田中浩也『SFを実現する 3Dプリンタの想像力』(講談社現代新書)
タイトルに掲げられた「SF」とは、「サイエンス・フィクション」の略であるとともに、「ソーシャル・ファブリケーション」の略でもあるという。ソーシャルは「社会性・つながり」、ファブリケーションは「製作」の意。ネットワークによって世界各地の3Dプリンタ(デジタル工作機械)が結びついた未来の実現を、著者は目指している。
本書では、従来の製造業に3Dプリンタが与える影響や、日本のものづくりの抱える問題などへの言及もある。前者は、3Dプリンタ普及への懸念として取り沙汰されることも多いので見逃せない。

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3Dプリンタは、デジタルデータから三次元の物体を樹脂などの素材で出力する装置として、最近になって一般的にも急速に知られるようになった。ここひと月あまりのあいだにも、3Dプリンタに関するニュースが2つほど立て続けに報じられ、話題を呼んでいる。

ひとつは、3Dプリンタで製造したと見られる銃を所持した容疑で逮捕者が出たこと(川崎市、5月8日)。もうひとつは、京都大学病院での肺移植手術に際して、事前に3Dプリンタで肺や血管の精密な模型をつくり、それを用いて検討が行なわれたというニュースだ(5月14日発表)。後者は、夫の右肺の下部を、患者である妻の左肺として移植するという、世界でも初めての手術だった。肺を左右反転しなければいけないことから、CTスキャンのデータをもとに夫の肺の血管や妻の気管支を3Dプリンタで模型として忠実に再現、どうつなげるかなど検討を重ねたという。

スキャンしたデータを拡大・縮小したり、回転あるいは左右反転させたりといった操作は、コンピュータ上であれば容易にできる。3Dプリンタは、その操作をコンピュータ上にとどまらず、物質の世界にまで反映することを可能とした。折しも先月刊行されたばかりの、田中浩也『SFを実現する 3Dプリンタの想像力』(講談社現代新書)にも、左足が生まれつき前後逆方向になっていたアヒルのため、義足をつくったというアメリカでの事例が紹介されている。シリコン樹脂製の義足は、そのアヒルの妹の足をスキャンしてデータをとり、それを拡大縮小して微調整しながら3Dプリンタで出力したものから、型をとってつくったという。

■3Dプリントを設置して最初に出力するべきものとは?
『SFを実現する』は、3Dプリンタなどを用いた新しいものづくりについて、慶應義塾大学で目下、研究・開発を進めている著者が、その背景にある思想などを説明するとともに、究極的に目指す未来像を示したものだ。読み進めるうちに、3Dプリンタは、どうやらいままでの機械の概念を大きく覆すものらしいということが、だんだんわかってくる。たとえば、著者が大学の研究室に導入した2台目の3Dプリンタの説明書に記されていたという次の一文には、目から鱗が落ちた。

《この3Dプリンタの電源を入れて、何よりも最初に出力してほしいものは、この3Dプリンタ自身の部品です。データはウェブサイトに公開しています。それを出力して大切に保管しておけば、壊れた際にもすぐに部品交換ができるでしょう》

普通の機械であれば、故障すればメーカーへ修理に出して、部品を交換してもらうなりしてもらうところだが、3Dプリンタでは自前でそれが可能だというのだ。またインターネット上では改良された部品が順次公開されており、それをダウンロードして交換して、アップデートもできるという。

3Dプリンタの初期からの研究者のなかには、もともと「自らコピーをつくりだすロボット」を探求していた人もいるらしい。そのアメリカの研究者が2005年に発表したロボットには、自分の複製をつくる機能が備わっていた。ただし、この時点ではまだ、ロボットが部品自体をつくることまではできず、あくまで用意された部品を組み立てるにすぎなかった。それが3Dプリンタを組み合わせることで、部品まで生産して自己複製するロボットができる可能性が出てきたのだ。

ちょっと前に、ある私立中学の入試で「ドラえもんが生物でない理由を答えよ」という問題が出され、その前提となる生物の特徴の一つとして「自身が成長したり、子をつくったりすること」があげられていた。それを生物だけでなく機械にも可能とする技術が、ここへ来て登場しかけているというわけである。

