逆転のPLと呼ばれた黄金時代を経て、新たな時代を歩むPL学園
1980年代をピークに、確実に高校野球の一時代を形成したPL学園。宗教法人パーフェクトリバティー教団を母体としてPL学園が設立されたのは1955(昭和30)年のことである。そして、翌年には「燃ゆる希望にいのち生き 高き理想を胸に抱く」野球部が創部される。10年以内に甲子園出場を目指したが、7年目の62年に春夏連続出場を果たして、その校名を全国に知らせることとなった。
PL学園
翌年春も出場すると、1回戦で戸田 善紀(阪急−中日)投手が首里から21三振を奪うという快投を演じて注目された。一塁には中塚 政幸(中央大−大洋)がいた。また、控えの内野手には後に同校の歴史の中枢を作り上げることになる中村 順司(名商大−キャタピラー三菱−PL学園監督−現名商大監督)がいた。
70年夏にはエース新美 敏(日本楽器−広島)に行沢 久隆(中央大−日本ハム−西武)や新井 宏昌(法政大−南海−近鉄)らのメンバーがいて準優勝を果たす。決勝では原 貢監督が率いる東海大相模に敗れたものの、その校名は広く認知されることとなった。と同時に、当時は珍しい2段重ねの胸文字とタテジマのユニフォーム対決となって、高校野球新時代到来を予感させるものでもあった。
74年にはプロ野球の名将といわれた鶴岡 一人監督の長男である鶴岡 泰監督を招聘して、さらに強化を目指すこととなる。その成果は早々に出て、2年後には決勝で桜美林に敗れるものの再び準優勝する。さらに78年には春夏連続出場を果たして、春はベスト8止まりだったが、夏には日川、熊本工大高(現文徳)、県立岐阜商を下し、準決勝では9回に4点差を追いついて延長12回にサヨナラ勝ちするという中京(現中京大中京)との死闘を制して決勝進出。決勝でも高知商に0対2とリードされて迎えた9回に一挙3点を奪って逆転サヨナラ勝ちして初優勝を果たした。
相次ぐ劇的な試合展開でいつしか「逆転のPL」と呼ばれるようになっていた。また、ピンチの時や打席で、選手たちは胸マークの裏に縫い込んであるというお守りを握って気持ちを落ち着かせるということも、宗教系の学校らしさを醸し出していた。
翌年春も強打者の小早川 毅彦(法政大−広島)や阿部 慶二(ヤマハ発動機−広島)らで出場し、初戦は岐阜の中京商(現中京)に逆転勝ちしてその本領を発揮し、2回戦も宇都宮商に対して2対6から8回に追いつき、延長10回に阿部の2打席連続となる本塁打でサヨナラ勝ち。まさに、神がかり的な「逆転のPL」の強さを示していた。しかし、準決勝では箕島に逆転負けを喫する。
それでも、相次ぐ逆転劇は“パーフェクトリバティー”の思いの強さを感じさせるものでもあった。こうして、高校野球に興味がある人たちにはもちろん、そうでない人にとっても、神秘的な強さということで、PL学園という学校を多くの人が認知していくこととなった。その校名は野球によって広く認知されていくことになったのだった。それは、甲子園で活躍するたびに、PL学園という校名がスポーツ新聞だけではなく、一般紙でもニュース報道でも、流されていたからであろう。それくらいに、魅力ある選手たちがいて、チームとしても強かったといっていいだろう。
その代表的な存在が、“KKコンビ”と言われた桑田 真澄(巨人−パイレーツ)(2013年インタビュー)と清原 和博(西武−巨人−オリックス)である。さらには、その2年下の世代で甲子園で春夏連覇を達成する立浪 和義(中日)、片岡 篤史(同志社大−日本ハム−阪神)、橋本 清(巨人)と野村 弘樹(横浜)らのいた時代である。年代にして、1980年代半ばから後半のことである。いわば黄金時代と言っていいだろう。
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[page_break:中村監督とともにあった黄金時代のPL学園]中村監督とともにあった黄金時代のPL学園桑田 真澄氏
黄金時代のPL学園を率いていたのが、PL学園の発展途上期の63年に選手として出場を果たしている中村 順司監督である。中村監督は、1980(昭和55)年に監督就任。翌年春には西川 佳明投手(法政大−南海−阪神)と主砲に吉村 禎章(巨人)らがいて、決勝では印旛に0対1とリードを許したまま9回となったが、一死走者なしから逆転して、最後は西川自らの安打でサヨナラ勝ちして優勝を果たした。ここでも、「逆転のPL」は生きていたのだ。翌年春も榎田 健一郎(阪急)と森 浩之(東洋大−南海・ダイエー)のバッテリーを擁して、準決勝では横浜商に、またしても9回裏サヨナラ勝ちするなどして決勝進出。決勝では二松学舎大附を圧倒する強さを見せつけ連覇を果たした。
これが、PL学園黄金時代突入へのプロローグでもあった。翌年に清原と桑田らが入学してくる。桑田は背番号11ながら実質エース的立場となって、投手として入学してきた清原は四番打者としてでんと座るようになり、2人は1年夏から甲子園出場の原動力となった。KKコンビ1年目の夏となった83年は、初戦で所沢商を下すと中津工、東海大一には快勝し、高知商との準々決勝は乱戦となったが10対9で勝利。そして迎えた池田との準決勝。当時の池田はエースで四番に水野 雄仁(巨人)を擁し、前年夏から春と甲子園で3大会連続制覇を狙う最強の優勝候補筆頭だった。
