ひとりの人類学者の登場ですべてが変わった…20世紀の学問史を塗り替えた男が発明した「とっておきの調査手法」

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「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。

※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。

本当のことが知りたかった男

どのような分野であれ、人は何かを知りたいと思ったとき、まずはこれまで先人たちが残してきた書物を探します。そして目的のことが書かれている本や文献、資料にあたれば、たいていのことはイメージが掴めるでしょう。

しかし、それで本当に知りたいことの「すべて」が理解できるわけではありません。遠く離れた場所に住む人たちのことは、本だけでは分かりません。どうしても理解できない部分がモヤモヤと残ります。それならば実際に現地に行って、見てみることで、謎は解決に向かうはずです。

そのことを人類学の中で突き詰めた人がいます。ポーランド生まれのブロニスワフ・マリノフスキです。彼はフィールドに出かけて長期間にわたって現地に住み込み、その土地の言語を身につけて調査を進めました。

マリノフスキは1884年、ポーランド南部の古都クラクフに生まれました。父は著名なスラブ語学者でしたがマリノフスキが幼い頃に亡くなり、彼は母子家庭で育ちました。若くして父を失ったマリノフスキですが、仲間たちと詩や論文を読み耽り、19世紀末のヨーロッパの文芸思想に親しむ少年時代を過ごします。

クラクフにあるヤギェウォ大学に入学したマリノフスキは、最初、物理学と数学を専攻しました。その後、次第に哲学に関心を移し、『思想の経済性についての考察』という題の卒業論文を書き上げます。そうして哲学を研究する中でフレイザーの『金枝篇』を読む機会を得て、人類学に惹かれていったのです。

マリノフスキは、ドイツのライプツィヒ大学で民族学者カール・ブリュッヘルと民族心理学者ヴィルヘルム・ヴントのもとで学んだ時期がありました。ヴントは、その頃広がっていた、文化を進化論的に見る考え方に対して批判的な姿勢をとっていました。個人の意識や心理の発達を、言語や神話、慣習などの社会の諸要素との関係の中で捉えようとしたのです。それはデュルケームの「集合表象」にも近い考え方でした。

1910年にイギリスに渡ったマリノフスキは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの大学院に入学します。そこで彼は、ニューギニアでの調査を終えて『英領ニューギニアのメラネシア人』を出版したばかりのチャールズ・ガブリエル・セリグマンと、幼少期にともに育った男女同士は性感情を持たなくなるという「ウェスターマーク効果」の提唱者であるエドワード・ウェスターマークから学びました。

思いがけないことが起きた

マリノフスキはウェスターマークのもとで『オーストラリア先住民の家族』という論文を書き、科学博士号を取得しています。しかしマリノフスキはこの頃から、文献だけに依拠する研究には限界があると感じるようになりました。文献でしか知らないオーストラリアの先住民に実際に会って、自身の目でその暮らしを確かめてみたいと思い、奨学金を願い出て、それが認められます。

ところがマリノフスキがオーストラリアに渡っているちょうどその時に、第一次世界大戦が勃発します。オーストリア国籍で、敵国人でもあったマリノフスキは収容される恐れがありました。そうなると研究どころではありません。ですが、彼はオーストラリア政府から保護観察処分とされます。さらに彼が望むのならば南西太平洋地域での現地調査をしてもいいとの許可を与えられ、その上資金提供まで受け取るという幸運に恵まれたのです。マリノフスキの思いがけない僥倖によって、結果として人類学が大きく進展することになりました。そう考えると、研究者の個人的事情と時代背景、学問の発展との関係は、本当に不思議なものです。

さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。

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