【佐藤 隼秀】DV父に皿で殴られ、小2で祖母を「強制介護」…友達趣味なし月13万円非正規で働く30歳男性が過ごした「地獄」

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月収13万円、友人も趣味もなし

今年30歳を迎える村田秀さん(仮名)は、22歳で実家を出て以来、ずっと非正規の派遣バイトで食いつないできた。うつ病や不眠などの精神疾患を抱え、調子が悪いと1ヶ月近く布団から動けない時もあるため、定職に就けない状況が続いている。

現在の収入は月平均13万円。家賃2万5000円の都営住宅に住み、食費は1日1000円以下に納め、最低限の暮らしにつとめている。平日は派遣先の工場に向かい、仕事が終わると近所のスーパーに寄り、家で晩御飯を済ませて終了。彩りがある毎日とは言いがたい。

これといった趣味もなければ、付き合いのある友人もいない。むしろ自分が非正規であるという引け目から、中高生の同級生には会いたくないという。

もし定職に就けたら、お金を貯めて留学や海外旅行をしたいーー。そう口にする村田さんだが、その願望はほぼ叶わないと悟っている。自身の精神疾患や、過去に大学進学を諦めざるを得ない事情が重なり、非正規のまま30歳を迎えたいま、この先の人生が劇的に変わることはないだろうと呟く。

こうした状況に至った背景には、父から受けた虐待があった。村田さんの腕には、父に包丁で刺されたという傷が残り、その壮絶さを物語っている。現在は父と絶縁している村田さんだが、人生は修復不可能だ。

虐待経験のない者からすれば、その影響と現状がどう結びつくのか、加害者から離れた現在もなぜ当事者が苦しんでいるのか理解しきれない部分がある。そうした周囲の無理解も、被害者を追い込む一因となっている。

村田さんの半生を遡りながら、虐待の呪縛がいかに強いものなのか、改めて考えていきたい。

小2で認知症の祖母を介護

村田さんは一人っ子として育ち、3歳の時に両親が離婚して、それ以降は父子家庭で育つ。

離婚の原因は父のDVだった。村田さんは幼いながら、日常的に父が暴力を振るっているのを見てきた。母が髪を掴まれて引き摺り回されるといった光景が当たり前だったため、離婚して父に引き取られてからは、母へむけられていた矛先が自分に来るだろうと感じていた。

ただ、離婚した直後は、父は働きに出ていたのか、村田さんは親戚に預けられることが多かった。小学校に上がっても、ほとんど父は夜遅くまで不在で、ポストに入れられているお金でご飯を作り、ほぼ一人暮らしの状態が続いたという。

生活が一変するのは、小学校2年生の終わり頃だった。いきなり父が認知症の祖母を連れてきて、面倒を見るよう命令される。村田さんからすれば、急に見知らぬ高齢者を介護することに躊躇したが、抵抗する姿勢を見せると父が脅すため拒否できなかった。

「父は『おばあちゃんが一人だと可哀想だから』と、その一点張りで介護を要求してきました。しかも父は『出来合いの料理はダメ』『味の濃い料理は作るな』と、なにかと細かいルールを要求するようになり、それを破ると暴力を振るうようになりました」

誰も取り合ってくれない

いま思えば、これが村田さんへの本格的な虐待の始まりだった。殴る蹴るの暴行だけでなく、「死ね」「切腹しろ」と言った暴言を吐いたり、ランドセルをゴミ箱代わりにしたり、シャワーの熱湯をかけてきたりと、あらゆる方法で村田さんを痛めつけていく。

「父にとって、祖母の介護を押し付けることは、虐待の良い口実になったんだと思います。介護のためと言えば理不尽なルールも強要できるし、それを守れなかったという建前で虐待も正当化できる。そのうえ祖母が認知症なのを良いことに、『おばあちゃんがお前にいじめられたと話している』と、当てつけのようなことを言って暴行してきました。

父は裕福な家庭に育ち、末っ子として兄弟からも甘やかされ、いじめっ子であった過去を自慢することもありました。そうして誰にも咎められずに育ってきた父は、野放図で凶暴なまま大人になり、特に理由もなくストレスの捌け口として暴力を振るっていたのだと思います」