しかし、PL学園は2回に飛び出した桑田の本塁打などで7対0と快勝。決勝でも三浦 将明(中日)がエースで春も準優勝の横浜商を下して優勝。PL学園は16連勝、中村監督は甲子園で負け知らずの監督として、翌春も甲子園出場を果たす。
初戦で18対7と大勝して、準決勝では都城と手に汗握る投手戦を展開して、結局桑田が投げ勝って1対0で勝利して決勝進出したPL学園は、決勝で岩倉に敗れて、中村監督も初めて甲子園で負けを経験する。その年は夏も、石田 文樹がいて、木内 幸男監督率いる取手二に決勝で敗れて春夏ともに準優勝となった。
桑田と清原はここまで甲子園のすべての大会で決勝進出を果たしていたということになったが、それが3年となった春、準決勝で伊野商に敗れて崩れる。しかし、最後となった85年夏には、1回戦では東海大山形に29対7という記録的なスコアで大勝し準決勝でも甲西を15対2で下すなど、圧倒的な強さを誇示して決勝に進出する。そして、決勝の宇部商戦では清原が2本塁打するも苦戦するが、最後はサヨナラ勝ちして優勝を飾った。
この大会は準々決勝で高知商を6対3で下すのだが、この試合で清原と桑田がそれぞれ本塁打している。これは、春のセンバツで伊野商の渡辺 智男に清原は3三振を喫するなど完全に封じ込まれたことで、それが発奮材料になって、「伊野商を倒してきた高知商を粉砕しよう」と、意識を高めていたからでもあった。
こうして、この時代のPL学園は、技術だけではなく、高いレベルの選手たちが、競い合うように意識を高めあっていたことも、強さを維持していった背景にあったのであろう。そんな強いPL学園の集大成となったのが、その2年後の87年に達成した春夏連覇だった。3番ショート立浪 和義(中日)と4番ファースト片岡 篤史(同志社大−日本ハム−阪神)という打線を軸に、投手陣は野村 弘樹(横浜)、橋本 清(巨人)に投げないときにはレフトに入っていた岩崎 充宏(青山学院大−新日鉄名古屋)らのちに球界に名を残す選手が目白押しだった。さらに、1年下の控えには宮本 慎也(同志社大−ヤクルト)(2009年インタビュー【前編】【後編】・2015年インタビュー【前編】【後編】)や桑田 泉(青山学院大=桑田 真澄の弟)らもいた。
春は初戦で西日本短大附を下すと、2回戦は広島商に8対0と快勝。準々決勝の帝京戦と準決勝の東海大甲府との試合はいずれも延長戦となったが競り勝ち、決勝では関東一に7対1と快勝している。夏も初戦の中央中等との試合は中盤まで苦戦したが、8回に5点を奪って7対2で振り切ると、九州学院、高岡商を撃破してベスト8に進出し、習志野にも4対1で快勝。春の再戦となった帝京との準決勝は序盤から打ちまくって12対5と大勝。そして決勝の常総学院には前半から得点を重ねて5対2と退けて、ここに春夏連覇を達成した。中村監督としても木内監督の取手二時代に決勝で敗れ借りを返した形となった。
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[page_break:幾多の栄光を背負ったPL学園はどこへ行く…?]幾多の栄光を背負ったPL学園はどこへ行く…?前田 健太選手(広島東洋カープ)
昭和時代の後半に甲子園で君臨したPL学園だが、平成の時代になっても、その力は維持していた。1992(平成4)年春、94年春にそれぞれベスト8、ベスト4に進出。福留 孝介(日本生命−中日−カブス−阪神)が主将を務め4番を打っていた95年は春夏連続出場を果たして、夏はベスト8に進出している。さらに、98年は春にはエース上重 聡(立教大−日本テレビアナウンサー)と田中 一徳(横浜)らを擁して準決勝に進出するが、松坂 大輔を擁する横浜に敗れる。そして、この大会を最後に中村監督は勇退し、河野 有道監督が後を引き継いだ。
新体制となったPL学園だったが、夏も甲子園に出場を果たすと、多田野 数人(立教大−MLB−日本ハム−独立リーグ)のいた八千代松陰、岡山城東、佐賀学園を下して準々決勝で再び横浜と対戦した。この試合は後々にまで語り継がれている延長17回の死闘となったのだが、最後は横浜に返り討ちに合う。
全国の頂点には届いてはいないものの、その後も99年春はベスト4、01年からは藤原 弘介監督(現佐久長聖監督)が就任して、03、04年と夏に連続出場を果たしている。06年春にはエース前田 健太(広島)(2012年インタビュー【前編】 【後編】)でベスト4に進出している。前田は秋田商との準々決勝ではホームスチールを決めるなど、そのセンスの良さも示している。準決勝で長崎の清峰に0対6と敗れた。
そして、これを最後にPL学園は甲子園から遠ざかる。いつしか大阪の勢力図は大阪桐蔭が中心となり、それを履正社が追うという構図となった。その一方で、80年代をピークに大阪の高校野球を引っ張ってきたPL学園野球部は今、危機の状態にある。学校(母体となる教団)の方針もあって、野球部には新入生がおらず、野球部そのものの存続が危ぶまれているのだ。間違いなく高校野球に一時代を形成したPL学園の名前が高校野球から消えていくとなれば、時代の流れとはいえ寂しい限りである。幾多の栄光を背負ったPL学園はどうなっていくのだろうか。
(文:手束 仁)
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