BD/DVD発売を記念して、そのご当人の声をいただいてきたので、どうぞ。



歯切れのいい口調が魅力の立川こはるの落語は、以下の日程で聴くことができる。
「第52回 土曜お昼の★若手箱 こはる・正太郎二人会」 入場料2000円(1ドリンク付)
3月26日(土)13:30開演(所)koenji HACO
・「立川流日暮里寄席」前売1,800円 / 当日2,000円
4月6日(水)18:15開演日暮里サニーホール コンサートサロン

ちなみに今夏のこはるは、7月19日から8月4日の間、若手真打を代表する人気者・春風亭一之輔と一緒にベルギー・フィンランド・ポーランド各地を字幕公演や学生向けワークショップで訪れる欧州公演で忙殺されるとのことだ。

死神ふたたび


七代目有楽亭八雲が亡くなった。前回で恋人のみよ吉と別れ、兄弟同然の盟友・助六が破門されて去り、親代わりである師匠が今回はこの世の人ではなくなった。八雲の家令として住み込みで働いていた松井さんも家庭の事情で辞めたため、菊比古の周囲から親しい人たちは皆いなくなったのである。誰のためでもなく、おのれのために落語をやると決めた菊比古が、ついに手に入れた真の孤独だった。
1人になった菊比古が師匠没後初の高座に選んだのが「死神」である。以前にも触れたことがあるが「死神」は西洋のメルヒェンに起源があるとも言われる妖異譚で、決して心を和ませるような噺ではない。人間の生死を扱っており、落ちは皮肉なものだ。師匠を亡くした菊比古に対して観客は同情的であるだろう。にもかかわらず、心を温める人情噺ではなく、そうした凄味のあるネタを選んだのだ。そこに一本立ちを果たした菊比古の自負、矜持が見て取れる。
八代目有楽亭八雲は、このときに誕生したのだ。

思い起こせば第1話、後に与太郎の名を貰う強次は、刑務所の中でこの「死神」を聴き、八雲への弟子入りを決意したのだった。そのときの高座も、こうした迫力に満ちたものだったのだろうか。

高座と死


七代目八雲は高座を勤める最中に発作を起こし、病院へ運ばれた。このエピソードは、六代目三遊亭圓生の最期を連想させる。
圓生が倒れたのは1979年9月3日のことだった。そのしばらく前から圓生の身体は疲労の極致に達していた。8月22日名古屋にて独演会、23日愛知県一の宮にて独演会、24日神戸にて昼夜2回、25日神戸にて昼の部の後、午後5時より岐阜羽島にて会食し帰京。こんな過密なスケジュールを80歳の圓生がこなしていたのだ。息子の山崎佳男は、父の最後の噺として記憶されるべきは9月1日、池袋サンシャイン劇場・松竹落語会での「夏の医者」だという。最後の日にかけたのは「桜鯛」というごく短い小噺だったからだ。
運命の9月3日、圓生は千葉県津田沼市で開かれた習志野圓生後援会に出演、1月後に開かれる習志野文化ホールの独演会を控え、支援者への挨拶の意味もあった。会場の外で聞いていた佳男は異変に気づく。

──ところが、その瞬間、思わずハッとした。失礼ながら(林家)彦六師匠(故人)のように声が震えている。びっくりして傍の梅生君(のちの三遊亭圓好。故人)に「何か変じゃないか」と尋ねると、「いや別に」と彼は言う。しかし、何となく胸騒ぎがして、廊下へ出ると受付に座っている倅に、「お前、圓生(おじいちゃん)の声聴こえるか」と聞く。倅は私の顔つきを見て察したらしく、そう言えば十分届くはずの声が、今日はまったく聴こえてこないと言う。(山崎佳男『父、圓生』講談社)

悪い予感は的中し、高座を降りた圓生の体調は急激に悪化し、そのまま帰らぬ人になってしまう。思えば六代目の義父であった五代目圓生も、体調不良を押して高座に上がり、その翌朝帰らぬ人になってしまっている。もっとも五代目は無事に「首提灯」一席を語り、帰宅して好物の雑煮を啜った後で自分の布団で眠り、そのまま大往生を遂げるという幸せな死に方であったのだが。

