中村俊輔は生き残った。それは、彼が常に危機感を求めて生きているからだろう。

 昨今のサッカースタイルの変化は速い。司令塔としてゲームメークに専念する選手のポジションは今は皆無だと言ってもいい。中田は心のどこかで最後まで司令塔でのプレーにこだわっていたように思う。だからこそ、司令塔不在が明確ではあったが、欧州最高峰リーグである、イングランドプレミアリーグへの挑戦したものの、レギュラーの座に定着することはなかった。

 もちろん4−4−2というシステムで戦うセルティックにも、日本で司令塔、真ん中と言われるポジションはない。そういうチーム状況を知ると、その中で何が自分を生かせるかと考えた。イタリア時代から、カウンターで頭の上を超えるボールを見ながら、考えていた。「この中で、何をすれば自分は試合に出られるのか?」という問いの答えが、自身のやりたいサッカーでなかったとしても、平然と環境の変化を受け入れてきた。

 サッカーは監督のものだと言われることがある。

 どんな名選手であっても監督の意図するサッカーでフィットしなければ、監督にとっては“起用するに当たらない”。自身のプレースタイルを新しい監督のもとで活かせず、選手生命まで脅かす結果に陥る選手も存在する。下位に苦しんだイタリア時代は何人も監督が変わった。そういう中であっても、「常に試合に出られるために何をすべきか?」と中村は考え続けてきた。

 ここにも危機感とそれを打開するための工夫があり、そして進化がある。中村のサッカー人生はこの繰り返しだったに違いない。

 代表で若い選手に接すると、「できるだけ早く海外でプレーしたほうがいい」と言葉をかけるという中村。Jリーグでは感じられない種類のあらゆる危機感を感じ、壁や課題を見つけられるのだから。自身が渡欧した年齢よりも若くして、ヨーロッパを経験すれば、選手の成長の加速も早まるだろうと期待してこの言葉だ。それが、未来の日本サッカー強化の源泉になることを信じて。しかし、中村がフランス戦で体感した焦燥感、「このままJでやっていてもおいていかれる」という危機感を抱くに至る若手は今のことろ、その数は少ないようだ。

 0−0で終わったとはいえ、オーストラリア戦では、何度も相手のゴールに迫る形が作れた。そのイメージを持ち、グラスゴーへ戻った中村は、バーレーン戦に向けて、あらゆるシュミレーションを行っていた。もちろんその多くが、もっと代表を強くするためのものだった。前線へ顔出すこと、決定的なパスの供給をするための周囲との太いパイク作りなど……。

 しかし、3月28日、自身のゴールが決勝ゴールとなり、ホームで初めての勝ち点3を手にしたいうのに、中村の表情は冴えなかった。

 さすがに得点シーンについては「あの弾道は狙ってはいたけれど、相手の壁に入ったしね」とホッとしたような弱い安堵感を浮かべたが、試合内容については、あまり語りたいという風には見えなかった。きっと、語り始めれば、勝利に水を差すようなことを言ってしまうかもしれないという危惧もあったのかもしれない。

 それでもいくつか彼らしい言葉があった。

「内田のシュートがどうのこうのじゃなくて……もちろん、あそこで決めてほしいというのはあるけれど、たとえば、誰かがファーに走り込んでいれば、シュートが決まらなくても、次の展開がある。内田もシュートを選択せずに、ファーへパスを出す選択が生まれたかもしれないし」

「長友の(サイドで)相手とせって、今はマイボールにできているけれど、今はサイドハーフに長身の選手を置くチームもあるからね。もし競り負けたとき、闘莉王のところに流れたときに、どれだけの選手がカバーリングできるのか」

 未来を想定し、危機感を抱き、そのための準備をしたい……そんな思いが感じられた。

 オシムジャパンの方向性、指揮官の考えるサッカーは、中村がドイツ大会、そして欧州での経験(特にセルティックで戦うチャンピオンズリーグ)で、感じていた日本が世界と戦うために必要なサッカーと類似点は多かった。現岡田ジャパンの方向性もオシム時代とはそれほど大きな変化はないはずだ。しかし、岡田ジャパンがスタートしてからの日々を思い返すと、“順調に”進化していると、中村は感じられていないのかもしれない。

 チーム発足から約1年がたったこと。そしてワールドカップまであと1年あまりにしかないことについて問うた。

「個人的にもそうだけど、もっと詰めていかないといけないところがあると思う。見ないでもパス回しできるくらいの形。ジーコの時みたいに親善試合でアルゼンチンとやったり、ドイツとやったり、ということがないから。早く決めて、いい試合を組めるようになるといい」

 手の痛みもあり、弱い口調だったが、中村が抱えている危機感の大きさが十分に伝わってきた。

 試合レポートでも書いたが、岡田ジャパンに世界のトップクラスの怖さを体感している選手は少ない。オリンピックは所詮年齢制限のある大会で、A代表のそれとは違う。チームとして、もっともそれに近い体験をしたのは、昨年夏のウルグアイ戦くらいか。

「それじゃあ、世界とは戦えない」と口で言うことは簡単だ。しかし、言葉はしょせん言葉でしかない。多くの人間は実際にその災難に遭遇して初めて、周囲の忠告の意味を理解する場合が多い。目にした先輩の姿に影響を受けて、自らが変革する選手も数も減って来たように思う。

 アウェイ、世界王者、悪天候、大量失点。あのサンドニの悲劇を味わったとき、日本代表は変われるきっかけをつかめるのかもしれない。

 もしかしたら。心のどこかで、中村はそう考えいるのかもしれない。あのときの自分のような危機感を多くの選手に抱いてほしいと。そのことが、岡田ジャパンの変化のきっかけになるのではないか?

 7月31日、中村とセルティックとの契約は満了する予定だ。

 帰国し、Jリーグでプレーするなら、ホームタウンでもある横浜F・マリノスでと中村は考えてる。しかし、契約仕事はそんな単純なものではない。サッカーをプレーする以外にも彼の周囲はここ数カ月騒がしいものとなるだろう。
けれど、彼の気持ちは変わらない。あと数年かもしれない現役時代のなかで、進化を続けるために必要な環境を彼は選ぶだろう。

文/寺野典子