ホラー作家激白「地獄」のニート生活「俺は今、何のために生きている? 死なないために、生きている」

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ホラー作家・飴村行は、伝説の漫画雑誌「ガロ」編集長だった長井勝一氏(故人)に一度だけ会ったことがある。生まれて初めて漫画の持ち込みに行ったときの相手が、長井編集長だったのだ。


明日から本気出す、はずだった


その日飴村が手にしていたのは、人生を変えるつもりで描いた渾身の勝負作だった。父と長兄が共に医師であり、自らも医療系の大学に進んだものの、勉学には一向に身が入らず、映画や音楽といったサブカルチャーに心は奪われていた。1969年生まれだから、大学時代はバブルの末期と重なる。同級生はみな車持ち(家の、ではなく自分専用)、医学部の肩書きがモテるための印籠として機能していた時代だった。その中でひたすら周囲の人間を軽蔑し、自分こそが世に認められる才能の持ち主だ、と漫画家の道を志し、すでに大学は中退していた。退路を断ったのだ。
「ガロ」に持ち込んだその原稿は、瞬時にして採用・掲載され、漫画史に燦然と輝く傑作として語り継がれる伝説の始まりとなるはずだった。
しかるに長井は、最初の数枚に目を通すと、後はパラパラとめくっただけで手を止め、飴村に原稿を突き返した。「ちゃんと読んでください」と口を尖らせる飴村に長井は言ったのだ。

「あなたはレストランに入ったとして、最初のスープが不味かったら、後の料理を食べる気になりますか?」

現代の『蟹工船』ライフ


飴村行『粘膜黙示録』は、その一言にKO負けを喫した作者の、苦渋に満ちたデビュー前の日々を綴った自伝エッセイだ(ただし、長井の名前は本文には出てこない)。さながらデビュー戦でロープを飛び越えた際の着地に失敗して足を怪我してしまい、長期休場に追い込まれた元・新日本プロレスの長尾浩志の如し。根拠もなく天狗になっていた鼻をへし折られた飴村は、漫画に絶望し、続いて手がけた映画脚本でも芽が出ず、当座の生活費を稼ぐためだったアルバイトに一日の時間と体力の大部分を費やす、余裕のない生活へと入っていく。
派遣労働者として単純作業に従事、帰宅すればコンビニ弁当で命をつなぎ、浴びるように飲む缶チューハイで無理矢理に眠りに就く。そんな日々を約10年間繰り返したのだ。

「俺は今、何のために生きている?……何のために?……俺は……死なないために、生きている」(中略)
つまり自分は『死に対する恐怖』という自己保存の本能のみに支えられて、この『蟹工船』ライフを送っているということになる。
「それって……」
”それって大脳新皮質がない下等哺乳類と一緒じゃないか”と言いかけ、反射的に口をつぐむ。(後略。「地獄」より)

結局飴村は、父の死後、その代わりとして一家を支える兄から最終通告を突きつけられる。「大学にもう一度入りなおしたと思って4年猶予をやるから、その間に人生を立て直せ。その間の生活は面倒を見るが、以降は知らん、家族の縁を切る」
ヤンキー気質の兄から出てきたのはそんな言葉だった。追い詰められた飴村は、最後の命綱にすがる。小説だ。もともとの嗜好からホラーに狙いを定め投稿を開始するも、初めは箸にも棒にもかからない。開き直って書きたいことを書きたいように書いた作品『粘膜人間』が、奇跡を引き起こす。見事に第15回日本ホラー小説大賞長編賞を獲得したのだ。まさにタイムリミットぎりぎり、その回に引っ掛からなければ猶予期間は終了し、生家からもたたき出されていた。極度の緊張から解放されたとき、飴村は一旦人格が崩壊したという。

復讐するは我にあり、なのか


そんな男が送った地獄の日々が描かれているのである。ただし『粘膜黙示録』の凄い点は、読んでもまったく同情する気になれないところだ。飴村は、かつての自分を徹底的に突き放して書いている。駆逐艦がまったく育成できていないのに「3-2 キス島撤退作戦」に挑むようなものであり、すでに大破者がいるのにボス戦に望んで大事な艦娘を轟沈されてしまう司令官の如く、無為無策の状態で飴村は世間に喧嘩を売っていたのだ。そりゃあ不遇にもなろうってものである。芽も出ないはずである。

本書は「別冊文藝春秋」連載を元にしている。全12章、それぞれに完結したエピソードなので、どこから読んでもかまわない。疲れたときなどに読むのにいいが、気をつけてほしいのは、どれもこれも身も蓋もない現実が描かれているということだ。
巻頭の「革命前夜」は、レンタルビデオ屋で美女を目撃した飴村が「お前らばっかりイイ思いしやがって」「どうせ俺なんか相手にされねェんだろ」と一方的な敵意を燃やして革命を夢見る話、「決断」は当時通っていた大学を中退すべく親の説得法をあれこれ考える話、「神」は派遣労働者時代に体験した正規社員の不条理ないびりの話。ずらずら書いても切りがないのでこれくらいにしておくが、貧困と孤独のさなかにあったときに自身がどのようなねじけた精神状態にあったかが赤裸々に綴られていて、気持ちいほどである。しかも、文章にまったく湿り気がないので、ひどいことが書かれているのに高揚感が湧き起こってくるから始末が悪い。特に印象に残るのが「大志ヲ抱ケ」と「世界の終わり」の2章で、「格差社会」という言葉をそのまま具現化したような情景が広がっているのだ。

飴村はこんなことも書いている。

──あれから十六年が経った。僕は今でも、暇を見つけては大宮に出向き、当時の思い出の場所を散策することを趣味の一つにしている。(「革命前夜」)

かつては「皆様方よ今に見ておれ、でございますよ」(by『丑三つの村』)と呟きながら行ったであろう街を、今はどんな顔で歩くのか。そしてその手に握りしめたものは本当にペンなのか。不穏の種撒き散らし飴村の行く。
(杉江松恋)