「新婚さんいらっしゃい」をノベライズする。(スペシャル版)
テキスト系妄想メディア「ワラパッパ (WARAPAPPA )」よりみなさんこんにちは。ワラパッパフレンズの天久です。
なんとこのたび、当サイトで僕が細々と続けていたノベライズシリーズが、河出書房さまから単行本として出版されます。発売は11月中旬の予定です。
また単行本化に際し、たいへん心苦しいのですがノベライズシリーズのアーカイブを五本の自選作を残して非公開とさせてもらいます。今後も更新分は次回更新までの公開となります。諸事情ご理解のうえご容赦くださいますようお願い致します。
それでは、今回はみなさまへの感謝とお詫びを込めて、スペシャル版「新婚さんいらっしゃい」をノベライズする。をお送りします。
ちょっと長目ですが、ごゆっくりどうぞ!!
「新婚さんいらっしゃい」をノベライズする。(スペシャル版)
サン・モリッツ湖を吹き渡る清爽な風を感じながら、桂文枝はデミタスカップの持ち手をつまんだ。向かいの席ではつばの広い帽子をかぶった山瀬まみが、ペリエの入ったグラスを傾けている。
桂三枝から桂文枝へ、伸び伸びのなった襲名祝いも兼ね「新婚さんいらっしゃい!」の両司会者は、ここスイスの高級リゾート地、サン・モリッツへ束の間の静養に訪れているのであった。
「ふふ、まるでハネムーンね」
「フルムーンの間違いじゃないか?」
カップの縁から唇を離し、上目づかいに言う文枝に、まみは肩をすくめた。
年の差は親子ほど離れているものの、ふたりの雰囲気は円熟期の夫婦を思わせる。
もっとも互いを結ぶのは恋愛感情ではなく、長年同じ戦場を共にした同志としての絆であった。
ふたりはお互いをねぎらうように、カップとグラスを小さく掲げた。
街の中心に立つ尖塔から鐘の音が鳴り響く。
その音がまだ消え入る前であった。
石造りの建物に挟まれた細い道を、黒塗りのリムジンが猛スピードで突っ込んできた。
路肩のそこかしこから悲鳴が上がり、車はオープンカフェでくつろぐふたりの横をすれすれで駆け抜け、急ブレーキの軋みを立てた。
直後、派手な衝突音と共に車は建物に叩き付けられ、ひしゃげたボンネットの隙間から白煙がのぼった。
数秒の静寂のあと車のドアが内側から揺る。
唖然として見守るふたりの前に現れたのは、純白のドレスに身を包んだ花嫁の姿であった。
「新婚さんよ!」
まみはそう叫ぶといまにも崩れ落ちそうな花嫁に駆けよった。文枝も弾かれるように後を追った。
背後から野太いエンジン音が響く。
振り返ると二台の大型バイクが迫っていた。両者ともフルフェイスのヘルメットを被った、全身黒ずくめのライダーだった。
まみに抱かれた花嫁が青ざめた顔で腕から逃れようとする。異常を感じ取った文枝がバイクに向き直り背中越しに言った。
「まみ君、花嫁を頼む!」
抵抗する花嫁の腕を引き、まみが路地へと逃げこんだ。
間隔を開けた二台のバイクが仁王立ちの文枝を抜き去ろうとしたときだった。
文枝の脱ぎ投げた白いスーツの上着が、左のライダーの頭部を覆った。視界を遮られたライダーが転倒し、火花を散らした車体が横滑りに流れてゆく。
路地を通り過ぎたもう一台が前輪を軸にターンを決める。
文枝は近くにあったオーブンカフェのパラソルを土台から抜き取り、すぼめてやり投げの要領で構え直した。
舞い戻ったバイクが花嫁の逃げた路地へ向かう。
文枝が渾身の力を込めすぼめたパラソルを放つ。風を切ったパラソルがバイクの前輪に突き刺さった。
バイクが縦に大きく回転し、投げ出されたライダーが路地に干された洗濯物を巻き込み落下した。
その光景を目の当たりにした群衆がやっと我に返り、文枝を探し始めたとき、彼の姿はすでになかった。
サン・モリッツを囲む峻厳なベルニナ・アルプス、万年雪と氷河が広がるその山脈の中腹に、文枝とまみが逗留する高級ロッジがあった。
限られたセレブにのみ許された隠れ家的ロッジ、セキュリティも万全である。ここなら敵も易々とは追って来られないだろう。
衣装室から取り出した新しい上着を羽織りながら、文枝はようやくひと息ついた。
ガウンに着替えた花嫁がまみに付き添われ現れた。
文枝は目を見張った。
あのときは容貌など確認する余裕もなかったが、あらためて見るブロンドの花嫁はぞっとするほど美しかった。
周囲の景色がぼやけてしまいそうなほどシャープな面立ちに白磁の肌、深く澄んだ蒼眼はアルプスの氷河を思わせた。ガウン越しでも分かるあまりに均整のとれたプロポーションは人工的とさえ言える。
文枝は花嫁を二階のリビングへと案内し、暖炉の前の応接セットへ促した。
ローテーブルには溢れんばかりの花が飾られ、低い背もたれのついた円柱の椅子は、番組で使われる「あの椅子」と酷似していた。やはりこの形が一番落ち着けると、文枝がわざわざ現地でつくらせたものだった。
長年身についた習性のせいか、文枝は花嫁を上手の椅子に座らせ、自分はまみと下手の椅子に座った。花嫁の隣りに夫がいないことを除いては、番組と同じ光景であった。
「英語はしゃべれる?」
見事なキングスイングリッシュで、文枝が訊いた。花嫁がこくりとうなずいた。
「じゃあ、事情を訊かせてくれないか?」
「心配しないで、私たちは日本から来たただの観光客よ。決して怪しいものじゃない」
ただの観光客があれほどの離れ業で赤の他人を助けるはずがない。
花嫁の瞳にはいまだ不審の色が漂っていたが、ふたりは熱心に説得を続けた。
やがてその人情味あふれる人柄が伝わったのだろう。花嫁は緊張を解きおずおずと口を開いた。
「逃げてきたんです。どうしても耐えられなくて……」
「おやおや、急性マリッジブルーかい?」
茶化す文枝をまみが目でいさめた。そうでないことは、あの黒ずくめの追っ手を見れば明らかだった。
「相手は? どんな人なの?」
まみの質問に花嫁は再び身を強ばらせたが、諦めたように肩を落としある男の名を口にした。
「ゲル・ビイツです」
「えっ!」
ふたりの口から同時に驚嘆の声が上がった。いまやITに取って代わり世界経済を支配するバイオ産業、そのトップに君臨する大富豪の名を知らぬ者はいなかった。
「まさか……」
