「僕なんかが親になっていいことはない」そう思っていたが…娘の誕生に“号泣”

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 65歳は「前期高齢者」である。国から高齢者のお墨付きをもらったわけだ。同世代の訃報も徐々に増えていく。なにやら体の中を風が吹くような気分にさせられる。

「確かにそうですよね。それと同時に、やけに自分の過去が気になってしかたがない。後悔とは違うんですよ。後悔してもどうにもならないことはわかっている。だけど、どこかで落とし前のついていない件は、今つけておかないと死ぬときつらくなるだろうと予想がつく。僕には、定年退職したら落とし前をつけたい一件があったんです」

 杉野宏忠さん(66歳・仮名=以下同)は落ち着いた口調でそう言った。一般的に言って、今の60代後半は見た目が若い。筆者が子どものころ、60代は完全に「お年寄り」だった。ほぼ白髪で背中が曲がり、歩くのに難儀している人たちもいた。今はめったにそういう人にお目にかからない。宏忠さんも、こめかみの白髪がむしろダンディな印象だし、ジムに通っているそうでお腹も出ていない。座っていても背筋はピンと伸びている。

「僕なんかが親になっていいことはない」そう思っていたが…娘の誕生に“号泣”

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60歳のときに再婚

 宏忠さんは60歳のときに再婚した10歳年下の妻である美陽子さんとふたり暮らし。妻も再婚で、当時23歳になる息子がいたが海外で暮らしており、それ以降も年に1度ほどしか帰国しない。

「妻とは部署は違うけど同じ会社に勤めていました。うちの会社は65歳が定年だから、60歳になっても何も変わらないんですが、同じ部署の同僚たちがお祝いの会を開いてくれた。そこに美陽子もやってきたんです。一時期、同じ部署で仕事をしたこともあったので、そういう会があるならぜひ参加したいと彼女から言ってくれたそうです。実は僕も美陽子のことは憎からず思っていたから、ついはしゃいでしまいました」

 あまりにうれしかった宏忠さんは、その会の支払いを全部自分でしてしまい、幹事や参加者から叱られたという。でも、みんなの気持ちが本当にありがたかった、こんな自分のために時間を割いてくれるだけでうれしくてと語るのを聞いても、彼の人のよさがわかる。

 美陽子さんとはそのときのことが縁で交際するようになり、周りの応援もあって半年後には結婚となった。

定年後も働いて

 それから5年、つつがなく仕事を続け、1年数ヶ月前に無事、定年を迎えた。だが、そのまま引っ込むのは不本意だったし、周りもそれを許さなかった。その後、3ヶ月間の猶予を得てから、週4回のペースでグループ会社に勤務、せっかく仕事をしているのだから何か世のため人のためにと、自分ができることを最大限、続けている。

「グループ会社には、参与みたいな肩書きで入ったんですが、曖昧でしょ。ただの名誉職みたいな感じもある。でも僕はそれでは嫌だと言ったんです。別に大きな権限はいらないけど、ちゃんと僕の意見をフィードバックしてくれる機能はほしいと。社員たちから意見を聞き取り、社内制度を社員に有利なように変えることに成功しました。給料をはじめ、社則など、働いている人にメリットのない会社は滅びると思う。自分が現役でなくなったから、むしろ言いたいことが言えるようになりましたね」

 若かりしころは組合にいたこともあるというから、ただの「いい人」ではなく、筋の通った人なのだ。

 ところで、彼の言う「落とし前のついていない件」とは何なのだろう。

最初の結婚は40歳のとき…友人の妹と

「定年を迎えたとき、1ヶ月間の休暇をもらうつもりだったんです。ところが定年直後に心筋梗塞で倒れてしまった。2週間の入院を経て、僕自身は元気になったつもりだったけど、無理をしてはいけないと医師からも言われて、結局、3ヶ月ほど休みました。本当は定年退職したらすぐ、別れた娘に会いにいこうと思っていたんです。定年後、真っ先にそうしたかった。僕にとって、それだけがどうしても人生の心残りだったから」

