校條剛『ザ・流行作家』講談社
「小説新潮」の元編集者である著者が、実際に深く付き合った川上宗薫と笹沢左保という2人の作家の人生をたどった一冊。そのカバーの上半分では、笹沢が机の上に突っ伏すようにして、原稿用紙にペンを走らせる写真が使われている。若い頃に交通事故で入院して以来、布団にもぐり、腹這いになって原稿を書いてきた彼は、後年、机を使うようになってからも、椅子の高さを極端に低くして、布団で書くのと同じ感覚を求めた。
それに対し下半分の写真では、川上がリクライニング・チェアに座りくつろいでいる……ように一見みえるが、これは口述筆記をしている様子を撮ったもの。このように、同じ流行作家と呼ばれる存在でありながら、執筆のスタイルは対照的であった。

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「もしも、この原稿を失くしてしまったら、同じものをまた書けますか?」

ある週刊誌の編集者が、小説家の笹沢左保から原稿を受け取った際、ふとそんなことを訊ねた。まだネットどころか、ファックスもコピー機も普及していなかった頃の話、原稿は編集者に渡した時点で、作家の手元には残らない。訊かれた笹沢は「書けるよ」と答えたものの、一拍置いて、「でも、書かないよ」と言い放ったという。まるで、彼の代表作である時代小説『木枯し紋次郎』の主人公・紋次郎のお約束のせりふ、「あっしにはかかわりのねえことでござんす」を彷彿とさせる言いっぷりではないか。

このエピソードは、新潮社の雑誌「小説新潮」で長らく編集者を務めた校條剛(めんじょうつよし)のノンフィクション『ザ・流行作家』に出てくる話だ(校條自身の体験談ではないが)。タイトルに掲げられた「流行作家」とは、いまではあまり使われない言葉かもしれない。

留意したいのは、流行作家はベストセラー作家とイコールではない、ということだ。笹沢左保も、本書のもうひとりの主人公で、「エロ作家」「ポルノ作家」などと呼ばれた川上宗薫も、単行本ではなく雑誌や新聞に書いて原稿料で稼ぐ、いわば自転車操業的、マガジンライター的な作家であった。校條は自ら編集者として長きにわたり付き合った彼らのような作家こそ、真正の流行作家であり、現代ではほとんど絶滅した種族である、と書く。

笹沢の『木枯し紋次郎』は、「小説現代」(講談社)で連載が始まった翌年、1972年には中村敦夫主演、市川崑監督によってテレビドラマ化され大ヒットとなった。笹沢はブームに乗って、1973年の長者番付の作家部門で6位に初登場する。ただしこれは『紋次郎』の単行本や文庫本が売れたからではなく、あくまでも、ブーム後さらに増えた雑誌の仕事をこなした結果であった。一方の川上も、笹沢のようなでかいヒットはなかったとはいえ、常に締め切りに追われていた(ちなみに、彼はその名も『流行作家』という小説を書いてもいる)。両者が流行作家であった証拠は、何年ものあいだ、ひと月に400字詰め原稿用紙にして1000枚超という生産量を誇ったという事実で十分だろう。

速筆で鼻歌をうたうように原稿を書いたという川上(のちには口述筆記を採用し、さらにスピードは速まった)に対し、笹沢は締め切りにルーズで、編集者を困らせるのもしばしであった。だが、両者とも、自分で課したノルマに忠実だったという点では共通する。川上の場合、一日のうち原稿を書くのは4時間ほどに設定し、その時間に集中して原稿を書きあげた。笹沢は、書く枚数をきっかり定め、いったん書き出したらその枚数に達するまで筆を止めなかった。あるときなど、原稿の締め切りと愛人との約束が重なったため、自腹でホテルのスイートルームをとり、愛人を寝室に待たせつつ、原稿を終えるまで書き続けたこともあったという。その集中力と自制心は感心するが、そこで愛人を帰さないところには正直、ちょっとあきれてしまう。