だが信じるに値する根拠はあった。ゲル・ビイツが最近極秘の婚姻を結ぶ噂を、文枝はつい先日友人の外務大臣から聞いたばかりであった。
それにいま目の前にいる花嫁の美貌には、まさに巨万の富を得た者にふさわしい至宝の輝きがあった。
「でも彼、もうおじいちゃんでしょ?」
まみは鋭い女の勘で、花嫁の言葉に嘘がないことを見抜いた。
「おい、歳は関係ないだろ」
「だってゲル・ビイツって師匠と同い歳でしょ? いくらお金を積まれてもイヤなものはイヤよ。ねえ?」
状況を考えれば問題はさらに複雑にして深刻であろう。
しかしふたりは花嫁の気持ちを解きほぐすため、敢えて軽薄な会話を交わしたのだった。
「いえ、決してそういうわけじゃ……」
花嫁は戸惑いながらふたりを見やり、罰が悪そうに下を向いた。
その不自然な態度の理由に気づき、まみが手を叩いて笑い出した。
「アハハハハ! イヤねえ。あたしたちは夫婦じゃないわ」
「親子でもないけどね」
「そう、実はボランティアなの。年寄りは足腰が弱いから、山登りなんてどうかなって」
「おかげでさっきはいいリハビリになったよ」
きょとんと訊いていた花嫁が、指先を口にあて肩を揺すった。小鳥のような笑い声が唇から漏れた。
後はこちらのペースだった。
コンビでは十六年、文枝に至っては実に四十二年間、毎週訪れる新婚さんからそのなれそめ、私生活、果ては夜の営みまでを聞き出してきた手練れである。
あるときは冷静に、あるときは身を乗りだし、随所に洒脱なユーモアを散りばめながら、ふたりは花嫁が現在に至るまでの、おおよその経緯を飲み込んだ。
花嫁はクラリスと名乗った。
話によると彼女は意外にもゲル・ビイツとの婚姻を自ら望んでいた。それは莫大な資産とは関係なく、純粋に彼を慕う気持ちからだった。
なぜなら彼女はまだ物心つく前、孤児院から引き取られ、彼の庇護のもとここまで成長してきたのだから。
養子と結婚というと世間では不道徳な印象を拭えないが(婚姻が極秘だった理由もそこにあるのだろう)クラリス自身にそのような感覚はなかった。
当然恋愛感情とは異なるが孤児の自分をここまで育ててくれたゲル・ビイツに、彼女は深い恩恵を感じていた。
外界を知らず感覚がずれているのかもしれない。それでも彼女は自分の意志で、同世代との刺激的な愛よりも父性的な安らぎを選んだのだ。
しかし、ではなぜ彼女は式の寸前で無謀な逃走を試みたのか?
だが肝心の理由に対しては依然かたくなに口をつぐむクラリスだった。
「いいわ、無理には訊かない」
重い沈黙の後、まみが慈愛を込めた眼差しで言った。
これは収録ではないのだ。心の領域を無理に侵犯する必要はない。が、今後の身の処し方については話し合わねばならない。相手はあのゲル・ビイツなのだ。いつまでも逃げ果せるはずはない。
椅子から立ち上がったまみがうなだれたクラリスの肩に手を置いたときだった。意を決したように顔を上げたクラリスが、真っ直ぐな瞳で言った。
「実はわたし、クローンなんです」
突然放たれた理解不能の告白に、ふたりは顔を見合わせた。
むろん意味は分かっている。採取した細胞から元の個体を複製するクローン技術。理論上は可能である。ゲル・ビイツの知性を以てすれば、それが十数年前人間に対してなされたと言われても否定はできない。しかしそれは倫理上決してあってはならない背徳行為である。
「それを知ったのはちょうどひと月前のことでした。決して近づいてはならないと言われた地下の研究室。でもその日、ゲルは研究中突然心臓の発作に倒れ、常に身につけていた看護アラームが鳴り響きました。わたしは無我夢中で駆けつけました。そこで見たのです。培養槽に浮かぶ幾人ものわたしを……。私はその光景がどうしても理解できず、彼が自らの分身と呼んでいた古めかしいハードディスクを盗み見ました。画面に現れたのは膨大な遺伝子情報と精緻な洗脳プログラム、そして見知らぬ男性と仲むつまじく寄り添う、オリジナルのわたしの画像でした……」
「ちょっと待って、じゃあゲル・ビイツは叶わなかった恋を、クローンによって実現しようとしたわけなの?」
それまで固唾を飲んで訊いていたまみが声を荒げて問う。
「分かりません。それが果たしてオリジナルのわたしへの愛によるものなのか、それとも野心に基づいた実験だったのか……。でも、これまでの彼の優しさはすべて綿密に練られた洗脳プログラムによるものでした。そしてそれ以上に、わたしの存在自体が彼によってつくられた複製品だったのです。たしかに彼の行いは許されるものではありません。でも同時にあの人はわたしをつくった創造者でもあるのです。分からない……わたしどうしていいか分からない!」
両手で髪をつかみ、取り乱したようにがぶりを振るクラリスを、まみは強く抱きしめた。想像を絶する苦悩と絶望が、震える体から伝わった。
文枝は膝に置いた両手を組み、床の一点を見つめている。
思考を巡らしなんとか善後策を見出そうとするが、いまは信じられぬ事実を受け止めるのが精一杯だった。
吹き抜けのロッジにクラリスのすすり泣きが響く。窓からの陽射しは夕暮れの光に変わり、マントルピースの揺れる炎が、薄暗い空間を揺らしていた。
突然、昆虫の羽ばたきを思わせる振動音が聞こえた。
音はたちまち轟音に変わり頭上の明かり取りが砕け散った。
降り注ぐガラス片と共に三本のロープが垂らされ、黒ずくめの男たちが滑るように降りてきた。
文枝たちが頭を庇った両手を下ろすと、すでに周囲は三人の黒ずくめの男たちによって包囲されていた。全員が軍用装備を身につけ腰だめに短機関銃を構えている。
「女を渡せ」
リーダーらしき男が軍用マスク越しにくぐもった声を上げた。
まみが男を睨みクラリスを抱き寄せる。手下ふたりの銃口がまみの頭部に向けられた。
「まみ君、言う通りにするんだ」
文枝の鋭い視線がまみに向けられた。
まみは抵抗するように睨み返したが、悔しげに頬を歪ませクラリスを抱いた腕を緩めた。
まみの腕を静かに解いたクラリスが、毅然とした表情でリーダーの男へ歩み寄った。
手下のふたりが両側からクラリスの手首を掴む。
リーダーがそれを確認するため視線を逸らした瞬間だった。
