福岡県筑前町の中2男子の自殺を頂点とするいじめの問題、25日に明らかになった長野の小6女児連れ回し事件に関しても、最終的に矢面に立ってくるのは「教育委員会」という存在だ。朝のワイドショーでも、みのもんた氏に代表される正義の使者たちが「一体、教育委員会は何をやっているんだ!」と声を張り上げる。しかし、一般の人でこの教育委員会の仕組みと役割をキチンと理解している人は、ごく少数ではないだろうか。

 初めに杓子(しゃくし)定規な説明をすると、「教育委員会」というのは教育行政の処理・執行のために都道府県、市町村などに設置される合議制の執行機関。通常、5人の委員で構成され、当該の地方公共団体に被選挙権を有する人格が高潔な、かつ教育や学術に識見のある人の中から、首長が議会の同意を得て任命する。条例によって6人にしたり3人に減らすこともでき、実際に都道府県教委は6人、小さな町村は3人を定員にするところが多い。身分は特別職の地方公務員で非常勤。委員長の任期は1年で再任も妨げていない。これらはすべて、1956年(昭和31年)に成立した地方教育行政法に定められたものだ。

 ポイントになるのは、この委員会には予算の執行権はないが、学校事務全般(学術文化、スポーツも含む)にわたる指導助言・命令監督権があるとされる点。しかし、実際に教育委員会の意思がそのまま教育行政に反映されることはほぼない。つまり、この組織は現状ではまず“お飾り”のようなものであるからである。

 分かりやすい議論をすると、教育委員会は警察に置かれている公安委員会にごく似たものと考えると理解しやすいだろう。警察行政も公安委による承認が必要だが、メンバーはほぼ地元の名士で占められており、単なる追認機関に過ぎない。地元大企業の会長や弁護士、教育関係者等がメンバーとなる公安委と同様に、ほとんどの教育委員会は地元名士の名誉職的な“審議会”であり、かつ権限もごく限られるのが現実だ(実際の行政施策は当然、事務方によってまとめられる)。

 そう、ここまで言うと分かるように、一般の方はこの教育委員会と、制度上教育委員会の下に置かれている教育委員会事務局(教育庁と呼ぶ場合もある)を混同しているのである。恐らく、教育委員長と教育長も混同しているのではないかと想像するが……。

 教育委員長はまず名誉職と言ってよく、教育行政の事実上のトップは事務局の長である教育長だ。教育長は地元の名門中学ないし高校の校長等を経た教職員出身者が就くことが通例。つまり、各地方公共団体の教育委員会は、行政事務職員と教職員の寄り合い所帯であり、教育行政に対する指揮・監督権は現状では現場にはなく教育委員会(事務局)にあるため、「私たちは県教委の方を向いて仕事をしなければ、何ひとつできない」(高校教員)ということになるのである。

 議論を単純化するために、多少乱暴な図式化をすると、日本の教育行政は文部科学省を頂点にして、都道府県教育委員会、市町村教育委員会と完璧な縦割りのヒエラルキーが出来上がっている。ゆとり教育を始め、表面的な平準化や地域格差の是正に熱心な文科省の役人の押し付けにより、そのヒズミが末端に押し付けられるという構図が出来上がってしまっているのである(現場レベルで独自の教育施策を実現できる余地はまずない)。また、これは先生方の大半の声だとも理解している。

 紙幅がないため、また一方的な言い方になることを許していただくなら、文科省は教育次長や学校教育課長に中央から人を派遣することで、あくまで中央集権的な管理・監督体制を守ろうとする発想は、もう改めるべきではないだろうか。

 教育の中立・公正性を守るために、戦後すぐからは教育委員は公選制だったことも、もう知る人は少ないだろう。政党政治・政争の具になったり、組織による偏った選挙になって廃止された公選制。この公選制を復活させよ、との声も確かに聞かれる。しかし、現実にそこまでの教育への関心、参加の熱意を持ち合わせる市民もまた、少数派であることは情けない現実だ(東京・中野区の例を見よ!)。

 教育の自由や独立を守るためには、何より当事者の自覚と責任が必要となる。これは教師だけでなく父兄もそうだと思う。いじめ問題一つを見ても「教育改革の道は険しい」とつい、考え込んでしまう最近である。【了】