欧州サッカースタジアムガイド2024-2025
第14回 スタディオ・エンニオ・タルディーニ(Stadio Ennio Tardini)

 ロンドンのウェンブリー・スタジアム、マンチェスターのオールド・トラッフォード、ミラノのジュゼッペ・メアッツァ、バルセロナのカンプ・ノウ、パリのスタッド・ドゥ・フランス......欧州にはサッカーの名勝負が繰り広げられたスタジアムが数多く存在する。それぞれのスタジアムは単に異なった形状をしているだけでなく、その街の人々が集まり形成された文化が色濃く反映されている。そんなスタジアムの歴史を紐解き、サッカー観戦のネタに、そして海外旅行の際にはぜひ足を運んでもらいたい。連載第14回目はスタディオ・エンニオ・タルディーニ(イタリア)。


黄色と青の座席が特徴的なパルマの本拠地であるスタディオ・エンニオ・タルディーニ photo by ロイター/アフロ

「スタディオ・エンニオ・タルディーニ」というスタジアム名を聞いて懐かしむフットボールファン、カルチョファンも多いはずだ。かつて元日本代表MF中田英寿が在籍し、今季から日本代表の鈴木彩艶が日本人GKとしては初めてセリエAでプレーするパルマのホームスタジアムである。
 
 なおイタリアで7シーズンプレーした中田は、2001−02シーズンから2年半と最も長くパルマに在籍し、トータルで93試合に出場し9ゴールを決めて、コッパ・イタリア獲得にも貢献した。
 
 そのパルマはユニフォームのデザインから「十字軍(クロッチャーティ(Crocciati)」や黄青のクラブカラーから「ジャッロブル(Gialloblu)」の愛称で親しまれているが、クラブは何度も危機を乗り越え生まれ変わってきた。
 
 現在のパルマ・カルチョ1913(Parma Calcio 1913)は、1968年に設立されたパルマAC(旧パルマ・アソシアツィオーネ・カルチョ)の後継クラブで、1913年にパルマ・フットボール・クラブというオリジナルの名称でエミリア地方の街に設立されたクラブの歴史を引き継いでいる。
 
 パルマFC自体は1913年12月16日に誕生。同年7月に結成されていた別クラブの選手たちが中核だった。1922年、後にスタジアムの建設に着手することになる、弁護士のエンニオ・タルディーニが会長に就任している。
 
 アマチュア時代は国内トップリーグで戦ったことはあったが、1920年代にはセリエBとCを行き来するエレベータークラブだった。しかし1960年代にセリエDまで降格した後、1968年裁判所はクラブを清算し、パルマの企業家がクラブを買い取り、パルマ・フットボール・クラブと改名している。
 

 さらに1969―1970年シーズンの前、クラブはパルマにもうひとつあったクラブに経営を託し、ユニフォームとエンブレムを継承した。1970―71年シーズンにはセリエCへ復帰し、その後FWカルロ・アンチェロッティ(現レアル・マドリード監督)らの活躍で再びセリエBにも昇格している。
 
 そして1990―91年シーズンから、セリエAに初の昇格。Aに昇格後は、クラブは乳製品企業のパルマラットの所有となり、14シーズン中、13シーズンで6位以内という好成績を収めて強豪の一角となった。1992年に初の国内タイトルとなったコッパ・イタリアで優勝し、翌年、ウェンブリーでのロイヤル・アントワープとの決勝を3−1で制して初の欧州タイトルであるUEFAカップウィナーズカップも獲得した。
 
 さらに、イタリア代表MFジャンフランコ・ゾラを獲得、1994―1995シーズンのUEFAカップではMFディノ・バッジョの活躍もあってユヴェントスに勝利して優勝している。

 21世紀になると一気に風向きが変わる。突然、パルマラット社の不祥事が起こり、オーナーのカリスト・タンツィが逮捕された。2004年6月、アマチュアからの再出発を避けるため、パルマ・フットボール・クラブが設立され、パルマのすべての権利を引き継ぎ、存続することになった。
 
