変化を続ける東横線、かつての駅の面影は 大改造の渋谷駅、地下になった田園調布駅、新丸子駅は高架に

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現在、東京のターミナル駅が大きく変わろうとしている。百年に一度ともいわれる大改良工事が、新宿、渋谷、品川駅で進行中だ。駅が変われば、街の風景も一変する。東京・渋谷と神奈川・横浜を結ぶ東急東横線も、この64年の間で大きく様変わりした。渋谷駅も大変革の時期を迎え、“忠犬ハチ公”もきっと迷ってしまうほどの変貌を遂げている。変わりゆく東横線のはなしは、これまでにも横浜エリア、目黒区エリアと紹介してきたが、今回は渋谷駅、田園調布駅、新丸子駅の懐かしい情景とともに、ふり返ってみたいと思う。

※トップ画像は、2013(平成25)年3月15日まで地上の高架駅だった東横線渋谷駅。写真に見る28年前、渋谷マークシティは建設中だった。電車の行き先が「桜木町」なのもなつかしい=1997年10月、渋谷区渋谷

64年前、1961年にも行われた渋谷駅の再開発

渋谷駅といえば、東急デパートの2階から玉電(路面電車、のちの新玉川線、現・田園都市線の前身)や国鉄(現JR)山手線が、3階からは地下鉄銀座線が発車していたことを思い出す人は、昭和から平成の半ばぐらいまでに生まれた世代ではないだろうか。「(地下鉄)銀座線の乗り場はどこですか」と尋ねられ、「デパートの3階です」と答えると怪訝そうな顔をされたのも懐かしい思い出だ。

渋谷駅を取り巻くビル群のはじまりは、1954(昭和29)年に完成した東急会館(銀座線の駅や東急百貨店東横店〔西館〕が入っていたビル)だった。以来、東急文化会館(1956/昭和31年)、渋谷地下街(1957/昭和32年)とつづき、1961(昭和36)年には東横線渋谷駅の大改良工事に着手した。この大改良工事とは、連続したアーチ状の屋根を備えた東横線の表玄関・渋谷駅のシンボルでもあった高架駅のことだった。この駅は、昭和の東京オリンピックが開催された年の1964(昭和39)年4月に完成した。

その後も1971(昭和46)年には、渋谷駅を中心とした半径1kmの地域を、1985(昭和60)年を目標に“新都心”として再開発を行うという、「渋谷再開発計画’70」を発表している。これは、すり鉢状の地形の中心部にある渋谷駅をすっぽり覆う「重層化」した人口地盤(巨大な床)をつくり、情報都市空間を形成するという壮大なプロジェクトだった。この計画は実現には至らなかったが、それから49年後となる2013(平成25)年には、東横線の渋谷駅は地下駅へと生まれ変わった。

渋谷の中心でもある駅一帯は、令和の再開発が進行中であり、1955(昭和30)年代の再開発によって建てられた渋谷駅を取り囲むビル群は取り壊わされ、JR山手線、東京メトロ銀座線、京王井の頭線をも含めた「新たな一大ターミナル」へと生まれ変わろうとしている。

1955(昭和30)年当時に描かれた東急会館(東急百貨店東横店があったビル)附近の将来図。東急会館工事報告(1955年)より=資料/筆者所蔵

渋谷ターミナルの空中写真。かまぼこ状の屋根をした東横線渋谷駅はひと際目立つ。東京急行電鉄50年史(1972年)より=資料/筆者所蔵

昭和の渋谷駅竣工を記念した景品引換券(1964年)=資料/筆者所蔵

令和の再開発がはじまる前の渋谷駅東口=2004年1月29日、渋谷区渋谷

37年前の東横線渋谷駅(改札内)=1988年8月8日、渋谷区渋谷

高架にあった渋谷駅が廃止にされる前日のプラットホーム風景。アーチを描く天井(屋根)が印象的だった=2013年3月14日、渋谷区渋谷

渋谷ストリームへとつながる国道246号線(玉川通り)に架かる連絡橋は、かつての東横線渋谷駅を模しているが、当時の構造物を再利用したものではない=2025年11月27日、渋谷区渋谷

