奥田瑛二「政治家を目指す」と嘘をついて愛知県から上京するもまったく売れず。代々木公園にて3ヵ月ほどホームレス状態で過ごしていたある日、出会ったのが…
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第48回は俳優の奥田瑛二さん。20代の頃は売れない時代が続き、代々木公園で3ヵ月ほど夜を明かしていたこともあると話す奥田さん。ブレイクのきっかけは、事務所に置いてあった台本を読んで――。(撮影:岡本隆史)
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空の天気と心の転機が……
すらりとした長身、ハンサムでダンディ。それもありきたりでない独特のダンディズムなのが、色気につながってくる。
少年の頃から俳優を目指し、いつかハムレットを演じたいと願っていた。奥田さんによると、外国では大根役者のことを「ハムアクター」と言うとか。ハムはペラペラで、下手な役者ほどすぐハムレットをやりたがるから。「俺、やらなくてよかったよ」と、相手を煙に巻く、その座談が楽しい。
――このところ、ずっと振り返って考えてたけど、人生のターニングポイントって、あり過ぎてどこかわかんないよね。
愛知県春日井市の市議会議員だった父親に、「政治家を目指すため」と嘘をついて上京するんだけど、実は映画俳優になりたくて。でも売れる前の約10年って、多分チャンスが来てもそれが見えなかったんだと思う。
22歳くらいの時、渋谷センター街の路地に占い師が5人くらい机を並べてたんで、思わず前に腰かけて、「僕、俳優になりたいんです」って言ったら、「困ったね、難しいよ」。「え、なんで?」って言ったら、「もう500円」(笑)。
仕方なく渡すと、「うん、30歳になったら売れるよ」って。30じゃおっさんだ。青春映画に間に合わない、って肩落として帰った。
その後、いろんなことに挑戦したけど売れない日がずうっと続いて、ついに家賃未払いで家を追い出され……。ホームレス状態になって、代々木公園で3ヵ月ほど夜を明かしていたことがありました。
僕の転機はその青空の下で訪れる。緑の絨毯の上に寝転がってると、蟻さんが顔に這ってくる。それを払って、もうすぐ30歳だなぁ、俳優は諦めて、長野のリンゴ畑ででも働こうかな、いやでももう1年なんとか……って考えながら、富ヶ谷の友達のところへ行って昼めしを食べさせてもらったんです。
今晩、面白い集まりがあるからお前も行かないか、って誘われて、会費3000円貸してくれるなら行くよ、って。そこで出会ったのが安藤和津さんです。
出会って5ヵ月で婚約して、8ヵ月目の1月6日に結婚。もうその1月の末にはデビュー作のオーディションがありました。

代々木公園でホームレスをしていた頃(写真提供:奥田さん)
つまり第1の転機は、渋谷の路上占い師の予言。第2の転機は和津夫人との出会い。「代々木公園の青空の下。空の天気と心の転機が訪れた」と、奥田さんが解説する。
――その頃、仕事もないのに毎月5万円前借りする僕をそろそろクビにしようとしてた事務所にまた前借りに行ったら、事務員の机に台本があるのが見えた。藤田敏八監督の『もっとしなやかに もっとしたたかに』の台本。
「これ読んでいいですか?」って断って、下の喫茶店行って読んで。「よーし」って事務所へ戻って、手紙書いて、「これ監督に渡してください」って事務所の社長に託したんです。
それでオーディションに行ったらなかなか好感触だった。後日、監督に呼ばれて行ってみたら、審査には通ってるけど主役じゃない。「それは嫌です!」って席立って土下座して、「この主人公は僕なんです!! お願いします、お願いします」って板の間に頭をこすりつけて。顔上げたら、なんか涙が出ていて。
その時、藤田監督の隣には根岸吉太郎助監督、長谷川和彦監督補とがいて、「わかった、いいから今日はもう帰れ」って言われて帰りました。
2日後、事務所の副社長から電話があって、「藤田組、主役あなたに決まったよ」って。それが夜の10時半くらい。和津さんと結婚して2ヵ月とちょっとの時ですから、抱き合ってジャンプを何回したかわかりません。(笑)

新婚時代の奥田さんと妻・安藤和津さん(写真提供:奥田さん)
「人気者」にはなりたくない
その2ヵ月の間に、3つも主役が来るという、まさに大ブレイクをなしとげる。
――そうなの。藤田組で撮ってる最中に、東陽一監督から「会いたい」と言われて。それが桃井かおりさんの相手役で『もう頬づえはつかない』だった。
それを撮っている最中に、今度は松竹でオーディションがあるからって呼ばれて。山根成之監督からいろんな質問されて帰り、後日再び松竹へ呼ばれて行くと、「君でやることにしたから」。それが『五番町夕霧楼』、松坂慶子さんの相手役の修行僧・正順の役。
その日、松竹本社のビルの喫茶店にうちの社長と入ったら、「どうする? メジャーの映画に出るのはうちでは君が初めてだから、出演料困っちゃうな」って。それで僕が「日活ロマンポルノとかの5倍でどうですか」って言ったら、それが通っちゃったんですよ。
一つの映画が評判になると、ほかからもたくさん仕事の話が来る。だけど僕は、10年間売れなかったんだから、なんにでもすぐに飛びつくのはやめようと決めて、一つ一つ大切に仕事していたら、そのほとんどの作品で賞をいただいた。
その頃、TBSの『男女7人夏物語』で共演した明石家さんまさん、片岡鶴太郎さんのご両人は、忙しいから台詞を覚えてこないんです(笑)。リハーサルでは聞き取れない声でゴニョゴニョやって、本番になると台本を離れて好き勝手なことを喋る。意味は合ってる。
これはすごいなと思って、よし、第2回からは俺も覚えないでいこう、って、台本は最終回まで車の中か寝る前に読むだけにしました。あのドラマはすごい視聴率でしたね。
でも俺はこのまま「人気者」にはなりたくない。そう思っていた時、1冊の脚本が届いた。『海と毒薬』、熊井啓監督の作品ですね。ルンルンで監督に会いに行ったら、僕の顔を見て、「はい、わかりました。ご苦労さん」って、簡単なんですよ。その部屋を出て、長い廊下を歩いて帰った。
撮影が始まって、監督と2人で鮨屋に行った時に聞かされたんですが、「実はあの時、長い廊下を歩く君の後ろ姿をじっと見てたんだよ」って。それがオーディションだった。嬉しかったですね。
熊井啓監督作品では『千利休 本覺坊遺文』がもっとも印象深かった気がします。
――ええ、熊井さんの作品群に続けて出て、『本覺坊』までやったけど、俺って真面目な役ばかり演じてるな、と気づいて意図的にいったん熊井さんから離れたんですよ。
そこからは『ありふれた愛に関する調査』や『極道記者』などの主演をやっていたら、そこにまたチャンスが訪れる。それが神代辰巳監督の『棒の哀しみ』。
棒のようにくたばる男だと自分を見ているヤクザの話ですけどね、これが神代さんの遺作になりました。僕は熊井学校の教養課程を経て、大学院に入るような感じで行ったのが神代さんなんですよ。
これで主演男優賞も13個ももらったし、夢は叶ったので、何か違うことやりたいなと思って。かみさんに「俺、俳優やめて監督になる」って言ったんです。怒られるのを覚悟してましたが、怒られなかったです。(笑)
<後編につづく>
