視聴率78.1%「放送事故」寸前…都はるみ『紅白』空白45秒の真相、絶頂期にマイク置いた天才たち

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紅白で「最初の引退」を選んだ大スター

これまで『紅白』にするほどの人気スターだったが、その後、引退した歌手がいる。その代表が山口百恵であり安室奈美恵だろう。その引退の場所が『紅白』だったという歌手もいる。その第1号が昭和32(1957)年の小畑実である。

小畑は昭和10年代から『婦系図の歌(湯島の白梅)』『勘太郎月夜唄』などの大ヒットを飛ばし、戦後も『長崎のザボン売り』、そして平成になってからちあきなおみがカバーしてレコーディング、それがCMソングに使われた『星かげの小径』などを歌った。

当時の人気のバロメーターだった芸能雑誌の『平凡』の年に一度の人気投票で昭和27(1952)年から男性の第1位を保持した人。女性1位はその頃、15歳の美空ひばりだった。あれから70年以上経った今年の『紅白』でもひばりの映像が流れるのだからすごいことだが、そのひばりと人気が互角だった小畑実の引退理由がまたすごいのだ。

人気投票で昭和29(1954)年まで3年連続して第1位だったが、翌30(1955)年に前年に「戦後最大のヒット曲」と言われた『お富さん』を歌った春日八郎に首位を奪われ2位に。翌年は1位復活を狙ったが叶わず、さらに翌年の32(1957)年には、春日に代わって三橋美智也が首位を奪った。その年は春日が2位、今年亡くなった三浦洸一が3位、白根一男が6位など若手のニュースターが続出、小畑は10位まで転落した。

そのとき小畑は「歌手は人気があるうちが花、人気が落ち込む前に引退しよう……」と自らの歌手生活に見切りをつけて、この年の『紅白』を最後に引退したのである。

歌った歌はこれも戦後の大ヒット曲、ぴったりと『高原の駅よ、さようなら』。涙でぐしょぐしょになりながらも、「長い間ありがとうございました。厚く御礼申し上げます」と挨拶、すかさず白組の司会者だった高橋圭三アナウンサーが「これで勝負も決まりました」。その小畑の当時録音された音源を集めたCD『日本の流行歌スターたち(56)』を監修・解説したものが、1月21日に発売される。

小畑はその後、渡米してホテル経営や後輩のフランク永井橋幸夫らに作曲の作品を提供していたが、昭和40年代に起こった“なつメロブーム”の中、十年ほど前まで人気ナンバーワンだった小畑へのカムバックの声が高まり、昭和44(1969)年に歌手活動を復活させた。

南沙織、キャンディーズが紅白で見せた「伝説の瞬間」

その後『紅白』を引退の場所としたのは、昭和59(1984)年の都はるみということになるが、その前に引退した歌手として南沙織がいる。昭和46(1971)年にのちに森高千里が歌ってリバイバルヒットさせた『17才』でデビューした“シンシア”こと南は、その後も『純潔』『色づく街』『ひとかけらの純情』『人恋しくて』などのヒット曲を重ねたが、昭和53(1978)年に当時在学中だった上智大学の学業に専念するためという理由で歌手活動を引退。その後に交際が始まったという写真家の篠山紀信と結婚、3人の息子の母親になった。

そんなシンシアが、突然平成3(1991)年の『紅白』に一日だけのカムバックを果たしたのだ。当時の『紅白』は「21世紀に伝えたい歌」の「21世紀枠」があり、この年ブームが起きていた美川憲一山本リンダや、ヒットした年に『紅白』に出場できなかった欧陽菲菲が『ラヴ・イズ・オーヴァー』で出場。南の久しぶりのブラウン管登場に当時のシンシアファンは大喜びした。しかしシンシアはこの日限りで歌手としての再起動は行わなかった。

南沙織同様に昭和52(1977)年の第28回紅白が最後の出場になったのがキャンディーズの3人である。この年の夏のコンサート中に急遽叫んだ「普通の女の子に戻りたい」。「今年9月で解散、引退したい」と話したが、これは所属の渡辺プロダクションとは一切話し合いをしていなかった。翌日からの話し合いで解散、引退は半年のばしとなったが、『やさしい悪魔』が『紅白』最後の歌となり、翌53(1978)年「さよならコンサート」を終えて、キャンディーズは解散。3人は引退した。

しかしランこと伊藤蘭、スーこと田中好子が芸能界に戻るのはわずか2年後、昭和55(1980)年。ふたりとも女優業としての活動が主だったが、ランは平成元(1989)年に俳優・水谷豊と結婚、妻として、そして長女である女優の趣里の母としての人生を第一に送った。令和元(2019)年になってから、キャンディーズ解散以来41年ぶりに歌手としてアルバム『My Bouquet』をリリース、その後もシングル曲やアルバム、DVDなどを発売し、ソロコンサートも開催し始めた。娘の趣里が朝ドラ『ブギウギ』の主役に抜擢された令和5(2023)年、第74回紅白に46年ぶりに出場。キャンディーズ時代の『年下の男の子』『ハートのエースが出てこない』『春一番』を歌っている。

