遺影に使われたポートレート

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【秘蔵写真】美しすぎる…パリ社交界でも評判だった「バロン薩摩の美人妻」 若かりし薩摩氏も精悍な顔立ちの美丈夫

大富豪の御曹司として生まれ

 祖父は「木綿王」と呼ばれた「薩摩治兵衛商店」の創業者・薩摩治兵衛、父はその2代目、母は紡績会社会長の長女。1901年4月、薩摩治郎八(さつまじろはち)は大富豪の御曹司として生まれた。1920年に英国留学で日本を離れ、1922年からはフランスで生活。豪勢なアパルトマン、芸術家たちとの交流、仏勲章の受章といった華麗で豪華なパリの日々は、恐慌のあおりを受けた家業の閉店で終焉に向かった――。

 1976年2月22日、「バロン薩摩」とも呼ばれた伝説的日本人はなぜ徳島県で生涯を閉じたのか。没後50年にあたりその生涯を振り返る。

遺影に使われたポートレート

(以下、「週刊新潮」1976年3月11日号「墓碑銘」を再編集しました。文中の年齢等は掲載当時のものです)

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昔の思い出は余り話さない人

 棺の中には、エルメスのネクタイと香水、サンローランのクツ下、フランスたばこのゴロワーズ……。

 薩摩治郎八(74)――木綿王といわれた祖父以来の財産のことごとくを、日仏親善に、そして美女とシャンパンとにつぎ込んだケタ外れの男が、1976年2月22日、徳島市で死んだ。建売住宅の薩摩家に、在日フランス大使館やパリの日本大使館からの弔電が相次いだ。

 妻の利子さんは、東京の「浅草座」で踊っていた昭和31(1956)年に、薩摩さんと知り合って再婚した人だから、戦前、パリの社交界で“バロン”とうたわれたころの彼を知らない。昭和34(1959)年に、彼女の郷里・徳島へ阿波踊りを見にきて脳溢血で倒れた治郎八さんを看病し、洋裁で生計を立ててきた。

「昔の思い出は、余り話さない人でした。ラブ・アフェアのことなどもいわなかった。しかし、ボードレールの詩(『悪の華』)の一節の“千年も古(ふ)りし我かと疑わる、多くも持てる思い出のため”というのが好きでした。自分の一生がそうだ、というのでしょう」

18歳でロンドンへ

 昭和26(1951)年、フランスから帰国して書いた自叙伝『半生の夢』(「新潮」1951年9月号)によると、彼は、少年のころから「この世界は、あらゆる冒険と英雄的行為に満ちた楽土」と信じていた。

 一代で産を成した祖父は、日本で最初の避雷針つきの西洋館の披露宴に、在留外国人を招いてワルツを踊った。二代目の父親は、家業よりも学問、芸術を愛して外国文化にあこがれた。

「(兄の留学の留守中に)外国旅行を果せなかった父親が、息子に夢を託したところがあったのかもしれません」(実妹の増子さん)

 18歳でロンドンに渡った彼は、ギリシア文学とロシア舞踊の研究に没頭し、薩摩家の定紋入りの制帽をかぶらせた英国人の運転で、ダイムラーを乗り回した。フランスでは、美人歌手をめぐって、さる侯爵とピストルで決闘したこともある。

 パリの社交界を驚倒させるほどの金の使いっぷりは、二度目の渡仏以降のことだ。大正15(1926)年に、山田英夫伯爵の娘・千代子さんを娶ったあと、再渡欧した治郎八さんは、パリに豪奢なアパルトマンを構え、夏冬は一流ホテルで過ごした。美人のホマレの高かった千代子夫人には、純銀製の車体を淡い紫色で塗った自動車を買い与えている。

資材を投じてパリの「日本会館」を建設

 昭和4(1929)年5月10日は、彼の生涯の“輝ける日”だった。パリの“大学都市”に、日本人留学生のための日本館を、私財を投じて建設した、その開館式の日である。

 当時のドメルグ大統領をはじめとする日仏1000人の貴顕を前に、彼は一世一代の演説をぶち、レジオン・ドヌール勲章(オフィシェ)を受章した。その建設費がいくらだったのか、彼は聞かれても答えたことはなかったが、『半生の夢』のなかでは「現在(昭和26年)の金で約2億円」。

 レジオン・ドヌールの赤い略綬が胸を飾ることになったが、この会館の建設費も彼がかせぎ出したわけではない。どうやら、パリで治郎八さんが盛名を馳せれば馳せるほど、実家の財産はやせ細った様子だ。

 昭和13(1938)年、帰国していた彼は、翌年、第二次欧州大戦の火蓋が切られると、次々と引き揚げてくる在留邦人と入れかわるように、「第二の故郷」フランスへ「帰国」した。血の気の多い彼は、戦時中、レジスタンスまがいの活躍もしたらしい。

 そして、戦後―――。結婚生活5年後に胸を患い、療養生活を送っていた千代子夫人が、昭和24(1949)年に故国で息を引き取ったとき、薩摩さんは所在不明だったという。それが、昭和26(1951)年、突然、帰ってきた。

「ここで倒れたのは幸せだ」

 元駐仏大使・萩原徹氏(外務省顧問)によると――、

「戦後、私がパリ在外事務所長だった時代(昭和25〜27年)に、日本館の館長になりたいというお話がありました。パリにとどまりたいお気持もあったようでしたが、当時は、日仏の国交も回復していないし、英国人が館長でした。そのために、日本人に管理権を返す話もうまくいかなかったのです。そのころ、一緒に暮していたフランス人の看護婦とも別れられたようでしたし、そんなことで日本に帰られたと思います」。

 その萩原さんが、彼を評して、「31、2歳までに、生涯にすべきことを全部なさった方ということでしょうか」といった。

 薩摩さんの徳島での暮しは、趣味的な随筆を書くほかには、ヴェルレーヌなどと名づけたネコたちを可愛がり、テレビを見たり、ラジオを聞いたり……。利子夫人は、そんな夫のことを、

「徳島の風土が好きな人でしたね。『ここで倒れたのは幸せだ。みんな親切で、空も明るいし、星も見える。まるでこの世の楽園だ』といっていました」

 献身の妻への感謝が、そんな表現になったのだろう。

デイリー新潮編集部