加えて、祖母の介護に奔走することで、村田さんは週1回ほどしか学校に通えなくなる。週に何回かはヘルパーが来て、入浴や洗濯などの世話をしてくれたものの、村田さんはご飯の用意や掃除をせざるを得なかった。しかも認知症の祖母は、ご飯を食べたことを忘れて文句を言ったり、気に入らない献立だと床にぶちまけたりと、話の通じない相手に村田さんは疲弊した。

子どもながら学校の先生にも訴えたが、担任は「お父さんから事情は聞いています」と相手にしてくれなかった。何らかの「口封じ」が行われたのか、学校側がかかわろうとしなかったのかはわからない。

他にも、テレビで図書館などから情報を得て、児童相談所や法務省の電話相談窓口「子どもの人権110番」にSOSを求めた。しかし、児童相談所からは具体的な実害が出ないと対応できないと言われ、子どもの人権110番からは「感謝しながら介護すれば楽しくなる」と要領を得ない答えが返ってきた。こうして家庭という密室で、村田さんは父の暴力と祖母の介護に消耗し続けた。

殴る理由はなんでもよかった

小学4年生の時、急に祖母は違う親戚の家で看ることになった。仔細な事情はわからないものの、村田さんは「強制介護」生活から解放され、学校に通えるようになった。繰り返すが、まだ小学4年生の時のことである。

日常的に続いていた父の虐待が終わることはなかった。父は、祖母のことではなく、村田さんが勉強できないことを口実に暴力を振るうようになる。

ヤングケアラーの時は学校にも行けず、周りに比べて勉強はできなかったので、次はそれを口実に手を上げてきました。いつもテストで100点を取らないと、父は決まって脇腹の下を思いっきり殴ってきて、私が床に蹲っていると食器で顔を殴るんです。

父に抵抗するほど虐待はエスカレートしていき、風呂の浴槽に頭を沈めて窒息させようとしたり、包丁を振り回してきたりと、次第に行動はエスカレートしていきました。

他にも、『祖母が家からいなくなったのはお前のせいだ』とか、同級生が転校した時に『転校したのはお前がいじめたからだ』とか、難癖をつけて虐待を正当化してくる。父からしたら、自分を痛めつけられれば、理由はなんでも良かったんでしょうね。

怒られたくない一心で勉強していたら、だんだん成績が上がったんです。成績を口実にできなくなった父は、今度は『家事をしろ』と殴ってくるようになりました。それ以降は、家では勉強を禁止しておきながら、学校のテストが悪いと暴行を振るうように、何かと縛りをキツくして暴行を振るってきました」

皿で殴られ、食事を3日抜かれ

ある時、皿で殴られて額が切れ、血が止まらなくなった村田さんは、病院に駆け込んだ。病院の先生に事情を説明すると、その医師が児童相談所の職員に通告して、父に職員から連絡が入った。

ただ、父は指導措置で済まされた。その時に父がどのような言い訳をしたのか、村田さんが知る由はないが、結局のところ彼は児童相談所に保護されることはなかった。むしろ実態を報告したことで父は激昂し、村田さんが動けなくなるほど暴行したうえ、病院に行けないよう保険証や金銭を隠して、それが外部に漏れないよう縛りつけた。

もちろんその後も、村田さんは学校の先生や警察にもSOSを求めたが、それでも父から離れることはできなかった。学校が父に電話で事情を尋ねても、決まって父は「息子が言うことを聞かなくて困っている」と同情を買うように誤魔化し、学校もそれ以上は関与することはなかった。

「3日連続で食事を抜かれたり、包丁で刺されそうになったりと、身の危険を感じた時は警察を呼びました。自分に外傷があるときは、父が事情聴取を受けたり、私が児童相談所の一時保護所に匿われることもありましたが、結果的に家に帰されることとなりました。

毎回、父は警察や児童相談所の福祉士と面談する際は、『息子のためを想って』とか、『頑張って勉強して欲しくて』とか、『自分の躾が悪くて迷惑をかけてしまいました』などと偽善者ヅラをするんです。

ある時、家からメモ書きのようなものが出てきて、そこには面談する際の受け答えをどうしたらいいかが書かれていました。そこには『進学校に合格させるため躾を厳しくしてしまった』と、教育を建前にした言い訳が書かれていました。そこまでして父は、自分を家庭に縛り付けて、暴力を振るおうと考えていたのだと思うとゾッとします」