文枝が椅子ごと、転がり落ちた。
傾いた椅子の側面から直方体の抽斗が現れ、中に収納されていたワルサーP99が飛び出した。
文枝はそれを宙でつかみ、横っ飛びの姿勢でトリガーを引き絞った。
ワルサーが続けざまに火を噴き、銃弾が手下ふたりの太股を貫通する。
視線を戻したリーダーが短機関銃を連射した。
けたたましい連射音が響くなか、文枝は弾道を間一髪でかわし、床を一回転しながらマントルピースの壁面に隠れた。
一方、まみは呆然と立ち尽くすクラリスの腕を引っ張り、床に這いつくばる手下ふたりの銃器を蹴散らす。
その気配に振り向いたリーダーがまみに銃口を向けた。
至近距離で標的にされたまみは金縛りにあったように動けない。
一瞬の膠着状態のあと、トリガーに掛けられた指が微かに動いた。
一発の銃声が響き、リーダーが膝から崩れ落ちた。その背後から、両手でワルサーを構えた文枝が現れた。
「大丈夫かね、まみ君」
「ええ」
まみが何事もなかったように微笑した。
極度の緊張状態から我に返ったクラリスは瞳に涙をあふれさせ、まみの胸に顔を埋めた。
「それより椅子、戻さなきゃね」
番組でも文枝が転がした椅子を元の位置に戻すのはまみの役目であった。
震えるクラリスを文枝に預け、まみは階段手前まで転がった椅子に向かって歩き出した。
まみが椅子に手を掛けたと同時に、正面下方から無数の固い足音が響いた。
吹き抜けの二階から見下ろせる玄関扉から、黒ずくめの集団が雪崩れ込んだ。追っ手の第二陣が強行突破を果たしたのであった。
「まみ君! 逃げるぞ!」
文枝はそう叫び、壁に取り付けられた赤いボタンを押し込んだ。
壁面の一画がスライドし緊急時用の脱出扉が現れた。クラリスを先に押し込め、まみを呼ぶ。
「さあ、早く!」
「でも椅子が!」
まみが椅子を抱きかかえたまま躊躇する。
「いいんだ! 本物の椅子は日本にある。そいつは私が特別につくらせたオモチャだ。耳を当ててごらん」
言われるがまま椅子の側面に耳を当てた。内部から秒針の音が規則的に聞こえた。
「脱出扉と連動して作動する仕掛けになっているんだ。こんなケースに備えてね」
納得したまみが不敵に微笑んだ。
「悪党ども、これでもくらえ!」
まみは椅子を階段に投げつけ踵を返すと、文枝の差し伸べた手につかまり脱出扉へ消えた。
階段を駆けのぼる集団の上から、弾みをつけた椅子が転がり落ちてくる。
集団は一瞬足をすくめたが、それが単なる障害物だと分かると邪険に銃身で払いのけた。
その瞬間、中の秒針がピタリと止まった。
周囲が閃光に包まれた。
轟音と共に火柱を上げるロッジを背景に、二台のスノーモービルが滑り降りてくる。
まみと後方にクラリスを乗せた文枝だ。
夕陽に染まった空が黒煙に覆われ、その中から一台の軍用ヘリが姿を現した。
黒ずくめの男たちを送り込んだヘリが、上空で待機していたのであった。
「なんてしつこいヤツらなの?」
インカムのマイクに向けて、まみが吐き捨てる。会話は三人それぞれがつけたインカムで可能である。
「スイスでも人気者だな。僕たちは」
「……すいません、わたしのために」
か細いクラリスの声がイヤーパットから聞こえる。
「いや、いいんだお嬢さん。黙っていたけど実は僕たちは日本のタレントでね、毎週新婚さんを紹介する番組をやっているんだ。だから君がはじめて花嫁姿で現れたとき、これは運命だなって感じたよ」
「でも、わたしは……」
「そう、まだ新婚さんじゃない。いいの、わたしたちの使命はすべての人びとが幸せな新婚さんになること。いつかあなたがそうなったら、わたしたちの番組に出てくれるわね?」
額を押しつけるクラリスの感触が、文枝の背中に伝わった。
「しかしひとつはっきりしたことがある。おそらくゲル・ビイツは、君が真実を知ってしまったことに気づいてるはずだ。結婚の目的がどうあれ、そいつはマズい。なぜなら君自身が倫理上の大問題を抱えた動かぬ証拠なんだから」
背後でうなるヘリの音が急速に近づいてくる。
軍用ヘリが極端に高度を下げスノーモービルに併走する。
傾いた夕陽がアルプスの雄大な自然を照らし、一面の銀世界をまばゆい金色へと変える。追跡劇の舞台は黄金の絶景だった。
併走する軍用ヘリの扉が開き、両脇を黒ずくめに抱えられた老人が現れた。
防寒具に着ぶくれた老人の視線は、文枝の背後のクラリスに固定されている。
「ゲル!」
文枝とまみの耳にクラリスの驚嘆が伝わる。
インカム同士の無線電波をジャックしたのだろう、低くしわがれた声が三人の耳に入った。
「戻るんだクラリス、お前は誤解している」
「どんな誤解よ!」
まみが怒りに満ちた声を上げる。
「いま言うわけにはいかん。君たちが聞いているからな。さあ、無駄な抵抗は止めなさい。さもないと不幸な目に合うぞ」
「やれるもんならやってみなさい! わたしたちの後ろには日本中の新婚さんがついているのよ!」
ゲルが黒ずくめに合図を送る。
軍用ヘリの底部から突き出した機関砲が荒い連射音を鳴らした。
まみのスノーモービルの間近に雪の飛沫があがる。
突然の発砲に急カーブを切った機体は遠心力に耐えられず、そのまま派手に横転した。
「まみさん!」
悲鳴に近いクラリスの叫びが、文枝の鼓膜を震わせた。
「安心しなさい! あの程度なら大丈夫だ」
「そう、あれは威嚇射撃だ」
ゲルの冷淡な声が聞こえた。
「聞こえてるね、三……いや、いまは文枝だったな」
「私を知っているのか?」
「もちろんだ。わたしの趣味は世界中の伝統芸能に親しむことだからね。君の落語の腕前は大したものだ。ただ君が得意とする創作落語には疑問を感じるな。私はこう見えて古典を重んじるタイプだからね。おっと、無駄話は後にしよう。いますぐ止まりなさい。年寄りにこれ以上無理をさせないでくれたまえ」
「運動不足じゃないか? あなたは私と同い歳ですよ」
イヤーパッドからゲルのため息が漏れ、ヘリの人影が首を左右に振った。機関砲の銃口が文枝のスノーモービルを捉える。
「待って!」
クラリスの声が敢然と響いた。
「分かったわ、あなたの言う通りにします。だからこの人たちにもうこれ以上危害を加えないで」
