「涙を流したまま語り始めたが、突然、意識を失って倒れた」日本軍に強制連行された中国人(当時15歳)が、戦後語っていた“怒り”
〈「通過する村はすべて焼き払え」「女・子供を含めて皆殺し」日本兵が中国人を次々と虐殺…日本軍が中国で行った“蛮行の数々”〉から続く
日中戦争で、日本に強制連行された中国人は過酷な労働と虐待により多くの命が失われた。戦後、かつての加害兵士たちは、自らの罪にどう向き合い、どのような実態を明かしたのか?
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戦時中の生々しい実態を取材したノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『昭和陸軍の研究 上』(朝日文庫)より、一部を抜粋。強制連行のゆくえを追う元中隊長の小島隆男や、延安で八路軍の反戦兵士として活動した元日本軍兵士・香川孝志の証言を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)

写真はイメージ ©アフロ
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「過去の私の醜い姿が脳裏に蘇って来ます」中国人女性に送った調査報告の手紙
小島は、自らが徴用した中国人がどのような運命をたどったかが気になって、その種の資料を調べ回った。日本に強制連行された者4万1762人、死者は6872人であった。別の資料には、乗船後船内で584人が死亡し、さらに日本の事業所に到着するまでに230人が死亡、8人が不明とあった。
外務省アジア局中国課には、この関係の資料が保管されていると聞き、所定の手続きで申し込んだ。本人の直接の申請でなければ、受けつけられないとして、調査依頼は拒否されてしまった。そこでこの中国人女性に直接申し込みの書類を作成してもらうことにした。その一方で、小島は余生をかけ、わずかな手づるで調査をすすめることにした。
小島はこのような不満足な回答を平成3年4月初めに中国人女性に送った。その手紙のコピーを小島は私にみせた。便箋14枚に心情が綴ってあり、「自然の美しい静かな環境におりますと、それが美しければ美しいほど、過去の私の醜い姿と被害者の方々の重い苦しみと深い悲しみが脳裏に蘇って来ます。思いつめてくると、自然に涙がでます」という一節が末尾にあった。
「殺された人たちの恨みは決して消えない。四十数年たっても、人間の悲しみは消えないんです。私は何とお詫びしていいのか……」
小島は老いた身体をソファに埋めて黙したままだった。この年の7月6日の集会では、この気持ちを参加者に訴えなければ、と低い声で漏らした。
花岡鉱山では連行された6割が死亡…当時15歳の子どもも
私は「中国人強制連行を考える会」(連絡先=東京・江戸川区)が発行しているあるパンフレットを手にして、息をのむばかりだった。花岡事件(昭和20年6月、秋田・花岡鉱山で強制連行された中国人986人のうち480人が虐待に耐えかね、決起し、逆に惨殺された事件)に対する日本側の責任を問いつめているパンフレットであった。
この鉱山に連行された986人の中国人の年齢は15歳から67歳までに及んでいる。実に41歳以上が307人(30パーセント)を占めている。そして、そのうち62パーセントが死亡している。まさに山東省の農民たちを畑から日本に、そのまま手あたりしだいに連れてきて虐待したことがわかる。
1990年の夏、中国の河北大学の教授・学生たちが河北省で強制連行の実態を調べた文書がある。その資料によると、日本へ強制連行され、この当時、中国で暮らしていた老人たちは、聞きとり調査ではいちように涙を流し、記憶を語るたびに激高したという。
当時15歳で連行された王子は、不意に訪れた学生たちに涙を流したまま語り始めたが、突然、意識を失って倒れた。語るうちに怒りが高まり、脳血栓を起こしてしまったというのである。
周恩来が香川たちに手渡した“お土産”
戦争末期、香川は八路軍の総政治部に身を置いていた。
延安には、八路軍の日本人捕虜の扱い方を学ぶために、アメリカ陸軍のオブザーバー・グループがやってきた。1944年7月のことである。アメリカ軍としても、徐々に増えていく日本人捕虜に対してどのような対応をすればいいか悩んでいた。
このグループのなかには、のちに日本公使になるエマーソンもいたし、日本軍への「伝単」(戦場での相手国への宣伝ビラ)を作成する日系二世もいた。香川はこういうグループとも交わっていた。
1945年8月半ば、日本がポツダム宣言を受諾するという報告が入った。延安は沸きに沸いたという。
香川は野坂参三らとともに、他の反戦兵士より一足先に延安を離れて、新京(現・長春)に向かった。その折に、周恩来が別れの挨拶を送った。
「中国はまだ遅れている。日本はたしかにすすんでいる。しかし、われわれの国はわれわれの健在なときに社会主義になるだろう。情勢はいい方向に向かっている。私は、あなたたちに何もお土産を与えることはできない。せめて、これをお土産としてほしい」
そういって、周恩来は小さな金の延べ棒を香川たちに手渡した。
大仰で偽りに満ちていた「戦闘詳報」
アメリカ軍の飛行機に便乗してひとまず張家口に向かったが、香川は何度も機上から延安を見つめた。華北の山々が、大きな岩山が、眼下に広がっていた。
そういえば、反戦兵士の活動に手をやいた日本軍は、20数機の爆撃機で延安を爆撃したことがあった。1943年(昭和18年)に入ってまもなくのころだった。日本のパイロットは、人の住んでいない延安市内に爆撃を浴びせた。被害はロバが一頭、死んだだけだった。
そのロバが、食肉として反戦兵士たちのテーブルにのった。爆薬を除いた爆弾はすぐに印刷工場のローラーとして利用された。日本の新聞は、延安に徹底して爆撃を加え、壊滅したと報じていた。香川は、その報道に苦笑いするだけだった。
第四中隊の中隊事務を担当しているときに、討伐作戦や八路軍の攻撃を受けての戦闘のたびに、「日本兵一人ひとりはどのように戦ったか」「弾丸をどう使ったか」「八路軍の攻撃をどう撃退したか」とする報告書(戦闘詳報)をしばしばつくらされた。
中隊長の命令によって、その功績を「殊勲甲」「殊勲乙」「勲功甲」「勲功乙」といった具合に分けていく。それぞれのランクに一定の比率があり、兵士の動きを勤務評定していくのであった。
この報告書は、つねに大仰で偽りに満ちていた。敵の攻撃がないにもかかわらず、あったかのように書き、敵兵をいかに殺害したかを誇大に報告する。それゆえに延安を攻撃したパイロットたちは、たぶん英雄になっているだろうと香川は推測した。
「侵略戦争はすべきでない」反戦兵士の一員であることへの誇り
機上から自分を育てた延安の町がみえなくなったとき、香川は、日本陸軍は負けるべくして負けた、という実感を強く味わっていた。
中国侵略の罪深さに気づき、一刻も早く戦争をやめさせるためにと戦った反戦兵士の一員であることに改めて誇りを感じた。日本はもう、こういう侵略戦争はすべきでない。そのために日本に帰っても、この志を守りつづけようとなんども身を引きしめた。
日中戦争に従軍した兵士のなかに、不戦兵士でないにもかかわらず昭和陸軍の退廃的な部分を告発する兵士が多いのは、この戦争があまりに汚れていたからと結論づけられるだろう。
(保阪 正康/Webオリジナル(外部転載))
