斉藤ナミ「次のライブまで生き延びる…」『推しがいる世界』を持っている人への嫉妬とは
noteが主催する「創作大賞2023」で幻冬舎賞を受賞した斉藤ナミさん。SNSを中心にコミカルな文体で人気を集めています。「愛されたい」が私のすべて。自己愛まみれの奮闘記、『褒めてくれてもいいんですよ?』を上梓した斉藤さんによる連載「嫉妬についてのエトセトラ」。第21回は「『推しがいる世界』を持っている人への嫉妬」です
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前回「斉藤ナミ 母親である私は、なかなか自由な時間がとれない。子どもがいない人が羨ましいとは、口が裂けても言えないが…」はこちら
「推し」。
「ひと目見て、沼に落ちたわ」
そう語るのは、芸人やyoutuberとして活動している、ある知人男性だ。彼の武器は、凄まじい知識と語彙力で世の中を論理的に解剖するその語り口。
私はいつも彼の発信を見聞きしては「それが言いたかった! その言語化、まじ天才!」と膝を打ち、同志愛を抱いていた。私たちにとって、世界は感じるものではなく言語化して分析するものだったからだ。
ところが最近、異変が起きた。その冷静沈着な彼が、たった一度の直感で、あるアイドルに陥落したのだ。
いわゆる「推し」ができた、というやつである。
「推し」。その言葉が意味するものは、単なるファンのようなものとは少し違う。それは好きなタレントや趣味の領域を超えた存在だ。彼らに出会ったことで人生を救われたと感じたり、明日を生きる希望になったりもする。
「彼らがいるから、今日も働ける」「次のライブまで生き延びる」 そうやって理不尽な現実や辛い仕事に耐えるための生存エネルギーを供給してくれる活力維持装置のようなもの。
かつての同志だった彼も、この最強のエネルギー源を手に入れたわけだ。
これが、推しの効力か?
「推し」を手に入れた彼は、毎日そのアイドルの動向を見張り、広報担当かのように宣伝を垂れ流すようになった。
「今日の笑顔も国の宝だ」「顔や腹筋が神の造形」「発言の聡明さがノーベル賞級」など、以前の彼なら鼻で笑っていたであろう賛美の言葉を、真顔で連射している。それらの投稿は「生まれてくれてありがとう。彼女の周りの全ての人に感謝。世界ってなんて素晴らしい」と締められる。
おい、しっかりしろよ! どうしちゃったんだよアンタ! 鋭い言葉で社会をメッタ斬りにしてた地獄の分析官みたいなアンタはどこ行ったんだよ!
……と、胸ぐらを掴んで揺さぶりたかったのだが、 悔しいことに推しができてからの彼は、元から仕事人間だったのが、ゾーン状態に入ったようにさらにメキメキと活躍し始めたのだ。まさか……これが、推しの効力だと言うのか?
初めこそショックだったものの、毎日幸せそうでパワーアップした彼を見ていると、認めざるを得ない。そこには確かに、人生を好転させる「何か」があるのだ。
そんなに凄いのか? 彼が愛してやまないそのアイドルを観察してみた。顔はかわいくスタイルも抜群。歌もダンスも上手だ。しかし、ステージにいる人みんなが同じ「アイドル」という職業をしているように見える。
他の人とどう違うんだ……。ステージをぐるっと回ると誰がどの人だったかもう自信がない。それに、歌なら歌手が、ダンスならダンサーの方がもっとうまい。
すると彼は言う。「挫折と努力と成長という、彼女の人生の文脈を知らないからだ。私は彼女の人間性を応援している」と。
順番が逆じゃないか。その文脈を「知りたい」と願うには、まず「好きだ」という初期衝動が必要なはずだ。みんな同じに見えてしまっている私には、その入り口のドアが開かない。
それに、私にはその涙も、笑顔も、語られる苦労話さえも、すべては「アイドル」という商品を輝かせるための業務遂行に見えるのだ。光の当たっている一面だけを見て、魔法にかかることができない。
その存在に生きる希望を見出すことも、かわいいケーキの横に「推し」のアクスタを置いて「一緒に食べよう」と写真を撮ることも、私にはどうしたって無理そうだ。
夢の国でも「客という役割」を意識してしまう私
そういえば昔からそうだった。
夢の国でさえ私は、着ぐるみのキャラクターを中の人の労働と見てしまう。恋人が連れて行ってくれても、結婚して子どもを連れて行っても、「せーの、ミッキー!」と、みんなと体温を合わせてはしゃぐことができない。
こんな炎天下で大変だろうに。そろそろ控え室に戻りたいのでは? あんな重そうな着ぐるみでおどけるなんて、かなり体幹がしっかりしているんだな……などと思ってしまう。
パーク内を歩くキャストスタッフとのやりとりも私にはハードルが高い。彼らは常に笑顔で、完璧な住人として振る舞う。道を尋ねれば、まるで冒険の旅立ちを見送るかのような大げさな身振りで「いってらっしゃい!」と手を振られるし、レシートを渡される時でさえ、そこには過剰なまでの夢と魔法がふりかけられている。
それに対し、私はどう振る舞えばいいのか。「わあ、ありがとう!」なんて手を振り返すなんて無理だ。恥ずかしくて鳥肌が立つ。いい大人が仕事中の店員さん相手に魔法にかかったフリをするなんて正気の沙汰ではない。
(できないけど)私がノリノリで返事をしたら、彼らはどう思うんだろう? 「おばさん頑張ってる頑張ってる」と内心で失笑されるんじゃないか。いや、ここは夢の国だ。逆に恥ずかしがって無視する方が「大人の対応ができない面倒臭い客だ」と思われるかもしれない。どっちに転んでも地獄……!