「お嬢さん……」
「いいの、おじさま。もとはと言えばわたしが原因なの。わたしがわたし自身から逃げてしまったことが……。はっきりさせたいの。わたしが本当はいったい何者なのか」
「……分かった」
文枝はそれ以上なにも言わず、前方に見える断崖の手前で速度を緩めた。
スノーモービルのエンジン音がおさまり、ふたりは積雪に足を埋めた。
続いて軍用ヘリが着陸しプロペラが停止した。
断崖が衝立になっているせいか、遠くに風が聞こえるだけで、周囲は妙な静けさに包まれていた。
黒づくめに支えられたゲルが降りてきた。
「さあ、おいで」
ゲルが両手を広げ迎え入れる。
クラリスが一歩足を踏み出す。
が、次の一歩が続かない。文枝がクラリスの手首を掴んでいた。
「なにをするんだ、貴様!」
「お願い、いかせて、おじさま!」
文枝が黙したまま、ゲルに鋭い視線を向けた。その眼力にたじろいだゲルがわずかに後ずさった直後、文枝の雄叫びがアルプスの山々に木霊した。
「あなたの方から、いらっしゃ~~~~~~~~~~~~~~~~~~いっ!」
木霊は幾重にも響き渡り、周囲一帯に地響きがとどろいた。
ゲルが上空を見上げた。
まるで空全体が陥落するように、崖から雪崩が堕ちてきた。
陽は沈み掛かり紫の混じった光のなか、雪崩後の起伏が寒々しい陰影をつくっていた。
遠くから近づいて来たスノーモービルのエンジン音が止まった。
「師匠ーーーーーっ! クラリーーーーース!」
まみの呼びかけに、雪の表面が盛り上がった。
「師匠!」
雪を被った文枝の上半身が現れた。続いてその隣りから文枝に腕を引っ張られたクラリスが顔を出す。
「大丈夫? ふたりとも」
「ああ、最後の切り札がものを言ったよ」
「あの『いらっしゃ~い!』ね?」
文枝が口端を上げ微笑した。意識朦朧としていたクラリスが目を見開き、周囲を見回した。
「ゲルは? あの人はどこなの!」
震える声で訴え、懸命に雪から這い上がろうとするクラリスに、ふたりは困惑した。
「お願い! あの人を助けて!」
敵だとばかり思っていたゲルはしかし、クラリスにとってはいまだ婚約者であり創造主であった。
三人は手分けしてゲルを探した。
雪崩の後は雪ばかりではなく、崖から落下した岩や氷河の一部がそこかしこに散乱していた。もしもふたりがその落下地点にいたならば、生還は出来なかったかもしれない。
いまさら冷や汗が噴き出るのを感じながら、文枝は目の前に突き刺さった氷柱の裏に回り込んだ。
ゲルはいた。
おそらく自力で這いだしたのであろう。その隣りには人ひとり分の穴が穿かれていた。
「おーーい! いたぞーーーっ!」
文枝は大声でふたりを呼び寄せ、力なくしゃがみ込むゲルの肩を抱きかかえた。
しかしゲルは無表情に目の前の氷柱を凝視している。文枝は不審に思いゲルの視線を追った。
氷柱に中に、もうひとりのクラリスが眠っていた。
容貌も歳加減も瓜二つ、ただ現在のクラリスとの相違点を挙げれば、その凍結された美女がいまの感覚からすれば流行遅れと思える登山服を着ているくらいであった。
すぐさま駆けつけたまみとクラリスを含め、その場にいた全員が信じられぬ光景に絶句した。
「ここにいたのか……」
氷柱を見つめたまま、ゲルが独り言のようにつぶやいた。
「二十年前のことだ。私は彼女とこの山に登ったのだ。婚前の思い出作りだった。しかし天候は急変しわたしたちは吹雪のなかさまよった。そのとき雪崩に遭遇したのだよ。私は翌日救助されたが、彼女はとうとう帰らなかった。わたしはそのとき自分の指に絡みついていた一本の髪の毛から、もうひとりのクラリス、そう、お前をつくり出したのだよ。おかしな話だ。まさかお前を追って彼女と再会するとはな……」
「もしかして……じゃあ、あの画像の中の男性は!」
「そう、若かりし頃のわたしだ」
「そんな……」
クラリスが顔を覆い、泣き崩れた。
「じゃあ、洗脳プログラムはなんなの? クラリスから話は聞いたわ。あなたはクラリスを思い通りの女性に育てようとして……」
まみの言葉を遮り、ゲルが続けた。
「それこそ大いなる誤解だ。たしかにわたしはクラリスをオリジナルそっくりの人格に育て上げようとした。だが途中から、彼女の中に掛け替えのないオリジナリティを見出したのだ。いくらクローンと言えど彼女には彼女の人生がある。あの洗脳プログラムはあとから書かれた彼女の成長記録なのだ。研究者のくせでね、どうしても記述が難解になってしまう。数式だらけの育児日記があらぬプログラムと間違われても仕方ない」
ゲルがクラリスの肩に手を置いた。クラリスの頭上からしわがれた声が降りてきた。
「クラリス、わたしが間違っていたよ。彼女がそれに気づかせてくれた。お前はお前の人生を生きなさい。わたしは彼女と余生を送る」
「嫌っ!」
クラリスが顔を見上げた。
泣き腫らした瞳の奥には、澄んだ光が宿っていた。
「わたし、あなたと一緒になります。これはわたしの意志、誰に強制されたのものでもない、これまでずっとあなたと暮らしてきた中で芽生えた偽りのない真情……。いま分かったわ、どうしてオリジナルのわたしが、あなたのことを愛したのか。もう複製じゃない。わたしはわたしの意志で、あなたと結ばれます!」
「クラリス……」
両膝をついたゲルの腕が、クラリスをきつく抱きしめた。
抱き合うふたりを氷の中のクラリスが、聖母のように見下ろしていた。
まみが目尻の涙を拭って言った。
「じゃあ、新婚さん誕生ってわけね!」
文枝が大きくうなずき、右手で髪をなでつけながら、お馴染みのタイトルコールを発した。
「新婚さん、いらっしゃ~~い!」
紫濃くしたアルプスの大空に、宵の明星が輝いていた。
なんとこのたび、当サイトで僕が細々と続けていたノベライズシリーズが、河出書房さまから単行本として出版されます。発売は11月中旬の予定です。
また単行本化に際し、たいへん心苦しいのですがノベライズシリーズのアーカイブを五本の自選作を残して非公開とさせてもらいます。今後も更新分は次回更新までの公開となります。諸事情ご理解のうえご容赦くださいますようお願い致します。
ちょっと長目ですが、ごゆっくりどうぞ!!
