おざわゆきさん。半襟の金魚が涼やか。

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戦争の記録ではなく“記憶”と”感覚”を描いてきた漫画家のおざわゆきさん。さらに『凍りの掌 シベリア抑留記』と『あとかたの街』制作の舞台裏とこれからについて話を聞いた。
part1
part2

時間は確実に流れている


--『凍りの掌』は最初の単行本化と今回の新装化の2回にわたって加筆修正を行ったとうかがいました。
おざわ 同人誌を商業化するにあたり、あやふやだった部分を調べ直しました。たとえば、草刈りの時に使用していた鎌は最初どうしても資料が見つからず、死神が持っているようなかたちだったんです。それがたまたま行った神戸の洋館に飾られていた絵に父が話していた通りの鎌が描かれていたのを発見して。これかー!! と。
--新装版では、表紙をあらたに描き下ろされたんですよね。
おざわ ものすごーーーく大変でした(苦笑)。どうも私の中の『凍りの掌』のイメージが最初の単行本の表紙で印象づいてしまっていたようで…。
--ツルハシ持ってこちらを見ている一人の兵士の姿。
おざわ そうです。担当さん、デザイナーさんなどの意見を持ち寄り、あーでもないこーでもないあーこれも良いなっていいながら何度も描き直しました。ラフを描いて軽く彩色したものに帯を巻き「こんなイメージとかはどうですか?」「おお、それもいい!」なんて言っていたら一ヶ月もかかってしまいました。


--新装版を拝見してズシンときたのが、最後に書かれていた抑留者の方の現在の年齢です。以前刊行されたものは80歳でしたが、今回90歳に修正されますよね。
おざわ シベリアに強制抑留された日本人は76万人以上といわれています。戦後70年が経ち、無事に帰国された方もほとんどが亡くなられました。現在ご存命の方は1割以下。さらに毎年その1割の方が亡くなっています。うちの父も今年90歳、母も83歳です。皆さんまだお元気ですが、いつ途切れてしまうかわかりません。今はまさに“瀬戸際”なんですね。
--話を聞くのが本当に難しくなっていきますよね。
おざわ そうですね。母に話を聞いていた時、長い年月を経たことで、すでに思い出せなくなっていることがたくさんありました。また、体験者の方が話したがらないということもあります。父は話を聞いている時に嫌な顔をすることはありませんでしたが、本当は話すのをためらうこともあったでしょうし、実際うまくかわされてしまったこともあります。身内だからこそ深く切り込んで聞けないこともあると思っています。

あとかたの“あった”街へ


--『あとかたの街』を描いて、あらためて感じたことはありますか?
おざわ この漫画を描くまで、私は名古屋空襲で自分の地元が攻撃された理由や被害の状況をあまり知りませんでした。中心部はすべて焼け野原になり、私がよく遊びに行っていた場所も一度全部焼けてしまったところだったんです。今あるものが更地になった街のあとにできあがったのだと実感しました。あとかたが“あった”。つながっていたのだと。
--あとかたの“あった”街というのはハッとしました。『あとかたの街』ってとても魅力的なタイトルですよね。どういう経緯で決まったのでしょう?
おざわ 最初、担当さんに「とりあえずたくさん候補を出してくれ」と言われて…。本来はあとかたの“ない”と続けて使うものですが、ちょっとありえない組み合わせはインパクトがあるんですよね。タイトルが決まるまではすっごく苦労しました(笑)。余韻があるところはいいなと我ながら思っています。
--おざわさんは『凍りの掌』『あとかたの街』と戦争を描いてきて、戦争を知らない世代がこれからどうすれば良いと思いますか?
おざわ 戦争は決して過去のものでも他人事でもありません。今も世界のどこかで戦争は起こっていて、日本もいつ巻き込まれるかわかりません。そんな時、今世界はどうなっているか、政治的・対外的にどうなっているかを知ることと同じくらい大切なのが過去を知っておくことだと思っています。大変な事態に直面した時、昔の人がどんな思いをして、どう考え、工夫していたのかを知ることが、これからを生きる私達の助けになるのではないでしょうか。
--『あとかたの街』は終戦の年に入っています。
おざわ ラストに向かう道筋はだいたい決まっています。けれど、描き終わった時、私がどう思うかは正直わかりません。読んでくださった方には、『あとかたの街』『凍りの掌』を通して、戦争を身近なものとして感じてもらえたらうれしいです。


『あとかたの街』は「BE・LOVE」にて連載中(試し読み