 しかし、2007―2008シーズン、18シーズン連続でセリエAに在籍していたパルマはセリエB降格の憂き目に遭う。2009―2010シーズンにはセリエAに復帰を果たしたが、深刻な財政問題で2015年にクラブは破産してしまった。
 
 2015年6月、後継クラブであるパルマ・カルチョ 1913が創設され、セリエDで戦うことが認められた。そこからパルマはイタリアで初めてとなる3シーズン連続昇格を果たし、2018−19シーズンから再びセリエAで戦うことになった。しかし、2020-2021シーズンに再びセリエBに降格。だが、2023-2024シーズンにセリエBで優勝を果たし、今シーズンからセリエAに復帰したというわけだ。
 
 そのパルマのホームスタジアムが「スタディオ・エンニオ・タルディーニ(Stadio Ennio Tardini)」であり、イタリアで最も古いスタジアムのひとつでもある。
 
 パルマのスタジアムは、1920年代初頭にパルマの会長であった弁護士タルディーニの意向で建設された。タルディーニは、1920年から1923年までクラブの会長を務めた。それまでクラブには固定されたホームグラウンドがなかったため、タルディーニは1922年2月に新スタジアムの設計コンペを全国的に開催したという。
 

 さらにスタジアムの資金を集めるため、タルディーニは自分の持っていた土地を市に売却。最初のふたつのプロジェクトは検討されたものの採用されず、最終的にフランスやドイツのスタジアム、特にフランスのリヨンにあるスタッド・ジェルランから影響を受けつつ、パルマの歴史を称えるデザインで落ち着いた。
 
 1922年12月、スタジアムの建設に着工したが、タルディーニは落成前の1923年8月16日に亡くなってしまった。当初は市営(municipal)だったため、スタディオ・ムニチパーレ(Stadio Municipale)という名になる予定だったが、1924年に完成した建設工事の最後に、結局、彼の名前が付けられた。現在でも見られる、アールヌーヴォー様式の正門は当時からあったという。ただファシズム政権の時代には、ポリスポルティーボ・ワルテル・ブランキ(Polisportivo Walter Branchi)という別の名前が冠されていた。
 
 中心部から徒歩で30分ほどの街中にあるスタジアムは、昨年誕生100周年を迎え、1990年代初頭まで大きなスポーツ大会が開催されていなかったため、大規模な改修は必要なかった。だが、1990年、パルマは歴史上初めてセリエAに昇格したことで大きな影響を受けることになった。
 
 それまでのスタジアムは13,500人ほどしか収容できなかったが、セリエAのリーグ規定で最低30,000人を収容しなければならなくなった。最初は代替施設を考えて、市外のバガンゾーラに新しいスタジアムを建設しようとしたが、この案は棚上げされ、1991年5月に、市営の「エンニオ・タルディーニ」の改修が決定した。
 
 1991−92シーズンのコッパ・イタリアでパルマが優勝した後に北ゴール裏が、翌年には南ゴール裏が改修され、スタジアムのレイアウトは「楕円形」から「正方形」へと変貌を遂げた。

 1990年代の工事終了時、スタジアムの総面積は36,725m?、高さは14m、競技場の面積は105m×68mであり、この寸法は当時から今も変わっていない。1997年の夏には29,200の座席があったが、クラブカラーである黄色と青の新たな座席が設置された。

 2017年2月4日からは元会長の名を冠した「エルネスト・チェレシーニ・パルマ博物館」が併設され、クラブの歴史にまつわる数々の記念品が展示されることになった。そして2018年夏、パルマが3年ぶりにセリエAに復帰したことを踏まえ、ピッチは全面改修され、スタンドの全エリアにスタンダードシートが設置された。さらに2019年、パルマ市と合意に達し、屋根の追加と東スタンドの全面改装が行なわれた。
 
 ただ昨年、クラブは市にスタジアムの大規模な改築案を提出しており、昨年建設から100年目を迎えた、パルマの栄枯盛衰を見つめ続けたスタジアムは解体され、新たな「スタディオ・エンニオ・タルディーニ」に生まれ変わる予定だ。