「新婚さんいらっしゃい」をノベライズする。(スペシャル版)
サン・モリッツ湖を吹き渡る清爽な風を感じながら、桂文枝はデミタスカップの持ち手をつまんだ。向かいの席ではつばの広い帽子をかぶった山瀬まみが、ペリエの入ったグラスを傾けている。
桂三枝から桂文枝へ、伸び伸びのなった襲名祝いも兼ね「新婚さんいらっしゃい!」の両司会者は、ここスイスの高級リゾート地、サン・モリッツへ束の間の静養に訪れているのであった。
「ふふ、まるでハネムーンね」
「フルムーンの間違いじゃないか?」
カップの縁から唇を離し、上目づかいに言う文枝に、まみは肩をすくめた。
年の差は親子ほど離れているものの、ふたりの雰囲気は円熟期の夫婦を思わせる。
もっとも互いを結ぶのは恋愛感情ではなく、長年同じ戦場を共にした同志としての絆であった。
ふたりはお互いをねぎらうように、カップとグラスを小さく掲げた。
街の中心に立つ尖塔から鐘の音が鳴り響く。
その音がまだ消え入る前であった。
石造りの建物に挟まれた細い道を、黒塗りのリムジンが猛スピードで突っ込んできた。
路肩のそこかしこから悲鳴が上がり、車はオープンカフェでくつろぐふたりの横をすれすれで駆け抜け、急ブレーキの軋みを立てた。
直後、派手な衝突音と共に車は建物に叩き付けられ、ひしゃげたボンネットの隙間から白煙がのぼった。
数秒の静寂のあと車のドアが内側から揺る。
唖然として見守るふたりの前に現れたのは、純白のドレスに身を包んだ花嫁の姿であった。
「新婚さんよ!」
まみはそう叫ぶといまにも崩れ落ちそうな花嫁に駆けよった。文枝も弾かれるように後を追った。
背後から野太いエンジン音が響く。
振り返ると二台の大型バイクが迫っていた。両者ともフルフェイスのヘルメットを被った、全身黒ずくめのライダーだった。
まみに抱かれた花嫁が青ざめた顔で腕から逃れようとする。異常を感じ取った文枝がバイクに向き直り背中越しに言った。
「まみ君、花嫁を頼む!」
抵抗する花嫁の腕を引き、まみが路地へと逃げこんだ。
間隔を開けた二台のバイクが仁王立ちの文枝を抜き去ろうとしたときだった。
文枝の脱ぎ投げた白いスーツの上着が、左のライダーの頭部を覆った。視界を遮られたライダーが転倒し、火花を散らした車体が横滑りに流れてゆく。
路地を通り過ぎたもう一台が前輪を軸にターンを決める。
文枝は近くにあったオーブンカフェのパラソルを土台から抜き取り、すぼめてやり投げの要領で構え直した。
舞い戻ったバイクが花嫁の逃げた路地へ向かう。
文枝が渾身の力を込めすぼめたパラソルを放つ。風を切ったパラソルがバイクの前輪に突き刺さった。
バイクが縦に大きく回転し、投げ出されたライダーが路地に干された洗濯物を巻き込み落下した。
その光景を目の当たりにした群衆がやっと我に返り、文枝を探し始めたとき、彼の姿はすでになかった。
☆
サン・モリッツを囲む峻厳なベルニナ・アルプス、万年雪と氷河が広がるその山脈の中腹に、文枝とまみが逗留する高級ロッジがあった。
限られたセレブにのみ許された隠れ家的ロッジ、セキュリティも万全である。ここなら敵も易々とは追って来られないだろう。
衣装室から取り出した新しい上着を羽織りながら、文枝はようやくひと息ついた。
ガウンに着替えた花嫁がまみに付き添われ現れた。
文枝は目を見張った。
あのときは容貌など確認する余裕もなかったが、あらためて見るブロンドの花嫁はぞっとするほど美しかった。
周囲の景色がぼやけてしまいそうなほどシャープな面立ちに白磁の肌、深く澄んだ蒼眼はアルプスの氷河を思わせた。ガウン越しでも分かるあまりに均整のとれたプロポーションは人工的とさえ言える。
文枝は花嫁を二階のリビングへと案内し、暖炉の前の応接セットへ促した。
ローテーブルには溢れんばかりの花が飾られ、低い背もたれのついた円柱の椅子は、番組で使われる「あの椅子」と酷似していた。やはりこの形が一番落ち着けると、文枝がわざわざ現地でつくらせたものだった。
長年身についた習性のせいか、文枝は花嫁を上手の椅子に座らせ、自分はまみと下手の椅子に座った。花嫁の隣りに夫がいないことを除いては、番組と同じ光景であった。
「英語はしゃべれる?」
見事なキングスイングリッシュで、文枝が訊いた。花嫁がこくりとうなずいた。
「じゃあ、事情を訊かせてくれないか?」
「心配しないで、私たちは日本から来たただの観光客よ。決して怪しいものじゃない」
ただの観光客があれほどの離れ業で赤の他人を助けるはずがない。
花嫁の瞳にはいまだ不審の色が漂っていたが、ふたりは熱心に説得を続けた。
やがてその人情味あふれる人柄が伝わったのだろう。花嫁は緊張を解きおずおずと口を開いた。
「逃げてきたんです。どうしても耐えられなくて……」
「おやおや、急性マリッジブルーかい?」
茶化す文枝をまみが目でいさめた。そうでないことは、あの黒ずくめの追っ手を見れば明らかだった。
「相手は? どんな人なの?」
まみの質問に花嫁は再び身を強ばらせたが、諦めたように肩を落としある男の名を口にした。
「ゲル・ビイツです」
「えっ!」
ふたりの口から同時に驚嘆の声が上がった。いまやITに取って代わり世界経済を支配するバイオ産業、そのトップに君臨する大富豪の名を知らぬ者はいなかった。
「まさか……」
だが信じるに値する根拠はあった。ゲル・ビイツが最近極秘の婚姻を結ぶ噂を、文枝はつい先日友人の外務大臣から聞いたばかりであった。
それにいま目の前にいる花嫁の美貌には、まさに巨万の富を得た者にふさわしい至宝の輝きがあった。
「でも彼、もうおじいちゃんでしょ?」
まみは鋭い女の勘で、花嫁の言葉に嘘がないことを見抜いた。
「おい、歳は関係ないだろ」
「だってゲル・ビイツって師匠と同い歳でしょ? いくらお金を積まれてもイヤなものはイヤよ。ねえ?」
