岸惠子さん死去 波乱の人生 仏映画監督と結婚「空飛ぶマダム」も離婚、萩原健一さんとの仲が噂にも
「君の名は」「おとうと」「細雪」をはじめ日本映画史に残る名作の数々や日仏合作「忘れえぬ慕情」や「ザ・ヤクザ」など国際派女優としても活躍し、文筆家としても知られた岸惠子(きし・けいこ)さんが7日、老衰のため横浜市の自宅で死去した。93歳。横浜市出身。葬儀は近親者で行った。喪主は長女麻衣子(まいこ)さん。世界をまたにかけ、最晩年まで執筆活動やトークショーを精力的に続けた大女優だった。
2022年8月11日に卒寿を迎えた岸さんは誕生日翌日に横浜で、同30日には東京・新宿で「いまを生きる」と題したトークショーを開催するなど元気に活動。ファンを前に「100歳までは生きたくない。今書きたいと思っている2冊の著書を書いたら、さっさと逝きたい」とジョークに包んで語っていた。
終戦の年の1945年4月に神奈川県立横浜第一高等女学校(のちの横浜平沼高校)に入学。翌5月の横浜大空襲や戦後の混乱期を慌ただしく過ごしたが、そんな中でも小牧バレエ団に通ったり、映画「暖流」の高峰三枝子に憧れて、映画館通いをするなど充実した高校生活を送った。
同級生で仲良しの田中敦子(のちの女優・小園蓉子)の叔父が松竹大船撮影所長(当時)の高村潔氏の友人だったことから、2人で撮影所に通うようになった。そのうち「暖流」の吉村公三郎監督からスカウトを受け、49年10月公開の「真昼の円舞曲」にワンカットだけ出演した。
翌50年にニューフェースとして大船撮影所に入り、51年2月、中村登監督の「我が家は楽し」で本格デビュー。翌3月1日付で専属女優として正式に松竹に入社した。同年、大曽根辰夫監督の「獣の宿」で売り出し中の鶴田浩二の相手役に起用されたほか、宮城千賀子主演の「母恋草」、水谷八重子主演の「母待草」などに続けて出演。松竹のホープとして重用された。
52年にも「坊ちゃん重役」で鶴田と佐田啓二の相手役を務め、この年の「平凡」読者人気投票でも第5位にランクインした。同年、看板スターだった鶴田が独立して新生プロを設立。その第1作として準備に入ったのがマキノ正博監督の「弥太郎笠」(新東宝配給)で、鶴田が相手役として岸にオファー。これを松竹が拒否したため、岸が辞表を提出。結局、松竹が折れて出演が実現するという経緯があった。続く「ハワイの夜」でも鶴田と共演し、2人の仲が芸能マスコミで取り上げられることになった。
彼女を一躍スターダムに押し上げたのが53年から54年にかけて製作された「君の名は」3部作だった。52年4月から放送された菊田一夫・作のNHK連続ラジオドラマの映画化で、大庭秀雄監督によるメロドラマ。東京大空襲の夜、数寄屋橋の上で命を助け合った男女が、半年後の再会を約束して別れるが…。放送時間になると、銭湯の女湯から客が言えたと言われたほどの人気作だった。
ヒロイン氏家真知子を岸が演じ、相手役の後宮春樹は佐田啓二。岸がアドリブで巻いたストールは「真知子巻き」と呼ばれて、マネをする女性が続出。この頃、誕生した子供に「真知子」「春樹」と命名する親も多く、まさしく社会現象となった。
さらなる飛躍を期して54年には有馬稲子(92)、久我美子さんとともに「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。岸自身は今井正監督の「ここに泉あり」や野村芳太郎監督の「亡命記」、中村登監督の「修禅寺物語」などに出演。55年5月、「亡命記」がシンガポールで開催された第2回東南アジア映画祭に出品され、彼女も参加。最優秀女優賞に輝いたばかりでなく、日本訪問の前に訪れていた英国の監督デビッド・リーン監督との出会いも生んだ。「逢びき」や「旅情」などで知られる巨匠だ。
6月3日に来日したリーン監督の目的は新作「風は知らない」のヒロイン探しだったが、シンガポールで見かけた岸を気に入り、松竹とにんじんくらぶの了承も取り付けて6月30日に発表した。反戦亡命者として英国軍の対日放送のアナウンサーを務める日本人女性が役どころだった。
彼女にとっても大きなチャンスだったが、製作延期が続き、スケジュール調整が困難になった。そんな時、今度はフランスの映画監督イヴ・シャンピ監督から「忘れえぬ慕情」へのオファーが入り、シャンピ監督はリーン監督の了承も得て、56年1月に正式発表した。
同作品は長崎に赴任したフランス人の造船技師と、両親亡き後、弟や妹の面倒を見ながら呉服店の日本娘とのラブロマンスだった。この仕事がきっかけで、岸さんは映画監督で医師でもあった11歳年上のシャンピ氏と結婚。25歳の時だった。57年5月4日、パリ郊外での挙式には「雪国」などで親交があった作家の川端康成が立会人として出席した。
結婚後は日本とフランスを行ったり来たりの生活を続けながら女優業を続け、「空飛ぶマダム」の異名を取った。63年には一人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピにも恵まれ、幸せな日々を送った。市川崑監督の「黒い十人の女」(61年)や小林正樹監督の「怪談」(64年)など撮影が入る度に帰国していたが、67年からはフランスに腰を落ち着けた。サルトルやジャン・コクトーらとの親交が出来たのもこの時代だ。
子育てをしながら、オファーがあると帰国。萩原健一さんと共演した斎藤耕一監督の「約束」(監督斎藤耕一、72年)や、12代目マドンナを務めた「男はつらいよ・私の寅さん」(監督山田洋次、73年)などで銀幕を飾った。
仕事の度に帰国すること19回に及び、これに不満を持ったとされるシャンピ監督と75年に離婚。娘の親権は岸が持った。この年、「雨のアムステルダム」で再び萩原さんと共演。2人の仲が噂に上ったこともあった。
その後もパリの高級住宅街として有名なサン・ルイ島にある築400年の家に暮らしながら、仕事の度に帰国する生活が続いた。「悪魔の手毬唄」(77年)、「女王蜂」(78年)、「細雪」(83年)、「天河伝説殺人事件」(91年)、「かあちゃん」(01年)など市川崑監督の作品に多く出演している。
2000年にフランスを離れて日本に戻り、横浜の実家で独り暮らしを始めた。13年3月、自らの恋愛体験をモチーフにした熟年男女の恋愛を描いた小説「わりなき恋」を発表。翌年には同作を原作とした同タイトルの独り舞台に主演して話題を呼んだ。その後も、吉永小百合(79)との対談集「歩いて行く二人」(14年)、小説「愛のかたち」(17年)、エッセー「孤独という道づれ」(19年)、「岸惠子自伝 卵を割らなければ、オムレツは食べられない」(21年)、「91歳5か月 いま思うあの人 あのこと」(24年)など文筆業に勤しんだ。

