1966年の静岡県一家4人殺害事件で死刑が確定した袴田巖さんの再審=やり直しの裁判で、静岡地裁が無罪を言い渡したことを受け、検察側が控訴しない方針を固めたことが報じられた。

【画像】約半世紀にわたり拘置された、当時の袴田巌さん。元ボクサーだった

 9月に下された再審判決では、有罪の決め手とされてきた「自白」の調書や犯行着衣とされた「5点の衣類」など3つの証拠を、捜査機関による「捏造」と指摘されている。

 事件発生から約60年。その間、袴田さんの身に何が起こったのかーー。刑務官としても関わり、長年支援を続けてきた坂本敏夫氏のインタビュー記事を再公開する。(初出:文春オンライン2021年12月12日配信。年齢・肩書等は公開当時のまま)

「これ以上袴田さんの拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」

 1966年に静岡県で起きた「袴田事件」。袴田巌元被告は公判で無罪を主張したが、静岡地裁は68年に死刑を言い渡し、80年に確定。ところが2014年になって、静岡地裁は3月27日に再審開始を認める異例の決定を下した。それに際して、村山浩昭裁判長が述べたのが、冒頭の言葉である。

 村山裁判長は、「(有罪の最有力証拠とされた物品は)捏造されたものであるとの疑問は拭えない」「捜査機関により捏造された疑いのある重要な証拠によって有罪とされ、きわめて長期間死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた」と強く批判。問題の根深さを指摘した。

 一体、袴田事件とは何だったのか。元刑務官で実際に袴田氏とも関わり、長年支援を続けてきた坂本敏夫氏に、ノンフィクション作家の木村元彦氏が迫った――。

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 坂本敏夫が袴田巌に初めて会ったのは1980年の7月であった。

 当時、坂本は刑務官の現場を離れ、法務省の官房会計課矯正予算係事務官として、毎年7月に入ると、大蔵省(現財務省)に提出する概算要求書を作る仕事のために東京拘置所にひと月もの間、泊まり込んでいた。

 要は全国の刑務所の予算取りをするための書類の作成で、要求する金額の根拠となるものを提示するために多くの関係者にヒアリングする必要があった。その中で最も心労に負担が重なったのが、死刑関係者の面接であった。


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 死刑執行に従事した拘置所職員、死刑確定囚、そして死刑判決を受けて上告中の被告人、これらの人々に会って意識や意見を聞き込み、執行者などの処遇をどう改善すべきか、予算要求に向けてまとめるのである。

「殺人や極刑、つまりは死にまつわる話ですから、調査すること自体、辛いんです。人を殺したとされる死刑確定囚とたった2人きりで向かい合って話を訊くという作業も精神的にしんどかったですよ。偏見ではなく、怖いし、嘘もつかれます。コミュニケーションの取りづらい人も多い。こちらに対しての剥き出しの敵意もある」(坂本氏・以下、注記を除き同)

異彩なオーラを放つ人物・袴田巌

 ところが、まったく異彩なオーラを放つ人物に出遭った。

「そんな中でひとりぽつんとまったく異なる性格や振る舞いの人がいるとすぐに分かります。袴田さんに会って、ああ、この人は絶対に殺っていないと思った。それは長年、看守をやった経験からたくさんの殺人犯に会って来ましたから、確信に近いものでした。殺っていない人が殺ったことにされて酷い目に遭っているというのは想像を絶する苦しみだと思うのです。それでもあの人は毅然としていた」

10年以上“電化製品とは無縁の生活”を強いられていた

 袴田は、1966年に静岡県清水市(当時)の味噌製造業「こがね味噌」の専務一家4人に対する強盗殺人・放火の罪で逮捕され、取り調べでは“自供”。一方で、「壮絶な拷問を受けて自白を強要されていた」と証言し、裁判では一貫して否認を続けた。

 その後、静岡地裁は死刑を宣告(1968年)、控訴した東京高裁もこれを棄却(1976年)した。坂本が書類作成のためにヒアリングを申し込んだのは最高裁に上告していたときであった。30歳で逮捕されていた袴田は獄中で14年を過ごし、すでに44歳になっていた。

「収容されていた北舎2階の独居房から、面接用の会議室に連れて来られた袴田さんは、元ボクサーだけあって精悍な顔つきでした。

 印象的だったのは、真夏だったので主任が気を利かしてエアコンをつけてくれた際、袴田さんが驚いていたこと。袴田さんはそれまでクーラーを体験したことがなかったのです。拘置されたのが、1966年だから、冷房器具は扇風機があればまだ良いという時代。それ以来、電化製品とは無縁の生活を強いられて来たのです。

 私は予算書作成のために『14年の拘置所生活の中で困ったことや要望を教えて下さい』と伝えました」

拘置所に「存在しなかった」“本来は奨励されるべきもの”

 袴田から返って来た言葉に坂本は言葉を失った。

「開口一番、『拘置所の蔵書に法律書を入れていただけませんか』と言われたのです。『自分の冤罪を晴らすために今、一生懸命勉強をしていますが、もっともっと学びたいのです。しかし、拘置所には法律の専門書が無いのですね。買えれば良いのですが、私が手にするのは、無罪を信じて飲まず食わずで差し入れをしてくれている兄と姉のお金なのです。申し訳なくてとても使えないのです』と。上申書を書くための難しい言葉も覚えたそうです。