相手がプロであればあるほど、こちらも「客という役割」を完璧に演じなければならない気がしてひどく疲れてしまう。
高いお金を払って手に入れられるのは、夢でも魔法でもなく「やっぱり私にファンタジーは向いてない」という再確認だけだった。
誤解しないでほしいが、私はエンターテインメントそのものは好きだ。素晴らしい音楽や映画には涙して感動するし、大きく価値観を変えられることだってある。けれど心が動かされるのは、あくまで完成された「作品」だ。その背後にある生身の「人間」や「文脈」を丸ごと愛する「推し」という行為とは、似て非なるものなのだ。

(写真:stock.adobe.com)
私だって無防備に幸せな涙を流してみたい
私が救いを求める場所は、彼らとは少し違う。
アイドルの作り出すキラキラした笑顔や、夢の国が提供する完璧なファンタジーに没頭することはできないが、大好きな作家、村田紗耶香さんや向田邦子さんの生み出す物語の世界には、まるで自分がその中で呼吸しているかのように没入してしまう。
彼女たちの文章には夢も魔法もない。あるのは、人間の残酷さ、滑稽さ、それでも生きていくことのどうしようもなさみたいなものだ。私は、どうしようもないダメな部分が剥き出しになった、生身の人間の物語が見たい。
ページの中にいるその不完全な人間たちに自分の心がピタッと重なることがある。彼らとともに泣き、怒り、妬み、悲しみ、絶望し、そして救われる。ああ、こんなに情けないのは私だけじゃなかったんだとホッとし、人類が愛おしく思える。
完璧な笑顔のアイドルには「汚いものは隠して、明るく正しく元気に頑張れ!」と言われている気がして息苦しくなるけれど、物語の中の泥臭い体温に触れると、私は息ができて「もう少しだけ、頑張ってみようかな」と思えるのだ。
推しがいる彼は「推しの笑顔ひとつで明日も元気に働ける」と言う。なんてコスパのいい、幸せな才能だろう。一方の私はどうだ。向田邦子の描く不幸や業を読んで、ようやく「あぁ、生きていてもいいんだ」と安堵する。毒を摂取しないと息ができないなんて、なんと燃費の悪い生き物だろうか。
ただ、これだけ理屈をこねて自分を正当化してみても、彼らのあのまっすぐに幸せそうな笑顔を見ると、やっぱり羨ましい。私もできることなら、ミッキーに手を振って、推しのアクリルスタンドに話しかけて、あんなふうに無防備に幸せな涙を流してみたい。
もしも明日、雷に打たれるように、理屈も文脈もすべて吹き飛ばして「ぬわあああ、とにかく好きだあ!」と思える人に出会ってしまったら。きっと毎日は、もっと騒がしくて、ワクワクして、最高に楽しいに違いない。
結局のところ、私はまだ、推しがいるあの世界を諦めきれていないのだ。
だから私は、今日も眉間に皺を寄せてドロドロした本を読みながら、横目でチラチラとテレビを盗み見ている。
私の理性をぶち壊し、このモジモジとした人生を吹き飛ばしてくれる、とんでもない魔法使いが現れないかな。
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著者・斉藤ナミさんと婦人公論.jp池松潤が日常に潜む「『推しがいる世界』を持っている人への嫉妬」を徹底解剖。世界史を動かした嫉妬の正体や、AIに感情を教える「嫉妬AI辞書」まで語り尽くしました。
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