学生の窓口編集部

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1月22日放送、「グッド!モーニング」(テレビ朝日)では豊臣秀吉の手紙。秀吉が家臣に宛てた33通の手紙が発見され、修復を経て報道陣に公開された。33通の内、多くは本能寺の変の後、天下統一するまでに書かれたもので、手紙を修復した東京大学の村井助教授は、「秀吉のしつこいくらい細かい性格がよく分かる。1年間で10点ぐらい度々細かい指示を出している」とコメント。細かくて厳しい上司だったことが明らかになった。秀吉は、脇坂安治に対して、戦の最中でも統治の仕方や木材の調達などを細かく細かく指示していた。文面からは細かい指示の一方で、織田信長を呼び捨てにするなどの筆致が見られるとの事だった。脇坂安治は子飼いの家臣で、厳しい文面は愛情のあらわれともいえる。

豊臣秀吉は1536年か1537年生まれと言われている。尾張国愛知郡中村郷(現在の名古屋市中村区)で、百姓の子どもとして生まれた。ただし、父親の木下弥右衛門は、足軽として織田信長の父親・織田信秀に仕えていたという説もある。当時の足軽は通常は農業をし、戦の際には兵士として参戦する半農半士の足軽も多かったため、足軽の子供であっても百姓の出であることには変わりない。

苗字があったことから、農民といえどもある程度地位のある農民だったことがわかる。だが武士とは言えない下級の出から関白になったことで、大出世した人間だ。父・木下弥右衛門が亡くなった後、母は竹阿弥と再婚したが、秀吉は義父と折り合いが悪く、いつも虐待されるなどしたため、家を出ることを決意し、行商などを行い駿河国に言ったとされている。

最初は17歳で松下家の家臣となり、今川家の陪々臣(今川氏からみれば家臣の家臣の家臣)になった。この松下より武芸・学問・兵法などを漫談とされている。素質を見込まれたのだ。人より優れていると妬まれるもので、同僚を敵に回してしまい、松下は今で言う約3万円を与えて出て行くように言った。信長の家臣のときも織田家中のものは秀吉をよく思っていなかった人が多かった。松下家を離れて、この後すぐに織田信長に仕えるようになった。

ちなみに豊臣秀吉の指は、1本多い「多指症」だったと、宣教師ルイス・フロイスの記録や、前田利家の回想録「国祖遺言」に記されており、事実だった可能性が高い。