それぞれの、最後の高座


六代目圓生と同時代を生き、同じく落語協会の会長を務めた落語家に、八代目桂文楽と五代目古今亭志ん生がいる。この2人の最後の高座は対照的だった。
桂文楽は「私の噺はすべて十八番だ」と豪語するほど、持ちネタの練磨に余念がなかった人で、どの噺も計ったように23、4分で終えて高座を降りた。猛練習により、そこまで無駄を削ぎ落としていたのである。その最後の高座は1971年8月31日、国立劇場小劇場の第42回落語研究会でかけた「大仏餅」の途中で、神谷幸右衛門という人名が出ずにつかえ、「申し訳ありません。もう一度、勉強しなおしてまいります」と頭を下げてそのまま高座を降りてしまったのである。文楽は万一のときに備えてこの台詞を日頃から稽古していたといい、その後同年12月12日に没するまで以降一切噺を口にしなかった。
その文楽とは親友の間柄だった古今亭志ん生は1961ね12月15日、巨人軍の優勝祝賀会の余興で口演中に脳溢血で倒れ(選手が料理に夢中で噺を聞かないことに怒り、頭に血が上ったといわれている。古い落語ファンでアンチ巨人の人がいたら、たぶんこれが原因)、奇跡的に回復したものの、右半身の自由を失った。それでも復帰し、身体の不自由さもものとせずに高座を務めたのである。最後の高座は1968年10月9日の精選落語会、プログラムでは廓噺の「二階ぞめき」の予定だったが、話しているうちに「王子の狐」になってしまった。周囲の説得もあって以降は高座に上がらなかったが、当人は1973年に亡くなるまで独演会をやることを諦めていなかったと伝えられる。

今週の噺


このように、最後の高座が記録に残るだけではなく、逸話としてファンに記憶されているのは、やはり圓生・文楽・志ん生がそれだけの大看板だからだ。そうした意味では七代目八雲もまた「愛弟子との親子会で演じた「子別れ」が最後の高座になった」という伝説を残したといえるだろう。
「子別れ」は幕末の人である初代春風亭柳枝の作と伝えられ、主として柳派が得意にする大ネタだ。上方落語にも「女の子別れ」があるが、これは三遊亭圓朝が改作したものが伝わったとされている。上中下に分けて演じられることも多く、葬式で貰った赤飯を背負ったまま亭主が吉原に遊びに行くまでが「上」で「強飯の女郎買い」の別名がある。「中」はそれが元で夫婦が離縁するまで、「下」は亭主が子供と再会したことがきっかけで夫婦が復縁するまでを描くもので落ちから「子はかすがい」とも呼ばれる。八雲が演じていたのは、この下にあたる部分だ。
酔っ払いが吉原に行くまで、というストーリーのなさにもかかわらずおもしろい「強飯の女郎買い」と、子供の可愛らしさを描いてしんみりとする「子はかすがい」、どちらも人気がある(そして落語家の中には意地になって中を手がける者もいる)。明日20日、14時30分から上野の落語協会2階で開かれる「黒門亭」で「子はかすがい」の予告が出ている。ただし演舎は春風亭百栄である。間違いなく予想を裏切るような噺になっているはずなので、初心者向けではないことをお含みおきのうえ、どうぞ。

今夜放送の第11回では、菊比古が助六と再会を果たすことになる。2人の間に何が生まれるか。そしてみよ吉との関係はいかに。
(杉江松恋)

おまけ


本稿筆者の杉江松恋も、落語会をお手伝いさせていただいております。
よろしければお立ちよりください。場所はすべて新宿5丁目・CAFE LIVE WIRE。
3/22(火)午後6時半(開演午後7時)「立川志のぽん落語会 志のぽん言語遊戯集#2」
3/31(火)午後6時半(開演午後7時)「笑福亭羽光単独ライブ3〜私小説落語家族編」
4/8(金)午後6時半(開演午後7時)「立川談慶独演会 談慶の意見だ#10」
4/17(日)時間 午前0時半(開演午前1時)「立川談四楼独演会 オールナイトで談四楼#14」
4/20(水)午後6時半(開演午後7時)「ぼくらのあにさんが帰ってきた! 瀧川鯉八独演会#2」