 宏忠さんの最初の結婚は40歳のときだった。それまで自由を謳歌して生きてきたのだが、37歳のとき中学生時代からの親友が突然亡くなり、急に死が身近になった。翌年には元気だった父も60代で病死、駆けつけたときにはすでに遅かった。久しぶりに会った母はすっかり小さくなったように見えた。自分にも老いは確実にやってくる。そう思ったとき、ひとりでもいいやという気持ちが「嘘っぱち」に思えた。人はやはりパートナーが必要なのだと180度考えを変えた。いや、自然とそう変わったのだろう。

「そんなときたまたま高校時代の同窓会があって田舎に戻ってみたら、仲のよかった友人の妹もやってきていた。僕はよく彼の妹をからかって遊んでいたんですよ。麻里という名前だった。友人はきょうだいが多くて、彼女は10歳離れた末っ子。当時、あんなに小さかった子が大人になっていて妙にまぶしかった」

 麻里さんも宏忠さんのことを覚えていた。リップサービスなのか、「あなたが初恋の人だったんだけどな」と笑った顔がかわいかった。麻里さんも東京で仕事をしていることがわかり、今度、ランチでもと言って別れた。その1週間後、ふたりはランチではなくディナーを一緒にとっていた。

「あの頃、本当に子どもだった彼女が大人として目の前にいるのがおもしろかった。同郷ということもあって気が置けない。デートという感覚がないままに数回、一緒に食事に行ったり飲みに行ったりしていたんです。そうしたらあるとき麻里が、『私を女として見ることはできない?』と。ドキッとしました」

理想的な結婚生活…のはずが

 結婚するつもりはないと言いかけたのだが、彼の頭の中に、麻里さんと食卓を囲んでいる光景がすんなり浮かんできた。あまりに自然な光景だった。子どものころを同じ土地で過ごしたということは、人としての基本が近いに違いないと思った。

「それで気持ちが一気に結婚に傾いたんです。当時、彼女は30歳。バリバリ働いていて、子どもはいらないと言っていた。僕はどちらでもいいと思っていました。結婚生活は刺激的だったし楽しかった。彼女の好きな音楽を僕も好きになり、僕の好きな映画を一緒に観て。大人同士だったけど、気楽な若者みたいな生活でしたね。金曜の夜はふたりでクラブに行ったりもしたし、朝まで映画を観て過ごしたりもした」

 宏忠さんは、それまでも恋愛はしてきたが、あまり長続きはしなかった。結婚を求めているわけではなかったから、長くつきあうと相手に悪いような気になっていたのだという。だから朝まで寝転びながら映画を観たり、途中で愛し合ったり、また起きて映画を観たりという「だらだらしながらひたすら一緒に過ごす」ような関係をもったことがなかった。平日は必死で仕事をし、週末は妻とだらだら過ごす。その居心地のよさが「たまらなかった」という。

「ところが結婚して5年目、麻里が突然、子どもができたと言ったんです。避妊は彼女に任せていたのですが、避妊薬を飲むのをやめてみたら『できちゃった』と。それはそれでめでたいことだ、いいじゃないかと口では言ったけど、本当は怖かった。僕なんかが親になっていいことはないだろうと。親になる器じゃないと思い込んでいたんですよ」

親になることを拒否したが…わが子が生まれて「号泣」

 それでも妻のお腹が少しずつ大きくなってくると、「命」を実感するようになった。お腹の中のあかちゃんが動いたとき、彼は知らず知らず涙ぐんでいた。

「僕は親に不満をもって育ったわけでもないし虐待されたわけでもない。なのになぜか自分が親になることを拒否していたんです。でも妻のお腹に手を当てて、命が息づいているとわかったときは、理屈抜きでうれしかった。こんな喜びがこの世にあるのかと思ったくらいでした」

 そして産まれたのが3700グラムの大きな女の子だった。妻の手を握りながら、宏忠さんは号泣したという。妻が神々しく見えたのに、その7年後、宏忠さんは離婚する。いったい何があったのだろうか。

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 娘の誕生を妻とともに喜んだ宏忠さんは、なぜ家族と離れることになったのか。記事後編では、夫婦を引き裂いた疑惑と、後年、元妻が病室で明かした離婚の真相を紹介している。

亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。

デイリー新潮編集部