/本物は、自分になろうとしたりしない。自分ではないなにかになろうとすることそのものが、かえってそれではないことを露呈し、キャンプにして、乗り越えられない壁を立ててしまう。自分の「野生」を受け入れ、そのままに磨いてこそ、自分を取り戻せるのではないのか。/

 近ごろは手術で戸籍まで変えられるそうだ。『マイフェアレディ』やその原作の『ピグマリオン』、さらに古くはヘーゲルでも言われていたように、たしかに、その人が誰であるかは、周囲がその人を誰であるとするか、にかかっている面も大きい。とはいえ、周囲が誰であるとするか、は、本人がどうであるか、に基づくのも事実だ。医者が認めればいい、というのであれば、近ごろのやたら元気なお年寄りも、医者が身体年齢を測定して戸籍の年齢を正し、年金を打ち切った方がいいんじゃないか。

 しかし、戸籍がどうあれ、世間がどうあれ、本人がダブルスタンダードであるかぎり、アングリーな1インチが残って突っかかってしまう。『ヘドウィック』は、今年2004年、ようやくトニー賞を得た。1998年にオフブロードウェイで始まって、2001年には映画も作ったが、当時は「おかま」の話として、かならずしも世間の目は暖かくはなかった。登場人物が少ない小型の作品なうえに、主人公がドラァグ(トランスジェンダーのゲイ)では、業界としては商売にならない、という問題もあった。しかし、テーマや楽曲がしっかりしており、映画を媒介に広く知られるところとなり、いまやカルト的な人気作として各国で繰り返し上演されている。とはいえ、もともとプラトンの男女(おめ)神話という、哲学のハイブロウなトピックが核にあり、また、追う者と追われる者を主演俳優が一人二役で演じる形式が映画版などで失われたために、かえって難解になった。

 ボーヴォワールは、1949年、『第二の性』において、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言い、「女」が男社会に捏造された欺瞞であることを暴き、戦後のフェミニズムの道を切り拓いた。しかし、「女性が輝く」なんとかなどと言って、「野生」の女性を去勢し社畜化し、昨今の人手不足を補おうなどという姑息な政治がいまだに表通りをまかり通る。だが、大阪のおばちゃんじゃないが、「野生」の女は、べつにいまさら男社会に捏造された欺瞞としての「女」になったりしないし、しようとも思うまい。家の一仕事でもうまくやり終えたなら、化粧もせず、こたつに寝転がってテレビを見てていたとしても、女は女だ。それで十分に輝ける。総理大臣など、知ったこっちゃあるまい。

 一方、「おかま」が新たな男女の壁なのは、それがダブルスタンダードで、わざわざ「女」になろうとするところにある。自分で壁を立てて、それでその壁を乗り越えられなくなる。ソンタグの言う「キャンプ」だ。女ではないからこそ、表象としての「女」の記号をてんこ盛りにして、わけのわからない満艦飾のドラァグになってしまう。やればやるほど、「野生」の女とは似ても似つかない、まさに男以外のなにものでもない「おかま」になっていってしまう。追えば追うほど、追われる対象が、砂漠のオアシスの蜃気楼のように逃げていく。芝居の主人公ヘドウィックは、その典型だ。

 これは「おかま」だけの問題ではない。老人が、年甲斐もなく、むやみに山に登りたがったり、仕事で現役にこだわったり、若い女や男に手を出したがったりするのは、救いがたい老いの証拠。やればやるほど、見苦しい「キャンプ」になる。ヤクザ者や成り上がり社長がゴテゴテの贅沢品で身の回りを飾り立てるのも「キャンプ」。仕事の出来ないヤツが、最新の電子機器を発売初日に並んで買って、四六時中いじってばかりいるのも「キャンプ」。自分に自信のない男がぐちゃぐちゃの改造車を自慢するのも「キャンプ」。ぱっとしない女がものすごい厚化粧だの整形だのをするのも「キャンプ」。もともと本物なら、それになろうとする必要がない。ところが、わざわざそれにになろうとすることで、自分がそれでないことをかえって露呈し、絶対に乗り越えられない壁を前に呆然とする。

 ボーヴォワールの相方、サルトルは、『実存主義は人間主義である』などで「人間は自由(libre)であることを呪われている」と述べている。英語のリバティに「自由」の訳を当てたのは、福沢諭吉だとも言われているが、ラテン語の「liber」がギリシア語の「ἐλεύθερος」、すなわち、生まれに属する、を引き継いだ語であることからすれば、それはけだし適訳ということになる。つまり、自由とは、自分が理由になる、ならなければならない、ということ。生まれながらの「野生」の自分が決める、ということ。自由である以上、自分が何であるか、は、人のせいにはできない。他人のスタンダード(基準)では、絶対に自分にはなれない。

 自分が、自分でないなにかを追い求めているかぎり、それは自分ではない、追い求めているものの方が自分のレゾンデートル(存在理由)になってしまう。しかし、追い求めるかぎり、それではない現実の自分というアングリーな1インチがじゃまをして、あと一歩のところで、絶対的に手が届かない。結局のところ、自分は自分にしかなれない。たとえそれを世間が「おかま」とけなそうと、「女」らしくないとたたこうと、「じじ」くさいとけむたがろうと、だからといって、それに迎合してなにかしたところで、せいぜい「キャンプ」になるだけで、永遠に自分が自分ではないなにかになれるわけではない。

 自分に自信を持とう。背筋を伸ばそう。ありのままの「野生」の自分と和解しよう。あれこれ言うやつには、好きに言わせておけ。人目に媚びて、世間をごまかし、自分をごまかしたところで、そのごまかしていることの方が、きみを追い詰めることになる。いくらごまかしたところで、世間はせいぜいきみに気づかず陰口を言わなくなるくらいで、どうせなにかしてくれるわけじゃない。それに、そんなことをしていたら、きみは、ついには、ただの透明人間になって、自分の存在そのものを消し殺してしまう。

 世間がきみのような存在を好まないとしても、きみにも、きみのような存在を好まない世間を好まない自由はある。目をふせたりず、むしろ世間のまなざしにきみのまなざしを向けよう。裁く者こそが、その裁きゆえに裁かれるべきだ。きみは、人の決めたなにかになる必要などない。どんな自分であれ、自分ではないなにかになろうとしたりせず、そんな自分であることをそのままに磨こう。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)