一方のスーは、昭和55(1980)年に復帰してから歌手としても『カボシャール』などを歌ったが、何しろ女優としての活躍が際立った。

昭和58(1983)年には国民的な朝ドラとなった『おしん』に出演し、平成元(1989)年には映画『黒い雨』主演で日本アカデミー賞、ブルーリボン賞など多数の映画界の賞で主演女優賞を受賞。さらに平成3(1991)年の朝ドラ『君の名は』にも出演、この年の『紅白』では審査員を務め、ある意味で『紅白』への復帰を果たしている。

同年に女優・夏目雅子の兄で実業家の小達一雄氏と結婚。ふたりに子どもは授からなかったが、これも高視聴率だった平成13(2001)年の朝ドラ『ちゅらさん』ではヒロインの母親役を好演。平成23(2011)年4月21日、乳がんのため55歳の若さで死去したが、スーの映画やドラマで子ども役を演じた数は全部で47人もいた。

ランとともにスーの最期を看取ったミキこと藤村美樹は、ふたりに遅れること3年後の昭和58(1983)年にソロ歌手として期間限定で復帰した。カネボウ春のキャンペーンソング『夢・恋・人』が大ヒットしてベストテン入り。『紅白』返り咲き候補としては彼女が最も至近距離にいた。ところがこの年のうちに実業家と結婚しふたたび引退。その後はスーの葬儀時まで公の場に顔を出すことは一切なかった。

視聴率78.1%の衝撃! 

そんなキャンディーズの「普通の女の子に戻りたい」発言から7年経った昭和59(1984)年3月。今度はその向こうを張って、突然「普通のおばさんに戻りたい」と引退宣言したのが、『紅白』紅組のエースのひとり、この年デビュー20周年を迎えた“演歌の女王”都はるみだったのである。

昭和39(1964)年、東京オリンピックの年に『困るのことヨ』でデビューしたはるみは、第3弾の『アンコ椿は恋の花』で『レコード大賞』の新人賞を受け、翌40(’65)年に『涙の連絡船』が大当たりして『紅白』に初出場。

昭和43(1968)年には、この年のヒット作『好きになった人』でトップバッターをつとめ、昭和50(1975)年にはその年、これといったヒット曲がないという理由で発売直後の新曲『北の宿から』を歌うと、翌年になって評判に。大ヒットとなり年末には『レコード大賞』グランプリ、『紅白』も出場12回目にして初の大トリ。その後も『大阪しぐれ』や『浪花恋しぐれ』などの大ヒット曲を続けてきた。

大みそかが引退日ということも同時発表されたため『紅白』出場が最後の花道だと、春先から『紅白』への関心が高まった。NHKホールでこの年の出場者が歌い終わり、残すは、はるみひとり。

紅組司会の森光子が「20年間、ありがとう。都はるみさん」と紹介すると、ラストシングル『夫婦坂』の前奏が始まった。中央の大階段をはるみが下りる。〈いいのいいのよふり向かないわ〉……、最後の熱唱が会場を包む。歌い終わった瞬間、はるみは泣いた。期せずして会場から「アンコール アンコール」の大きな声援と拍手。

白組司会の鈴木健二アナウンサーが「はるみさんに頼んでみます。私に一分間時間をください」と言い、詰め寄った瞬間、はるみからの承諾をとる前にアンコール曲『好きになった人』の前奏が始まってしまう。鈴木アナは内心「しまった」と思った。しかし会場は興奮の大拍手。でもはるみは放心状態のままだった。

このときの『紅白』のチーフプロデューサー勝田稔の息子は、今私と一緒の番組を制作していて、1月2日の『新春12時間歌謡祭』(BSテレ東)のプロデューサーでもある。このときのことを聞いた。

「父はモニター(テレビに映っている)の、(はるみと鈴木の)やりとりを冷静に見ながら、伴奏開始のキュー(合図)を振ったんです」

生放送は過酷だ。あと45秒、いや30秒あったら違った展開があったかもしれない。しかしそれは不可能だった。はるみは燃えつきるように歌手人生に幕を閉じた。78.1%の驚異的視聴率。

紅白が映し出す「女の人生」

それから5年経った。昭和が終わり、『紅白』も40回目を迎えていた。まだ当時は現在のように7時台からスタートする『紅白』ではなかった。昭和の『紅白』は夜の9時から始まり、11時45分までの2時間45分番組だった。しかし平成最初の『紅白』ということもあり、初めて現在のように1部と2部に分けての放送回となる。7時20分からの1部が「昭和の紅白」、9時からが「平成の紅白」と題しての歌合戦の開始である。

