「良い監督か否かは番狂わせを起こした過去があるか否かで判明する」とは、前回のブログに記した僕の監督論だが、これについて一言補足させてもらえば、良い監督は必ずや番狂わせを起こした過去を持つが、だからといって、番狂わせを起こした経験のある監督すべてが優秀だと言っているわけではない。カメルーン、デンマークにまさかの勝利を連続して収めた元日本代表監督は、さしずめ有資格者というところか。

23日に再開するJリーグにも、番狂わせは欠かせない視点になる。番狂わせを起こした監督は誰か。その数が多い人は誰か。日本ではザッケローニ采配ばかりに注目が集まるが、代表監督の采配がここまで注目される国も珍しい。

代表チームの戦術は、クラブからの借り物。ヨーロッパの常識はこれだ。まず注目すべきはクラブサッカー。各クラブ間で流行っている戦術の最大公約数的なものが、代表チームのサッカーであるべきだとの共通認識がある。

代表サッカーがせいぜい月イチのイベントであるのに対し、クラブサッカーは日常。練習時間はクラブの方が断然長い。戦術が徹底されやすい環境にある。ザックジャパンより、戦術において期待すべきチームが現れるのが自然だ。すでに存在しているのかも知れないが、そこのところが見えないというか、関心を持ちたがる人が少ない点が日本サッカーの問題だ。

番狂わせの有無もまた見えにくい。番狂わせは相撲的に言えば金星。平幕が横綱を倒すようなものだが、Jリーグには横綱の存在が見えない。鹿島? 名古屋? ガンバ大阪? どこも迫力に欠ける。Jリーグの歴史を辿っても、横綱の存在は見えてこない。

ACL(アジアチャンピオンズリーグ)にも同じことは言える。アジアには、バルサもマンUもインテルもレアル・マドリーも見当たらない。シャルケのような存在も見当たらない。すべてが横並び。対等の関係に見える。ギャップが見えにくいことが、シャルケのラングニックのような監督を目立たなくさせている大きな原因だ。

時の日本代表監督と、その他の監督との差は、きわめて大きい。これでは監督への好奇心は湧きにくい。監督が憧れの商売にはなりにくい。

10年ほど前、それこそ、ドイツがイタリアとともに、ヨーロッパにあっては守備的サッカーの旗振り役を演じていた頃、ドイツの評論家の多くは、そのサッカー界の現状をこう嘆いた。

「ドイツでは、現役時代に有名だった選手が監督になりたがらない。せいぜいクリンスマン。その点で隣国オランダに、大きな後れを取っている」

日本の現状も、当時のドイツに似ている。元日本代表の有名選手は、S級ライセンスこそ取りにいくが、監督を目指して積極的になっている人はそういない。川崎フロンターレの相馬直樹新監督が、際だったというか、珍しい存在に見える。

日本も10年くらい前だったと思うが、日本人を代表監督に起用しよう声が高まった時期があった。当時の日本はいまより数段弱かったので、非常に内向きな考え方だなーと賛同できずにいたが、そうした声は、いまやすっかり聞かれなくなった。南アワールドカップで、岡田監督のもとベスト16へ行ったというのに、である。よし俺も! と、言い出す威勢のいい人はなぜかそう現れない。代表監督はサッカー指導者にとって究極のポスト。憧れの対象であるはずだ。需要もなければ供給もない現実はかなり問題。

先ほど述べた10年前のドイツではないが、僕は隣国、韓国がそういう意味で少しばかり羨ましく見える。

チョ・グァンレ監督。前川清似のこの人のサッカーが、僕はかなり気に入っている。ラングニックに通じる筋の良さ(偉そうですいません)を感じる。記者会見の振る舞いもなかなか見事だった。好感度大。アジアカップ準決勝、韓国は日本にPK戦で敗れたワケだが、そこで5バックで守りを固め、同点ゴールを浴びた我が代表監督が、必要以上に情けなく見えた。

その記者会見場を後にする敵国の監督に、僕は思わず握手を求めてしまったほどだ。韓国人の監督は、いま概してイケている。良いのは選手だけではない。きっかけは2002年の日韓共催W杯にあるはずだ。番狂わせの鬼というべきヒディンク采配が、元韓国代表選手及び指導者候補の良い刺激になっていたことは想像するに容易い。ザッケローニに求められているのは、勝利だけではない。監督を憧れの職業にすることにある。良いサッカーは、そうした意味でも追求されなくてはならない。僕はそう思うのだ。

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