【プレイバック’96】灯油を撒き、消火器を噴射して応戦…新宿西口が大混乱「ホームレス強制排除」
10年前、20年前30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックを今ふたたびふり返る【プレイバック・フライデー】。今回は30年前の1996年2月9日号掲載の『花火 消火器 醬油爆弾で応戦 新宿燃ゆ! 座り込みホームレスに警官隊犇任龍制排除瓠を取り上げる。
1991年のバブル経済の崩壊は多くの労働者から仕事を奪い、ホームレスが増えることとなった。新宿駅から都庁へと伸びる地下通路にはホームレスが建てた「段ボールハウス」が立ち並ぶようになり、百数十人がこの「段ボール村」で暮らしていたとされる。1994年から都が強制排除に乗り出し、撤去されてはまた新たに建てるということが繰り返されていた。
1995年末ごろから都は地下道に「動く歩道」を建設することを理由に段ボール村の住人らに退去を迫った。ホームレスと支援者らはこれに反発。何度となく小競り合いが起こっていたが、1996年1月24日、都はついに力ずくでの排除に踏み切ったのだった(《》内の記述は過去記事より引用、年齢は当時のもの)。
ホームレスと警官隊が激突
それは’60年代の大学紛争のような光景だった──。
《一段と冷え込んだ1月24日早朝、新宿西口地下道で、ホームレスや支援者たちと、都職員、警官らが派手な立ち回りを演じた。
都側が、すっかり西口名物となった狠淵棔璽襯魯Ε広瓩琉貔禿欝遒貌Г濱擇辰燭發里如▲曄璽爛譽溝Δ魯戰縫簇弔如肇丱螢院璽鼻匹鮑遒辰督餽魁職員らが近づくと、中から卵や生ゴミ、花火、果てはサラダ油や醬油まで手当たり次第に投げつけた。さらに撤去が始まると、灯油が撒かれ、消火器が噴射され、あたり一面煙がたちこめ、大混乱となった》
都は職員、ガードマンら500人以上、警察官250人を大量投入するという本気ぶりだった。ホームレス側は柱に体を鎖で縛りつけて抵抗する者もいたが、圧倒的な人数差におされて1人、また1人と連れ出されていった。こうして午前8時半までには全員が排除されたのだった。
ただ、ホームレス側は必ずしも一枚岩ではなかったようだ。
《まさに「新宿燃ゆ!」といったところだが、実際は、その間も座り込んで焼酎を飲んでいたり、ただじっと傍観しているホームレスの姿も多く、彼らは排除される際も、職員におとなしく従っていった。その一方、激しく物を投げつけて最後まで抵抗し、両手両足をつり上げられるように排除されたり、公務執行妨害で逮捕された人たちには、こぎれいな格好をした若い人たちが目立った》
「こんなやり方は形式ばかりの法律をたてに暴力に訴えているとしか思えない」と支援者たちが声高に叫ぶ傍らで「俺は関係ないから」と、どこかへ姿を消すホームレスや、近くの受付場所で都が用意した臨時保護施設への入居手続きをする人もいた。
臨時保護施設に入居できるのは2カ月間のみ。この強制排除でホームレスの問題が解決するとは思えなかった。
再建された段ボール村
ホームレスと支援者は地下道の「段ボール村」の強制排除に徹底抗戦する一方で、後に新宿駅西口地下広場イベントコーナーとなる場所を、フェンスが建てられないように占拠した。この“緊急避難所”に地下道から排除されたホームレスの一部は移動。ビニールシートで囲われた場所に数十人が寝起きし、連日炊き出しが行われた。
2週間ほど経つと段ボールハウスを建てる者が現れ、やがて段ボールハウスは西口地下広場全体に広がり、かつての段ボール村以上となる300人が暮らしていたという。
段ボール村が再建されると、写真家やアーティスト、ジャーナリストなどが訪れて住民らと交流するようになった。1997年末にはボランティアの人々によって年越しコンサートが行われ、新宿西口では’60年代の「フォークゲリラ」以来の規模のイベントだといわれた。
だが、住民たちが常に強制排除に怯えながら暮らしていた段ボール村の最後はあっけなく、突然だった。1998年2月7日未明に発生した火災で50軒以上の段ボールハウスが焼失、住民4人が亡くなったのだ。段ボール村は自主解散し、住民の多くは都の施設に移ったという。
東京23区内のホームレスはその後も増え続け、都内各地の公園に段ボールハウスやテントを設営して暮らす姿が見られた。ピーク時は1999年で5798人いたという。都が’04年に公園に住むホームレスの住居を確保して就労を支援する「ホームレス地域生活移行支援事業」を始めたことで、その数はどんどん減っていく。’24年の統計では342人まで減った。だが、ネットカフェや簡易宿泊所などで暮らす人たちはこの数に含まれていないという。