地下にもぐった田園調布駅

「田園調布に家が建つ」。1980(昭和55)年代に流行った漫才の一節である。これを知る人も少なからずおられることだろう。田園調布(東京都大田区)は、もともと「田園都市計画」という名のもとに行われた土地分譲と文化住宅を建設する構想によって誕生した新興住宅地がはじまりだった。今でいう目黒線の洗足駅(東京都目黒区)、大岡山駅(東京都大田区)、田園調布駅(東京都大田区)、多摩川駅(→多摩川園駅→現・多摩川駅/東京都大田区)のあるエリアが、その対象地域だった。子爵・渋沢栄一氏が生みの親となった田園都市株式会社の事業推進により勧められた街づくりだった。

田園都市株式会社は、いち早く電気の供給と鉄道の建設(荏原電気鉄道→田園都市株式会社電鉄部門→目黒蒲田電鉄→のちの東京急行電鉄)を行い、1922(大正11)年に目黒線(のちの目蒲線→現・目黒線)の目黒駅〜多摩川駅(当時の駅名も多摩川)の建設に着手した。その翌年の1923(大正12)年3月11日に、目黒蒲田電鉄・目黒線の「調布駅」(当時の駅名→1926〔大正15〕年の元日に田園調布駅へと改称)は開業した。この調布とは、当地の村名(荏原郡調布村)から付けられたものだった。東横線が開通したのは、その4年後となる1927(昭和2)年のことだった。

開業以来、65年間にわたり地上を走り続けてきた目蒲線(現・目黒線)と東横線は、1988(昭和63)年からはじまった東横線の複々線化工事により、地下路線として生まれ変わることになった。1990(平成2)年には、西口にあった田園調布駅のシンボルだった旧駅舎が解体された。1994(平成6)年にまず、目蒲線(現・目黒線)のホームが地下化され、次いで1995(平成7)年に東横線のホームも地下化された。これにより、地上を走る電車の姿は、過去のものとなった。

駅舎が地下駅になったのは、その翌年(1996/平成8年)のことで、2000(平成12)年には、西口にあった旧駅舎を田園調布駅のシンボルとして復元しているが、駅舎としては使用されていない。

旧駅舎があったころの田園調布駅(西口)=1981年12月20日、大田区田園調布

東横線の上りホーム(渋谷方面)の最高部に西口駅舎は面していた。短い階段をのぼると改札口があった=1981年12月20日、大田区田園調布

1982(昭和57)年まで運行されていた東急電鉄の荷物輸送用電車。田園調布駅には荷物を取り扱う専用のホームが駅のはずれ(写真に見る荷物電車の奥)に設けられていた=1981年12月20日、大田区田園調布

地下化工事がはじまる前の田園調布駅。みどり色の目蒲線もなつかしい=1989年2月26日、大田区田園調布

田園調布駅の東横線上りホームに停車中の日比谷線直通電車。電車の左後方に赤い屋根の旧駅舎が見える=1984年6月16日、大田区田園調布

地下化工事が真っ最中の田園調布駅。東横線の仮設ホームと仮設跨線橋が見える=1993年8月7日、大田区田園調布

街のシンボルとして復元された旧田園調布駅の西口駅舎。実際の駅舎としては機能していない=2025年11月27日、大田区田園調布

東横線には地形の谷間にある駅が2駅あった

駅の発車メロディーに応援歌が流れる。これは、新丸子駅(川崎市中原区)が最寄りとなる等々力緑地に併設される「とどろきスタジアム(等々力陸上競技場)」が、Jリーグ「川崎フロンターレ」のホームスタジアムであることに関係する。似たようなケースでは、東京ドーム(東京都文京区)の最寄り駅であるJR水道橋駅の発車メロディーも、あの球団の応援歌が流れる。ファン冥利につきる駅というわけだ。

かつて新丸子駅は、人気アニメ「ちびまる子ちゃん」とコラボしたこともあった。それだけ知名度がありそうな駅なのだが、間違って降りてくる乗客が後を絶たないという。東急多摩川線(旧・目蒲線)に下丸子(しもまるこ/東京都大田区)という似つかわしい駅があり、駅を開設した当初(1926/大正15年)から駅名の混同を避けるため、地名(開設当初の新丸子駅の地名は「上丸子」)を冠した駅名ではなく、「新丸子駅」と名付けられたという。ちなみに、現在の駅周辺の地名は、「新丸子町」である。