早くに結婚した笹沢(その筆名も夫人の「佐保」の名からとったもの)だが、晩年にいたるまで常に愛人が存在した。女性関係では、川上も話題には事欠かない。彼の場合、その作風ゆえ、女性との体験はすぐに小説に反映された。年を追うごとに、女性と会う目的は快楽から義務へと変わっていき、女性に対してもひと月何人とノルマを課すようになる(そのほとんどは初対面の相手ばかりであった)。しかも女性と行為におよんでいるときでも、客観的な観察眼を失わなかった。

2人は女とともに酒にも耽溺した。笹沢はもともと酒に強く、乱れることもなかったのが、年齢を重ねるうちに、編集者を説教したりと酒癖が悪くなっていく。これというのも、作品を量産するうち、しだいにアイデアが枯渇し、もう書けないという焦りや鬱屈が生じていたからだ。鬱屈から酒に溺れた笹沢は、ついにはそれが原因で体を壊し、入退院を繰り返すという悪循環におちいる。最後の愛人と別れ、一時移住していた佐賀から東京に戻った直後こそ、ふたたび創作への意欲を見せていたものの、それから数年して断筆を宣言、2002年に71歳で亡くなるまでついに筆をとることはなかった。

川上の晩年も壮絶だ。若い頃の彼は、飲んでもすぐに顔が赤くなるほど酒に弱かったものの、しだいに赤くならなくなった。が、こういう体質の持ち主には多いという食道がんに侵され、闘病の末、1985年に61歳で死去している。笹沢と対照的なのは、川上が最後の最後まで書き続けたことだ。病床にあっても、作品の題材にするため、計2人の女性と行為におよんだというから驚嘆する。

ここまでの紹介でもわかるとおり、本書には、2人の流行作家について、その私生活が赤裸々につづられている。しかし、彼らにとって私生活と仕事は分かちがたく結びついていたといってもいい。ときに道徳に反することもあった彼らの行動が、いかに作品に昇華されていったかまで、著者は丹念に読み解いている。そこでは、純文学志向であった川上の初期作品から、のちの作風の片鱗を見てとったり、また、彼の小説と、一般的なポルノ小説との決定的な違いが具体的に示されていたりして、作品に対してもがぜん興味が湧く。

笹沢の作品についての分析では、池波正太郎の時代小説との比較が面白い。池波の『鬼平犯科帳』や『剣客商売』などのシリーズも、『紋次郎』と同様、テレビドラマとともに人気を集めた。だが、『紋次郎』シリーズの単行本や文庫は、池波の本ほどには売れていない。その理由を、著者はいくつかあげていく。たとえば、池波が、脇役も含め人物を細かく描写することで味わいを出そうとしたのに対し、笹沢はドンデン返しに重点を置くがあまり、主人公の紋次郎以外の人物造形には無頓着であったこと。ここで著者は、『紋次郎』シリーズ第1作「赦免花は散った」を例にあげ、紋次郎の行動に裏づけを与えるためにも、脇役についてもうひとつぐらいエピソードを用意するべきではなかったかなどと、編集者ならではの指摘をしている。ただし一方で、同作では手練れの筆が勢いづいており、《この勢いのまま、発表当時は不自然なストーリーもキャラも納得させてしまったのだろう》とも書く。池波のように味わいを醸し出すのもプロの仕事なら、笹沢のように手練れの技で読者を納得させてしまうのもまた、プロの仕事ということか。

笹沢も川上も酒と女に耽溺しつつも、作品ごとに手を変え品を変え、その時点で最高の技を見せる努力を怠らなかった。ときにはスキャンダルに巻きこまれたり、また流行作家ゆえに文壇の大御所たちから軽視され、芥川賞や直木賞といった栄誉ともついに無縁であった。しかし彼らはそういったもろもろまでモチベーションに変え、したたかに生き抜いた。本書には、その陽の部分も陰の部分も余すところなく記されている。あまりの濃さにあてられてしまうかもしれないが、この濃密さこそ、かつて存在した流行作家の人生そのものであることが十分実感できるはずだ。(近藤正高)