状況を考えれば問題はさらに複雑にして深刻であろう。
しかしふたりは花嫁の気持ちを解きほぐすため、敢えて軽薄な会話を交わしたのだった。
「いえ、決してそういうわけじゃ……」
花嫁は戸惑いながらふたりを見やり、罰が悪そうに下を向いた。
その不自然な態度の理由に気づき、まみが手を叩いて笑い出した。
「アハハハハ! イヤねえ。あたしたちは夫婦じゃないわ」
「親子でもないけどね」
「そう、実はボランティアなの。年寄りは足腰が弱いから、山登りなんてどうかなって」
「おかげでさっきはいいリハビリになったよ」
きょとんと訊いていた花嫁が、指先を口にあて肩を揺すった。小鳥のような笑い声が唇から漏れた。
後はこちらのペースだった。
コンビでは十六年、文枝に至っては実に四十二年間、毎週訪れる新婚さんからそのなれそめ、私生活、果ては夜の営みまでを聞き出してきた手練れである。
あるときは冷静に、あるときは身を乗りだし、随所に洒脱なユーモアを散りばめながら、ふたりは花嫁が現在に至るまでの、おおよその経緯を飲み込んだ。
花嫁はクラリスと名乗った。
話によると彼女は意外にもゲル・ビイツとの婚姻を自ら望んでいた。それは莫大な資産とは関係なく、純粋に彼を慕う気持ちからだった。
なぜなら彼女はまだ物心つく前、孤児院から引き取られ、彼の庇護のもとここまで成長してきたのだから。
養子と結婚というと世間では不道徳な印象を拭えないが(婚姻が極秘だった理由もそこにあるのだろう)クラリス自身にそのような感覚はなかった。
当然恋愛感情とは異なるが孤児の自分をここまで育ててくれたゲル・ビイツに、彼女は深い恩恵を感じていた。
外界を知らず感覚がずれているのかもしれない。それでも彼女は自分の意志で、同世代との刺激的な愛よりも父性的な安らぎを選んだのだ。
しかし、ではなぜ彼女は式の寸前で無謀な逃走を試みたのか?
だが肝心の理由に対しては依然かたくなに口をつぐむクラリスだった。
「いいわ、無理には訊かない」
重い沈黙の後、まみが慈愛を込めた眼差しで言った。
これは収録ではないのだ。心の領域を無理に侵犯する必要はない。が、今後の身の処し方については話し合わねばならない。相手はあのゲル・ビイツなのだ。いつまでも逃げ果せるはずはない。
椅子から立ち上がったまみがうなだれたクラリスの肩に手を置いたときだった。意を決したように顔を上げたクラリスが、真っ直ぐな瞳で言った。
「実はわたし、クローンなんです」
突然放たれた理解不能の告白に、ふたりは顔を見合わせた。
むろん意味は分かっている。採取した細胞から元の個体を複製するクローン技術。理論上は可能である。ゲル・ビイツの知性を以てすれば、それが十数年前人間に対してなされたと言われても否定はできない。しかしそれは倫理上決してあってはならない背徳行為である。
「それを知ったのはちょうどひと月前のことでした。決して近づいてはならないと言われた地下の研究室。でもその日、ゲルは研究中突然心臓の発作に倒れ、常に身につけていた看護アラームが鳴り響きました。わたしは無我夢中で駆けつけました。そこで見たのです。培養槽に浮かぶ幾人ものわたしを……。私はその光景がどうしても理解できず、彼が自らの分身と呼んでいた古めかしいハードディスクを盗み見ました。画面に現れたのは膨大な遺伝子情報と精緻な洗脳プログラム、そして見知らぬ男性と仲むつまじく寄り添う、オリジナルのわたしの画像でした……」
「ちょっと待って、じゃあゲル・ビイツは叶わなかった恋を、クローンによって実現しようとしたわけなの?」
それまで固唾を飲んで訊いていたまみが声を荒げて問う。
「分かりません。それが果たしてオリジナルのわたしへの愛によるものなのか、それとも野心に基づいた実験だったのか……。でも、これまでの彼の優しさはすべて綿密に練られた洗脳プログラムによるものでした。そしてそれ以上に、わたしの存在自体が彼によってつくられた複製品だったのです。たしかに彼の行いは許されるものではありません。でも同時にあの人はわたしをつくった創造者でもあるのです。分からない……わたしどうしていいか分からない!」
両手で髪をつかみ、取り乱したようにがぶりを振るクラリスを、まみは強く抱きしめた。想像を絶する苦悩と絶望が、震える体から伝わった。
文枝は膝に置いた両手を組み、床の一点を見つめている。
思考を巡らしなんとか善後策を見出そうとするが、いまは信じられぬ事実を受け止めるのが精一杯だった。
吹き抜けのロッジにクラリスのすすり泣きが響く。窓からの陽射しは夕暮れの光に変わり、マントルピースの揺れる炎が、薄暗い空間を揺らしていた。
突然、昆虫の羽ばたきを思わせる振動音が聞こえた。
音はたちまち轟音に変わり頭上の明かり取りが砕け散った。
降り注ぐガラス片と共に三本のロープが垂らされ、黒ずくめの男たちが滑るように降りてきた。
文枝たちが頭を庇った両手を下ろすと、すでに周囲は三人の黒ずくめの男たちによって包囲されていた。全員が軍用装備を身につけ腰だめに短機関銃を構えている。
「女を渡せ」
リーダーらしき男が軍用マスク越しにくぐもった声を上げた。
まみが男を睨みクラリスを抱き寄せる。手下ふたりの銃口がまみの頭部に向けられた。
「まみ君、言う通りにするんだ」
文枝の鋭い視線がまみに向けられた。
まみは抵抗するように睨み返したが、悔しげに頬を歪ませクラリスを抱いた腕を緩めた。
まみの腕を静かに解いたクラリスが、毅然とした表情でリーダーの男へ歩み寄った。
手下のふたりが両側からクラリスの手首を掴む。
リーダーがそれを確認するため視線を逸らした瞬間だった。
文枝が椅子ごと、転がり落ちた。
傾いた椅子の側面から直方体の抽斗が現れ、中に収納されていたワルサーP99が飛び出した。
文枝はそれを宙でつかみ、横っ飛びの姿勢でトリガーを引き絞った。
