70年代「約3億円詐欺」、90年代「銀行支店長射殺」…戦後日本を犯罪で渡り歩いた男の裏街道人生
「週刊新潮」がその男を最初に報じたのは、1979年のことだった。当時の日本で次々と暴かれた大学の不正入試・裏口入学疑惑に絡み、渦中の私立高校関係者から2億8000万円ものカネを騙し取った詐欺事件。発生から1年以上経ってもその容疑者が捕まらない――という内容だったが、記事の掲載から数カ月後、ついに1人の男が逮捕された。
近藤忠雄、57歳、逮捕時は前科7犯。「週刊新潮」はその後、2003年まで何度かこの名を報じている。それらを追うと浮かび上がるのは、戦後から令和まで裏街道を歩き続けた男の姿だった。(全2回の第1回)
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「赤軍派」を名乗った男
1970年代後半、怒涛のように発覚した不正入試・裏口入学疑惑の中でも、A医科大学はあまりに大胆な手法と金額で世間を唖然とさせた。

たとえば1977(昭和52)年の合格者126人のうち、500点中150点の合格ライン未満は30人。そのうち27人が在籍するB高校は、県の認可なく「付属校」を名乗り、生徒の保護者から巨額の“預り金”を受け取っていた。報道によれば、発覚当時の総額は43億円。その金は融資金や生徒からの寄付金となって、A医科大学に流れていたという。
英語と数学が0点でも合格できたというから、まさに“地獄の沙汰もカネ次第”。一方、こうした事実が露呈したことで、新たなカネの亡者たちが引き寄せられた。次の事件が起きたのは、不正入試報道の熱も冷めやらぬ同年9月のこと。
〈昭和52年9月13日午後1時半、ホテル「ナゴヤキャッスル」601号室で、B高校副理事長と法人部長の両氏は、自称「原田博公」なる「全国農協連合会理事」と面会した。ところが面談中、「原田」はにわかに赤軍派を名乗り、同時に部屋に隠れていた若い男が飛び出し、ピストルで2人を脅した〉(「週刊新潮」1979年1月11日号より)
東京で電撃逮捕された「原田」
と、「週刊新潮」は報じたが、実は事件発生から1年3カ月後の記事である。特徴的な犯行の手口、ただちに作成された精巧な似顔絵といった手がかりは豊富ながら、愛知県警の捜査に進展がみられない――というのがその趣旨だった。
〈理事長が若い男に監禁されている間に、「原田」は法人部長を連れて、東海銀行の支店でまんまと2億5000万円(他行でさらに3000万円)の引き出しに成功。そして法人部長を再び601号室に監禁し、「原田」は午後7時ごろ名古屋駅から消えた。若い男も「次のコマンドが来る」といいのこして、やはり午後10時半に名古屋駅から消えたのである〉(「週刊新潮」1979年1月11日号より)
捜査は難航していると見られたが、実際は1人の男が捜査線上に浮かんでいた。この記事から1カ月半ほど過ぎた頃、東京で電撃逮捕された「原田」こと近藤忠雄である。戦後の混乱期を犯罪と共に生き、逮捕時57歳にして前科7犯。昭和38年にも同様の手口で歯科医のカネを奪ったが、嫌疑不十分で釈放されていた。
近藤という男
近藤の逮捕を報じた記事には、その“犯罪人生”の前半が記されている。
〈近藤忠雄は名古屋市出身。高等小学校を卒業後、三菱重工に勤めたが、応召して満州に渡った。昭和18(1943)年、軍法会議において窃盗の罪で懲役8カ月。これが、彼の最初の犯罪である〉(「週刊新潮」1979年3月22日号)
昭和22(1947)年、近藤は広島に現れた。当時を知る女Mさん(58=取材時)の証言。
〈「当時、主人は広島市役所の職員で、中央出張所に勤めておりました。ある日、復員姿でリュックを背負った若い男が、そこへやって来たんです。“満州から引き揚げて来たんだが、今晩、寝るところもない”という話で、主人は人がいいもんですぐ同情しましてね。その男を家へ連れて来てしまいました。人ざわりのやわらかな優男でした」〉(同)
その優男いわく「満州育ちで、実家は自家用飛行機まで持っていたが、敗戦で戸籍までなくしてしまい就職にも困る」。そこでMさんの夫は近藤を養子にして、戸籍を作ってやった。が、その後の近藤が“堅実な暮らし”を選ぶはずはない。
強盗を犯して広島へ逃亡
〈近藤は市内の材木屋で働き始めたが、一年もしない間に、Mさん宅の近所に、バラックながら家を建ててしまった。どうやって金を作ったのか、Mさん夫婦は驚いた。さらに1年後、近藤は隣家に放火し、逮捕された。で、余罪が判明。昭和22(1947)年、名古屋銀行で強盗。当時、近藤の父親は名古屋市内の銀行で小使い(雑用事務員)をしており、その父親を利用して銀行の内部事情を調べ、現金輸送の途中を狙い、麻酔薬を使用した強盗を働いていたのだ〉(同)
広島を逃亡先に選んだ理由は、原爆で町が焼失しているため、新しい戸籍を容易に作れると考えたから。家を建てたカネは、強盗で得たものだった可能性は高いという。近藤はこの放火と余罪で15年ほど服役した後、名古屋に戻って看護師の女性と結婚した。
〈材木屋をしてみたり、いろいろ事業に手を出したが、ギャンブル好きがたたって行き詰まる。この間、細君の友人の看護婦に手を出して離婚。その看護婦と再婚。競輪のノミ行為をしたり、盗品の故買をしたり、小さな犯罪と借金を重ねていったわけである〉
岐阜刑務所で懲役13年
そしてA医科大学事件に至るが、逮捕当時の愛人によれば“まさかの話”だったという。
〈「久米光治と名乗り、ボイラーの機械屋で、神戸の会社にいたが、5000万円の退職金をもらって辞めたといってました。仲間との釣りに使うと、茅ヶ崎に2700万円のマンションを買ったこともあります。その後、1700万円で手放しました。去年の10月初めに赤坂のマンションを契約(敷金35万円、家賃9万4000円、2DK)し、指輪も着物も買ってくれ、一応、神社にもお参りしたので、ゆくゆくは……と信用したんです」〉(同)
一方で近藤は、一審判決の懲役13年をおとなしく受け入れ、岐阜刑務所で服役生活に入った。
〈近藤は担当弁護士に対し、「刑務所で死ぬことになるかもしれんが、ここなら衛生的だし、医者も診てくれるので……」と語り、さらに「ここではなにも不自由ない」と満足そうな様子だったという〉(「週刊新潮」1980年10月2日号)
刑務所で静かに人生を終える――だが、そんな日はまだまだ先となる。出所から数年後、近藤は日本を震撼させた凶悪事件で再び“表舞台”に現れた。1994(平成6)年9月に発生した「住友銀行支店長射殺事件」である。
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日本を震撼させた未解決の企業テロ事件、近藤はなぜか犯行に使われた拳銃を所持していた――。第2回【94年「銀行支店長射殺事件」で“拳銃を持った老人”はなぜ出頭したのか 実行犯を明かさぬまま逝った男の裏街道人生】では、再び逮捕された近藤の晩年を追う。
デイリー新潮編集部