その「昭和の紅白」のトリとして都はるみが、これまで『紅白』20回出演のうち一度も歌ったことがなかった出世作『アンコ椿は恋の花』で、これまた「一日だけの復活」を約束に歌ったのである。

その評判が翌年の再デビューにつながり、平成2(1990)年の大みそか、はるみは復帰曲『千年の古都』で今度は正メンバーとして紅組トリでしっかりと歌いおさめたのである。その後、平成9(1997)年の『海峡の宿』まで毎年出場し続けたが、その翌年から『紅白』を卒業。現在は事実上の引退状態で活動していない。

はるみが最初に引退した昭和59(1984)年の翌年、さらに歌謡界の大スター、森昌子がその後を追った。昌子は昭和47(1972)年、14歳で『せんせい』でデビューし、翌年から『紅白』に出場してきた。その後は桜田淳子、山口百恵とともに「花の中3トリオ」と呼ばれ、世の人気を三分。そこから学校を卒業した「花の高3トリオ」まで歌謡界のトップスターとして、『紅白』の花形として活躍を続けた。

トリオ解散後も三人三様に実力を重ねたが、昭和55(1980)年に百恵が三浦友和との結婚で芸能界を引退、淳子も女優としての活動がメインになる中、昌子はひとり『紅白』の常連としてトリもつとめるような歌手に成長していった。しかしはるみ引退の次の年、昭和60(1985)年の『紅白』が、引退への花道になる。

この年、昌子は紅組の司会もつとめている。さらにトリで『愛唱歌』を涙で歌ったが、翌61(1986)年、そのときのトリの相手、恋の噂が立っていた森進一と結婚したのである。結婚式の模様は、テレビで生中継されて、その視聴率が45.3%。歌謡界のトップ歌手同士の結婚は、まさしく世間の注目の的だったわけだ。

昌子はこれを機に引退し、家庭の人となった。3人の男の子たちにも恵まれ、妻として母親としての人生を送ったが、21世紀を迎えた平成13(’01)年の『紅白』ということで強い要望が寄せられ夫・進一とも協議の上、20年ぶりに人前で歌う決心を固めたのだ。歌った歌はデビュー曲の『せんせい』、『紅白』ではじめてトリを受け持ったときの歌『哀しみ本線日本海』、さらに『レコード大賞』最優秀歌唱賞を受けた大ヒット曲、〈ヒュルリ〜ヒュルリララ…〉と『越冬つばめ』の3曲をメドレーにして披露したのだ。

人気歌手のその変わらぬ歌声に、周囲は大いに盛り上がったが、やはりこの時点では「一日だけの特別なカムバック」に過ぎなかったのだ。しかし周りは確実に動き出した。翌年には夫との「デュエット歌手」として、活動を再開することになったのだ。

だが平成17(’05)年4月には離婚。翌18(’06)年になって旧事務所ホリプロからソロ歌手として本格的な復帰に繰り出すことになった。再スタートの新曲『バラ色の未来』でその年の『紅白』に出場。翌年になると、現在ちょうどBSで再放送もされている朝ドラ上期の作品『どんど晴れ』でヒロインの母親役で女優業も始まり、完全復活と目されたが、体調不良のため入退院をくり返し、翌春にはホリプロを退社、個人事務所で活動することに。しかしその後も、子宮筋腫や更年期障害に悩まされ、令和元(’19)年をもって再び芸能界を引退している。

こうして『紅白』は、歌手引退や復活までも左右してきた。それはこの番組が歌手にとってどれだけ大切な番組なのかを意味しているのだ。いや、視聴者にとっても『紅白』は、ほかの番組とは異なる意味あいを持つ。そのステータスは、歴史の長さゆえである。考えてみれば『紅白』でなければ「辞退する」という言葉を使わないし、「この場で引退する」ということも「この番組だから復帰する」ということもないだろう。やはり『紅白』は別格なのである。特別な感情を持たせる歌番組こそが、『紅白』なのである。

文:合田道人

作家・(一社)日本歌手協会理事長。1979年、高校在学中に渡辺プロダクションからシンガー・ソング・ライターとしてデビュー。その後、舞台や放送の構成演出司会、作詩作曲、作家など各方面で異才を発揮する。著書には『童謡の謎』『神社の謎』シリーズ、『紅白歌合戦の真実』『歌は世につれ♪ 流行歌で振り返る 昭和100年』など多数。近著は戦後80年をモチーフにした『あの唄も、この曲も実は戦争の歌だった 童謡・愛唱歌の謎』(笠間書院)がある。’24年、五木ひろしに『こしの都』を提供、『日本作詩大賞』審査員特別賞を受賞。現在、BSテレ東の『プレイバック歌謡祭』『歌謡祭プレミアム』に構成司会でレギュラー出演中、’25年1月2日には昼12時から夜12時までの『日本歌手協会  新春12時間歌謡祭』が放送される。