代打の切り札・大豊泰昭の早すぎる死|愛甲猛コラム
同じ釜のメシを食った仲間が逝った。大豊泰昭。オレより1つ下の51歳。若すぎる死だ。数年前から白血病と闘っており、3年前には妹さんから骨髄移植を受けたそうだ。
テレビで闘病中の姿を目にしたとき「早く良くなって欲しい」と感じたが……。突然の訃報に接し、謹んでご冥福をお祈りしたい。
不器用な性格だが素質に優れた名打者だった大豊の飛距離はハンパじゃなかった。好調期には目の覚めるような大ホームランを量産する、そんな彼を支えたのは「我の強さ」だった気がする。自分に合わないコーチの指導は聞き入れなかった。悪く言えば不器用なタイプだったが、いい意味で「信念」をもっていた。
1994年に38本塁打・107打点で二冠王に輝き、96年には松井秀喜(巨人)、山崎武司(中日)と最後までホームラン王を争った。稀にみる熾烈なデッドヒートの末、山崎が2本リードで迎えたシーズン最終戦。山崎が5番、大豊が6番で出場。大豊が7回にホームランを放ち1本差まで迫ったが、39本塁打の山崎にわずか1本及ばなかった。
性格的に開き直れる山崎は凡打に終わっても気持ちの切り替えが早かったが、責任感の強い大豊は不調になると打撃練習から悩んでしまい、スランプが長引くタイプだった。女遊びや麻雀で気分転換する選手は少なくないが、根がマジメであるがゆえ、酒以外の遊びはしていなかった。
14年間で放った本塁打は277本。1年平均20本塁打だが、400本、いや500本打てる素質だったと思う。
台湾の英雄・王貞治さんに憧れてもおり、王さんのシーズンホームラン記録を抜くことを目標に55番をつけたが、それができる打撃センスは確実にもっていた。
早口の日本語で「大腸菌が痛い」と周囲を笑わせ…人間的には、人なつっこく可愛い後輩だった。年子の弟、大順将弘とはロッテで2年間一緒にプレーしたが、大順が俺より1つ下の選手にからかわれたとき、「ホントはボク、あなたと同い年なんですよ!」と怒っていたことがある。大豊の学年はオレの1つ下だが、もしかすると、オレより先輩だったのかもしれない。
日本語は上手かったが早口だった。一緒に食事した際、「大学の先輩に『お米』を『オ●コ』と教えられ、下宿の奥さんに『オ●コおかわり』と言ってしまった」と笑って話してくれた。大胸筋を傷めたときには「だいちょうきんが痛いんです」と言って周囲を明るくしてくれたこともあった。
台湾の農家出身で、子どものころ、ターザンのマネをして着地したところ、釘が右足に刺さってしまった。当時は医療が発達しておらず、大学生になるまで完治しなかったため、その足を10年ほどかばって動いていたせいで筋肉がつかなかったという。
同じく幼きころ、誤って農薬を飲んでしまったこともあったそうだ。その際の開腹手術の跡を見せながら「アニキ、農薬を飲んで生きているのはボクぐらいですよ」と笑っていた顔が懐かしい。
出身地は台湾・南投県。地理的には台湾の中心で、冬は暖かく夏は涼しい、そんな大自然に囲まれて育ったそうだ。台湾の食事や生活について話すとき、大豊の目は輝いていたが、生まれ育った故郷を愛するのは誰でも同じこと。もしかすると「台湾に帰りたい」との気持ちもあったかもしれない。
猛虎と昇り竜の「代打の切り札」ナゴヤドームが開業した97年、大豊は12本塁打と成績を落とした。球場が広くなったことが一因でもあり、この年の6月5日、アメリカ人審判の判定に「Why!?」(なぜストライクなんだ、という意)とジェスチャーした後、審判に退場を命じられている。当時の日本野球はその程度で退場になどならなかったが、日本と若干ストライクゾーンの違うアメリカの審判であり、審判の権威が高いことも騒動の要因だった。あの試合、退場となった大豊の後にオレが一塁の守備に就いている。
ナゴヤドームのように広い球場ではホームランよりも機動力野球が効率的であり、星野監督の構想から外れた98年、大豊は阪神に移籍した。翌99年、26試合連続安打を放ち、規定打席不足ながら代打本塁打6本と大活躍。オレも中日で規定打席未到達だったけど、10年振りにシーズン3割を達成、中日の優勝に少しは貢献できた。
思えばあの年が、大豊もオレも野球人生で最後の輝きを放った瞬間だった。
昨年(2014年)はドカベンの愛称で親しまれた香川伸行さん(享年52)が亡くなり、1月20日にはロス五輪、ソウル五輪の金メダリスト斎藤仁さん(享年54)も早逝された。同年代の死ほど身につまされるものはない……。
愛甲猛(あいこうたけし)横浜高校のエースとして1980年夏の甲子園優勝。同年ドラフト1位でロッテオリオンズ入団。88年から92年にかけてマークした535試合連続フルイニング出場はパ・リーグ記録。96年に中日ドラゴンズ移籍、代打の切り札として99年の優勝に貢献する。オールスターゲーム出場2回。