ワルサーが続けざまに火を噴き、銃弾が手下ふたりの太股を貫通する。
視線を戻したリーダーが短機関銃を連射した。
けたたましい連射音が響くなか、文枝は弾道を間一髪でかわし、床を一回転しながらマントルピースの壁面に隠れた。
一方、まみは呆然と立ち尽くすクラリスの腕を引っ張り、床に這いつくばる手下ふたりの銃器を蹴散らす。
その気配に振り向いたリーダーがまみに銃口を向けた。
至近距離で標的にされたまみは金縛りにあったように動けない。
一瞬の膠着状態のあと、トリガーに掛けられた指が微かに動いた。
一発の銃声が響き、リーダーが膝から崩れ落ちた。その背後から、両手でワルサーを構えた文枝が現れた。
「大丈夫かね、まみ君」
「ええ」
まみが何事もなかったように微笑した。
極度の緊張状態から我に返ったクラリスは瞳に涙をあふれさせ、まみの胸に顔を埋めた。
「それより椅子、戻さなきゃね」
番組でも文枝が転がした椅子を元の位置に戻すのはまみの役目であった。
震えるクラリスを文枝に預け、まみは階段手前まで転がった椅子に向かって歩き出した。
まみが椅子に手を掛けたと同時に、正面下方から無数の固い足音が響いた。
吹き抜けの二階から見下ろせる玄関扉から、黒ずくめの集団が雪崩れ込んだ。追っ手の第二陣が強行突破を果たしたのであった。
「まみ君! 逃げるぞ!」
文枝はそう叫び、壁に取り付けられた赤いボタンを押し込んだ。
壁面の一画がスライドし緊急時用の脱出扉が現れた。クラリスを先に押し込め、まみを呼ぶ。
「さあ、早く!」
「でも椅子が!」
まみが椅子を抱きかかえたまま躊躇する。
「いいんだ! 本物の椅子は日本にある。そいつは私が特別につくらせたオモチャだ。耳を当ててごらん」
言われるがまま椅子の側面に耳を当てた。内部から秒針の音が規則的に聞こえた。
「脱出扉と連動して作動する仕掛けになっているんだ。こんなケースに備えてね」
納得したまみが不敵に微笑んだ。
「悪党ども、これでもくらえ!」
まみは椅子を階段に投げつけ踵を返すと、文枝の差し伸べた手につかまり脱出扉へ消えた。
階段を駆けのぼる集団の上から、弾みをつけた椅子が転がり落ちてくる。
集団は一瞬足をすくめたが、それが単なる障害物だと分かると邪険に銃身で払いのけた。
その瞬間、中の秒針がピタリと止まった。
周囲が閃光に包まれた。
☆
轟音と共に火柱を上げるロッジを背景に、二台のスノーモービルが滑り降りてくる。
まみと後方にクラリスを乗せた文枝だ。
夕陽に染まった空が黒煙に覆われ、その中から一台の軍用ヘリが姿を現した。
黒ずくめの男たちを送り込んだヘリが、上空で待機していたのであった。
「なんてしつこいヤツらなの?」
インカムのマイクに向けて、まみが吐き捨てる。会話は三人それぞれがつけたインカムで可能である。
「スイスでも人気者だな。僕たちは」
「……すいません、わたしのために」
か細いクラリスの声がイヤーパットから聞こえる。
「いや、いいんだお嬢さん。黙っていたけど実は僕たちは日本のタレントでね、毎週新婚さんを紹介する番組をやっているんだ。だから君がはじめて花嫁姿で現れたとき、これは運命だなって感じたよ」
「でも、わたしは……」
「そう、まだ新婚さんじゃない。いいの、わたしたちの使命はすべての人びとが幸せな新婚さんになること。いつかあなたがそうなったら、わたしたちの番組に出てくれるわね?」
額を押しつけるクラリスの感触が、文枝の背中に伝わった。
「しかしひとつはっきりしたことがある。おそらくゲル・ビイツは、君が真実を知ってしまったことに気づいてるはずだ。結婚の目的がどうあれ、そいつはマズい。なぜなら君自身が倫理上の大問題を抱えた動かぬ証拠なんだから」
背後でうなるヘリの音が急速に近づいてくる。
軍用ヘリが極端に高度を下げスノーモービルに併走する。
傾いた夕陽がアルプスの雄大な自然を照らし、一面の銀世界をまばゆい金色へと変える。追跡劇の舞台は黄金の絶景だった。
併走する軍用ヘリの扉が開き、両脇を黒ずくめに抱えられた老人が現れた。
防寒具に着ぶくれた老人の視線は、文枝の背後のクラリスに固定されている。
「ゲル!」
文枝とまみの耳にクラリスの驚嘆が伝わる。
インカム同士の無線電波をジャックしたのだろう、低くしわがれた声が三人の耳に入った。
「戻るんだクラリス、お前は誤解している」
「どんな誤解よ!」
まみが怒りに満ちた声を上げる。
「いま言うわけにはいかん。君たちが聞いているからな。さあ、無駄な抵抗は止めなさい。さもないと不幸な目に合うぞ」
「やれるもんならやってみなさい! わたしたちの後ろには日本中の新婚さんがついているのよ!」
ゲルが黒ずくめに合図を送る。
軍用ヘリの底部から突き出した機関砲が荒い連射音を鳴らした。
まみのスノーモービルの間近に雪の飛沫があがる。
突然の発砲に急カーブを切った機体は遠心力に耐えられず、そのまま派手に横転した。
「まみさん!」
悲鳴に近いクラリスの叫びが、文枝の鼓膜を震わせた。
「安心しなさい! あの程度なら大丈夫だ」
「そう、あれは威嚇射撃だ」
ゲルの冷淡な声が聞こえた。
「聞こえてるね、三……いや、いまは文枝だったな」
「私を知っているのか?」
「もちろんだ。わたしの趣味は世界中の伝統芸能に親しむことだからね。君の落語の腕前は大したものだ。ただ君が得意とする創作落語には疑問を感じるな。私はこう見えて古典を重んじるタイプだからね。おっと、無駄話は後にしよう。いますぐ止まりなさい。年寄りにこれ以上無理をさせないでくれたまえ」
「運動不足じゃないか? あなたは私と同い歳ですよ」
イヤーパッドからゲルのため息が漏れ、ヘリの人影が首を左右に振った。機関砲の銃口が文枝のスノーモービルを捉える。
「待って!」
クラリスの声が敢然と響いた。