高架上にある新丸子駅だが、かつては地上を走っていた時代もあった。同じ東横線の都立大学駅(東京都目黒区)と同様に地形の谷間にあった駅だった。線路は、渋谷駅方向から多摩川を鉄橋で渡ると、下り勾配になって地上へ降りて新丸子駅があり、再び上り勾配をのぼって高架につなげてJR南武線を越えて武蔵小杉駅へと至る線形になっていた。1965(昭和40)年代後半から線路の高架化は計画されていたが、高架化工事がはじまったのは1982(昭和57)年のことだった。多摩川と新丸子駅の間には、踏切が3か所あったが、高架化によってすべて廃止・撤去された。

新丸子駅が最寄りの等々力緑地は、戦前に東京横浜電鉄(現・東急電鉄)の砂利採取場があったところで、戦後は砂利採取をやめた後も東急の社有地となっていた。その採取場まで、新丸子駅から砂利を運搬する引込み線が伸びていた。この流れで廃線跡の話へと進みたいところだが、引込み線の痕跡に関するはなしは、またの機会にしたいと思う。このような背景もあって、新丸子駅には引込み線の用地があったため、古くから側線や保線基地が設けられていた。

駅の高架化工事は、この用地を利用して、先ずは地上を走っていた上り線(渋谷方面)の線路を外側に移設して、上下線の間に空間を作り、高架橋の柱を建設していった。その後、1985(昭和60)年に下り線(横浜方面)を高架化して、翌年(1986/昭和61年)に上り線も高架化した。

その後は、東横線の複々線化工事によって再び改良工事に着手し、東横線と目黒線が並走する現在の線形となったのは、2000(平成12)年のことだった。東横線は、田園調布駅から菊名駅(横浜市港北区)までの約10kmが高架化されており、踏切はひとつも存在しない。(元住吉駅〔川崎市中原区〕に隣接する車庫へとつづく線路にある踏切は除く)。

高架の上を走る鉄道が当たり前になってきた現代。踏切が身近な存在ではない子どもにとって、“電車ごっこ”をするときは「ガタンゴトン」のほかに「カンカンカン」とは言わないのであろうか。近い将来、ドライバレス時代を迎えるであろう鉄道なだけに、そのうち“電車ごっこ”そのものも無くなってしまうのではないかと思うと、ちょっと寂しい気がした。

新丸子駅の改札口には「当駅は新丸子駅です」と書かれた案内があり、”下丸子”駅と勘違いする人への注意喚起が行われている=2025年11月27日、川崎市中原区

新丸子駅付近の立体交差工事の説明用パンフレット。写真に示される黄色い点線で囲まれている場所が、高架化工事の対象エリアだ=資料/筆者所蔵

高架化工事がはじまる前の新丸子駅。多摩川園3号踏切から武蔵小杉駅方向を見たところ=1983年、写真提供/山本泰史

新丸子駅の上り線側から見た駅周辺の風景=1983年、写真提供/山本泰史

上の写真とほぼ同じ位置から撮影した現況写真。当時の面影はなにもない=2025年11月27日、川崎市中原区

新鞠子駅周辺の高架化計画図。立体交差工事の説明用パンフレットより=資料/筆者所蔵

工事がはじまったころの新丸子駅。中央に見えるのが新設される高架橋の柱。下りホームから武蔵小杉駅方向を見る=1983年11月10日、川崎市中原区

高架になった下り(横浜方面)ホームから多摩川(渋谷)方向を見る。左下を走るのが上り(渋谷方向)の電車=1985年8月10日、川崎市中原区

高架化された新丸子駅下り線ホーム=1985年8月10日、川崎市中原区

高架になった下りホームから武蔵小杉方向を見た風景。右下の電車が地上を走る上り線の電車(急行・渋谷ゆき)=1985年8月10日、川崎市中原区

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。

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