4月18日グラスゴーで中村俊輔に会った。ちょうど15日のスコットランドリーグカップ戦決勝で延長戦の末に宿敵レンジャースを破った直後だった。

 05−06シーズンにセルティックへ移籍。そのシーズンでリーグ優勝を勝つと、翌06-07シーズンでは6月のワールドカップドイツ大会での悔しさを晴らすかのように、秋から始まったUEFAチャンピオンズリーグで大活躍をおさめた。クラブ史上初のチャンピオンズリーグベスト16進出を決めるホームでのマンチェスター・ユナイテッド戦では、アウエイでの同カード同様にフリーキックを直接ゴールへ納め、その得点をチーム一丸となって守り切った。初めての決勝トーナメントではACミランと試合は延長戦にまでもつれ込んだが、結果敗退した。それでもシーズン2連覇に貢献し、数々の団体からMVPを送られた。

 短い休暇ではベトナムでのアジアカップに出場。オシムジャパンに合流して間もなかったこともあり、自身のプレー以上にチームのサッカーやチームメイトのプレースタイルを理解することに心をくだした。と、同時に「“走るサッカー”と言われるオシムのサッカーの中で中村は通用しない」という世間の声を払拭したいと願った。試合中に走った距離ではセルティック随一の数字を誇る中村だったが、そのことを代表でプレーすることで証明したかった。

 守備の弱さというのも中村に貼られたレッテルだ。イタリア時代強豪相手の試合ではベンチスタートという屈辱は彼の意識を変える。「そんな風に思わさないプレーをしなければ」と抱いた危機感は今も変わらない。

 常々「監督を驚かせたい」と考える中村。監督が与える試練を不満ではなく、危機感に変える。それを乗り越えた先には進化した、新しい自分の武器、引き出しが生まれると信じ、努力を厭わない。

 家族ができた現在では、独身時代とは同じというわけにはいかないが、それでも生活、かけられる時間のすべてをサッカーに捧げたいと考える、サッカーのフィードバックできるものはないかと目や耳を研ぎ澄ます。そして得た情報を自分のために消化し、進化の種へと変える。

 そんな彼の姿勢が数々の結果を生み出した。

 07-08シーズンもチャンピオンズリーグにベスト16進出を果たし、リーグでも逆転優勝で3連覇を飾った。そして今08-09シーズンでもリーグカップ戦を制した。リーグ優勝の可能性も高い。4連覇となれば、中村のセルティックでの偉業に新たなトロフィが加わるだろう。

 そんな中村へはセルティックも契約延長のオファーを出している。

 中村が代表デビューして10年が経った。ひとつ上には中田英寿がいた。そしてひとつ下には幼いころから天才と呼ばれたゴールデンエイジの小野伸二がいた。

 トルシエ・ジャパン時代はヒデの代役が中村に与えられたポジションだった。そこで結果を残しても、ワールドカップのメンバーに残れなかった。しかし彼は次のステップへと目を向ける。海外での挑戦だ。

 2000年3月フランス代表とのアウエイ戦。当時世界王者に君臨していたフランスは、悪天候の中であっても、芝の重さを句にもせず、精密機械のように正確なパスを繰り出し、大量得点で日本を沈めた。

「あのフランス戦がすべてだった。もう、Jリーグでプレーしていたくはない。外に出ないと置いて行かれる」

 彼の中でもっとも危機感のレベルが高まった一瞬だった。

「トルシエの起用方法に疑問を感じることもあった。でも『どんなポジションであっても試合に先発することが大事だ』と当時F・マリノスのアルディレス監督に言われた。フランス戦、アルディレス監督の言葉の意味を深く理解した」

 ひと世代下のゴールデンエイジたちも中村に続くように欧州へと旅立った。しかし、ワールドカップドイツ大会の先発メンバーには、その世代の選手の数はわずかしかなかった。そして、新しい代表が始まると、さらに激減している。