「分かったわ、あなたの言う通りにします。だからこの人たちにもうこれ以上危害を加えないで」
「お嬢さん……」
「いいの、おじさま。もとはと言えばわたしが原因なの。わたしがわたし自身から逃げてしまったことが……。はっきりさせたいの。わたしが本当はいったい何者なのか」
「……分かった」
文枝はそれ以上なにも言わず、前方に見える断崖の手前で速度を緩めた。
スノーモービルのエンジン音がおさまり、ふたりは積雪に足を埋めた。
続いて軍用ヘリが着陸しプロペラが停止した。
断崖が衝立になっているせいか、遠くに風が聞こえるだけで、周囲は妙な静けさに包まれていた。
黒づくめに支えられたゲルが降りてきた。
「さあ、おいで」
ゲルが両手を広げ迎え入れる。
クラリスが一歩足を踏み出す。
が、次の一歩が続かない。文枝がクラリスの手首を掴んでいた。
「なにをするんだ、貴様!」
「お願い、いかせて、おじさま!」
文枝が黙したまま、ゲルに鋭い視線を向けた。その眼力にたじろいだゲルがわずかに後ずさった直後、文枝の雄叫びがアルプスの山々に木霊した。
「あなたの方から、いらっしゃ~~~~~~~~~~~~~~~~~~いっ!」
木霊は幾重にも響き渡り、周囲一帯に地響きがとどろいた。
ゲルが上空を見上げた。
まるで空全体が陥落するように、崖から雪崩が堕ちてきた。
☆
陽は沈み掛かり紫の混じった光のなか、雪崩後の起伏が寒々しい陰影をつくっていた。
遠くから近づいて来たスノーモービルのエンジン音が止まった。
「師匠ーーーーーっ! クラリーーーーース!」
まみの呼びかけに、雪の表面が盛り上がった。
「師匠!」
雪を被った文枝の上半身が現れた。続いてその隣りから文枝に腕を引っ張られたクラリスが顔を出す。
「大丈夫? ふたりとも」
「ああ、最後の切り札がものを言ったよ」
「あの『いらっしゃ~い!』ね?」
文枝が口端を上げ微笑した。意識朦朧としていたクラリスが目を見開き、周囲を見回した。
「ゲルは? あの人はどこなの!」
震える声で訴え、懸命に雪から這い上がろうとするクラリスに、ふたりは困惑した。
「お願い! あの人を助けて!」
敵だとばかり思っていたゲルはしかし、クラリスにとってはいまだ婚約者であり創造主であった。
三人は手分けしてゲルを探した。
雪崩の後は雪ばかりではなく、崖から落下した岩や氷河の一部がそこかしこに散乱していた。もしもふたりがその落下地点にいたならば、生還は出来なかったかもしれない。
いまさら冷や汗が噴き出るのを感じながら、文枝は目の前に突き刺さった氷柱の裏に回り込んだ。
ゲルはいた。
おそらく自力で這いだしたのであろう。その隣りには人ひとり分の穴が穿かれていた。
「おーーい! いたぞーーーっ!」
文枝は大声でふたりを呼び寄せ、力なくしゃがみ込むゲルの肩を抱きかかえた。
しかしゲルは無表情に目の前の氷柱を凝視している。文枝は不審に思いゲルの視線を追った。
氷柱に中に、もうひとりのクラリスが眠っていた。
容貌も歳加減も瓜二つ、ただ現在のクラリスとの相違点を挙げれば、その凍結された美女がいまの感覚からすれば流行遅れと思える登山服を着ているくらいであった。
すぐさま駆けつけたまみとクラリスを含め、その場にいた全員が信じられぬ光景に絶句した。
「ここにいたのか……」
氷柱を見つめたまま、ゲルが独り言のようにつぶやいた。
「二十年前のことだ。私は彼女とこの山に登ったのだ。婚前の思い出作りだった。しかし天候は急変しわたしたちは吹雪のなかさまよった。そのとき雪崩に遭遇したのだよ。私は翌日救助されたが、彼女はとうとう帰らなかった。わたしはそのとき自分の指に絡みついていた一本の髪の毛から、もうひとりのクラリス、そう、お前をつくり出したのだよ。おかしな話だ。まさかお前を追って彼女と再会するとはな……」
「もしかして……じゃあ、あの画像の中の男性は!」
「そう、若かりし頃のわたしだ」
「そんな……」
クラリスが顔を覆い、泣き崩れた。
「じゃあ、洗脳プログラムはなんなの? クラリスから話は聞いたわ。あなたはクラリスを思い通りの女性に育てようとして……」
まみの言葉を遮り、ゲルが続けた。
「それこそ大いなる誤解だ。たしかにわたしはクラリスをオリジナルそっくりの人格に育て上げようとした。だが途中から、彼女の中に掛け替えのないオリジナリティを見出したのだ。いくらクローンと言えど彼女には彼女の人生がある。あの洗脳プログラムはあとから書かれた彼女の成長記録なのだ。研究者のくせでね、どうしても記述が難解になってしまう。数式だらけの育児日記があらぬプログラムと間違われても仕方ない」
ゲルがクラリスの肩に手を置いた。クラリスの頭上からしわがれた声が降りてきた。
「クラリス、わたしが間違っていたよ。彼女がそれに気づかせてくれた。お前はお前の人生を生きなさい。わたしは彼女と余生を送る」
「嫌っ!」
クラリスが顔を見上げた。
泣き腫らした瞳の奥には、澄んだ光が宿っていた。
「わたし、あなたと一緒になります。これはわたしの意志、誰に強制されたのものでもない、これまでずっとあなたと暮らしてきた中で芽生えた偽りのない真情……。いま分かったわ、どうしてオリジナルのわたしが、あなたのことを愛したのか。もう複製じゃない。わたしはわたしの意志で、あなたと結ばれます!」
「クラリス……」
両膝をついたゲルの腕が、クラリスをきつく抱きしめた。
抱き合うふたりを氷の中のクラリスが、聖母のように見下ろしていた。
まみが目尻の涙を拭って言った。
「じゃあ、新婚さん誕生ってわけね!」
文枝が大きくうなずき、右手で髪をなでつけながら、お馴染みのタイトルコールを発した。
「新婚さん、いらっしゃ~~い!」
紫濃くしたアルプスの大空に、宵の明星が輝いていた。
この記事の元ブログ: 「新婚さんいらっしゃい」をノベライズする。(スペシャル版)