門限は4時半、部活やバイトも禁止

村田さんが周りに助けを求めるたびに、父は反発して束縛をキツくして、虐待が明るみに出ないよう仕向けた。村田さんが中高生になると、門限は4時半に設定され、部活やバイトも禁止、家ではテレビやゲームなどの娯楽もすべて没収、おまけに警察や児相にも相談しないといった条件が追加された。

これらの規則を破ると、決まって父は「高校を辞めさせる」と脅してきた。この一言に村田さんは従うしかなかった。当時、村田さんには大学で遺伝子研究をしたいという目標があった。大学進学以前に、親の機嫌次第で高校を退学させられることを危惧していたのだ。

案の定、父は村田さんの大学進学を引き合いに、弱みを握るように束縛や暴行を激しくしていく。そのうえ、その頃の父は仕事を辞めたのか、日中ずっと家にいるようになる。まさに地獄としか言いようがない。

「束縛でキツかったのは、部活も入れず、テレビも自由に観られないので、同級生と会話する話題もなく、交流を絶たれてしまうことでした。中学では大半のクラスメイトが部活に入っており、そんななか門限で直帰する私は、クラスで浮いた存在として扱われるようになっていき、担任からもやる気がない生徒だと思われるようになりました。

学校の先生や同級生に話して、父にそれが伝わり暴行や束縛がきつくなるのを恐れ、家庭のことは隠していました。大学に行って独り立ちしたいという気持ちがあったので、それまでの辛抱だと言い聞かせて我慢していました」

私は「おもちゃ」だった

そして高校3年を迎え、センター試験(共通一次)が迫ってきた。晴れて父の元を離れ、大学進学ができると思った矢先、異変が起きた。学校で自分だけ、センター試験の参加通知が来ていないーーなぜか。

不審に思った村田さんは、父に問い詰めると「やっと気づいたか、バーカ」と、せせら笑いながらセンター試験を取り下げたことを報告された。事の顛末を担任に伝えると、学校でも前代未聞の事態として対策が取られたものの、最終的に大学進学は家庭の判断によるものとして匙を投げた。

「結局、父からしたら、とにかく私を管理下に縛り付けておきたかったのだと思います。なぜ父がそこまでするのか本心はわかりませんが、別に理由なんてないのだと思います。

受験を勝手に取り下げた時もそうですが、父は私がショックを受けているのを見て、その反応を楽しんでいる節がありました。父にとって、私はおもちゃというか、ストレス発散の道具でしかなかった。勉強を強いるのも、私に良い大学に進学して欲しいというわけではなく、ただ単に攻撃できる口実があればそれで良かったのだと思います」

とはいえ、大学進学を強制的に断念させられた村田さんは、高校卒業後も家庭に縛り付けられることとなった。父はずっと家で酒を飲んだりテレビを見たりして過ごし、村田さんが脱走しないよう監視し続け、機嫌が悪いと村田さんに暴行した。村田さんはその気力も失いつつあった。

隙を見て脱走する機会はあったものの、身分証やお金は没収され、行くあてもなかった。警察や役所に駆け込んでも取り合ってもらえない。そうした経験を重ねるうちに、村田さんはこの先も監獄のような空間で、一生を終えるのだと悟っていた。

光明は突然訪れる。22歳の時、たまたま父の不在を見計らって脱走した。だが、身体はもう限界だった。空腹により意識朦朧として路上に倒れてしまう。幸か不幸か、そこで通行人が救急車を呼んでくれて、入院するに至った。

当然ながら病院は、村田さんの過度な栄養失調や手ぶらなこと、家族の連絡先を教えるのを拒否するのを不審に思い、事情を聞いた。

そこで長年、父から暴行や食事制限されていることを打ち明けた。そして「家には戻りたくないから父には入院の事実を秘密にしてほしい」と懇願した。

事態の深刻さを察知した病院側は、村田さんの要望通り父には内密にして、代わりに役所で生活保護を受けるよう指示した。生活保護を受給できれば入院費も無償になるからだ。当時、村田さんは手ぶらだったため、お金も連絡する手段もなかった。急に息子がいなくなって訝しんだはずだが、その後父から捜索が入ることもなく、呆気なく父との生活は幕を閉じた。

だが、父との生活が終わっても、村田さんの窮状は解決しなかった。後編記事『「虐待の苦しみはずっと続く」父の虐待で人生のすべてを失った生活保護受給男性の絶望』へ続く。

「虐待の苦しみはずっと続く」父の虐待で「大学受験」も不可能に、すべてを失った生活保護受給男性の絶望