■大量生産品の限界を乗り越える
3Dプリンタをはじめとするデジタル工作機械はまた、従来の大量生産品では対応しきれなかった、多種多様な環境や文化、あるいは個々人の抱える事情に寄り添った製品をつくり出す可能性も秘めている。たとえば、ボタンがやたらと増えたテレビのリモコンは、高齢者などには不便なものだ。そこで著者の研究室に在籍する学生の一人は、デジタル工作機械を用いて、ボタンが3つだけのシンプルなリモコンをつくりあげた。

工作機械そのものについても、用途や環境などに合わせてさまざまな試行錯誤が展開されている。とりわけ私の関心を抱いたのは、著者のラボで開発を進めているという「屋外で使う、電気を使わない工作装置」だ。その端緒となったNCマシンでは、製品のデータを送るのにコンピュータやUSBケーブルなどではなく、ギザギザのついた木の棒が用いられている。機械にこの棒を差し込んで、ハンドルを回せば、溝に刻み込まれたデータのとおりに軸が平面上を動いて、紙の上に絵を描いたり、紙を切ったりすることができるという。これなど、音楽プレイヤーの原型である蓄音機が、もともとは電気を使わずに手でハンドルを回すことで、蝋管(円筒状の記録媒体)やレコード盤の溝を読み取り音を再生していたのと何だか似ている。

デジタル工作機械はいまのところ、3Dプリンタのほか、切断したり切削したりスキャンしたり、各機械がバラバラに存在している。だが、いずれそれらが一体化し、パソコンのように個人で使えるものとなったとき、単なるパソコンの周辺機器という位置づけを越えたものとなるはずだ、と著者は書く(ファブリケーターとは、製作する人や装置を指す語)。《究極的には、「コンピュータ」はソフトウェア部分を開発する装置、「ファブリケーター」はハードウェア部分を開発する装置となり、その二つはセットで使われる、対等になる》というのだ。

■「3Dプリンタで何をつくれるか」は愚問?
著者はよく、「3Dプリンタで何がつくれるのですか」という質問を受けるという。そして、そのたびに「ワープロで何が書けるのですか」や「ピアノで何が弾けるのですか」という質問と同じような奇妙さを感じてしまうそうだ。

ワープロやピアノは言うまでもなく、使う側に創造力がなければ使いこなせない。それと同じく、3Dプリンタも《試行錯誤や、道具との対話のなかで自分なりに新しいものを生みだしていくための、創造や発想を刺激する「発明」ツールだと常々考えてきた》と著者はいう。この一文が出てくるページ(70ページ)にはまた、こんなことも書かれている。

《「銃」のような、すべての人が名前を知っている既知のものではなくて、むしろ、従来のカテゴリではうまく呼び表せない、まだ名前のない(だから、他人に伝えるときには、自ら名前をつけなければいけない)ものを生みだしていくことこそが、技術が個人のものになることの、本当の意義だからです》

ここで「銃」という言葉が出てくるのが、まるで冒頭にあげたニュースを予見していたようで驚かされる。著者のような開発の当事者からしてみれば、3Dプリンタで銃をつくるなんて、あまりにつまらない発想としか映らないのだろう。

3Dプリンタなどデジタル工作機械の可能性について、本書では過去の事例や作品などを引き合いにしながら説明されているのでとてもわかりやすい。が、終わりがけに来て著者は、既存の技術との比較や類推だけでこの新技術を語ってしまうことに疑念も呈している。もしかしたら、そういうふうに「わかりやすく」語ることで、真に未知の事柄を見落としてしまうのではないか、というのだ。

著者はそこで、既存の技術とは一線を画す、まったく未知なるデジタル工作機械の未来像を提示している。しかしそれはもちろん、あくまで一つの可能性にすぎない。今後もっと社会にこの手の技術が浸透したのなら、研究者も想像しなかったような用途や形態が生まれることもきっとあるはずだ。3Dプリンタで何をつくれるのか、どんなものをつくるべきなのか、肝心なことはやはり、それを手にした一人ひとりの創造力に委ねられている。

*田中浩也『SFを実現する 3Dプリンタの想像力』
(近藤正高)