 本来であれば法治国家の日本で法の学習は獄の中でも更生のために奨励されるべきです。しかし、拘置所は法律書の貸与をほとんどしないのです。なぜならば、拘置所では所長をはじめとする幹部職員は冤罪など絶対に無いと盲信しているから。愚かなことです。

 だから被告人に法律など学ばれては困るのです。毒にも薬にもならない娯楽本しか置いていない。しかし、こんな大切な処遇についてずっと手つかずに来た。それを突きつけられた気がしました」

「冤罪など存在しない」と信じる管理職たち

 冤罪など存在しないという決めつけは、被告人の苦しさを知らずに2、3年で転勤を重ねる管理職ほど頑迷固陋に持つという。しかし、「こがね味噌」専務一家強盗殺人放火事件の裁判をつぶさに検証すれば、捜査を行った清水警察署が当初より、袴田を犯人とするシナリオを描いてその通りに仕立て上げていったことは容易に推察できたと坂本氏は指摘する。

 ここで事件と警察・検察が行ったとされるねつ造疑惑についてさらってみる。

 事件が起きた1966年6月30日、犯行時間は午前2時頃とされているが、焼け跡で発見された被害者の4つの遺体はそれぞれ普段着のまま倒れており、シャープペンや腕時計を身につけていた。夕刻から就寝までの時間帯に殺害されて、深夜になって家に火が放たれたと考えるのが自然である。

 当時「こがね味噌」の従業員だったこの日の袴田の行動は、夕食後に職場の同僚と将棋を指しており、午後11時に床に就いていることが確認されている。就寝前の犯行だとすれば、アリバイが完璧に成立してしまう。

 これに対し、清水警察は犯行推定時刻を午前2時から未明であるとして、体力のある元ボクサーHが捜査線上に浮かんで来たと発表。その4日後には、今度は「血のりがついていた袴田巌のパジャマを発見した」と発表した(しかし、実際にパジャマに付着していたのは血のりどころか、鑑定すら出来ない微量の血液だったことが後に判明する)。

 任意同行を求められ、そのまま拘禁された袴田はほぼ2カ月に渡り、連日12時間から13時間に渡る過酷な取り調べの末、犯行を“自白”する。しかし、袴田は審理が進めば、真実が必ず証明されると信じていたという。事実、小さな擦り傷の血が滲んだようなパジャマだけでは、証拠が脆弱で公判維持が困難と思われた。

警察側の「自己矛盾する新証拠」

 ところが、警察側は逮捕から1年余りが経過した1967年8月に突然、味噌の醸造タンクの中から発見されたとして、麻袋に入った5つの衣類を新たな証拠として提出。衣類には鮮やかな血痕が付いており、袴田がこれを犯行後にタンクに隠していたというのである。

 しかし、検察は冒頭陳述で、「犯行時の着衣はパジャマである」という起訴事実を述べており、自らの前言と矛盾することになる。そもそも前年に味噌タンクは、捜査本部によって散々調べられていたが、何も出て来ていなかった。

 後の鑑定では、衣服に付いた血痕は味噌に1年も漬けられていれば、赤みが消えることが証明され、DNA鑑定でも衣類の血痕と被害者のそれは一致しないという結果が出されている。つまりはパジャマの血液では証拠が弱いと考えた捜査機関によるねつ造が疑われて、後の再審の決定に結び付くわけである。

 しかし、当時の静岡地裁はこの警察からの「新証拠」を認めて死刑判決を下したのだった。

「苦しんでいる被告や死刑囚がいるので診てやって欲しい」

 坂本は言った。

「人を疑うことの無い真っすぐな袴田さんは5つの衣類が自分の逮捕後に出て来たことで、逆に無実が証明されると思っていたのです。当然でしょう。何も身に覚えが無いし、物証が出て来たのなら、真犯人がこれで警察に捕まるだろうと。

 しかし、そうはならなかった。彼は地裁で裏切られ、高裁でも裏切られた。私と面接で出逢ったのは、最高裁に上告しているときでした。それでも『最高裁だからもっと頭のいい人がいます。僕はこの国の正義の最後の砦である最高裁判所を信じています。何も恐れていません。今、恐れているのは、僕を犯人にでっち上げた警察ですよ』と揺るぎの無い信頼を寄せていました。

 私は書類作成のために処遇についても聞きました。すると冷房が無いためにご自身が酷いあせもに苦しんでいることが分かりました。それについて私から医療の改善を約束したら、『では、私だけに特定せずにあせもで苦しんでいる被告や死刑囚がいるので診てやって欲しいと伝えて下さい』と言うんです。

 袴田さんは無理な要求は絶対にしてこない。本当に困っている人の事をいつも考えている、そんな人物がお世話になった一家4人を殺すとは到底考えられませんでした」

「死刑確定」と「発した言葉」

 しかし、袴田が「最高裁を信頼しています」と坂本に告げた4ヵ月後の1980年11月19日。その日本司法の最高機関は上告を棄却した。これで袴田は死刑確定囚になってしまった。「あれだけ信じていた最高裁にも裏切られた事でどれだけ心を傷つけられたことか、私は棄却の報を聞いて憤怒に駆られました。そしてひとつのことを実行しようと思ったのです」

 翌年の1981年7月、恒例の概算要求書類の作成のために東京拘置所で泊まり込んでいた坂本は袴田と2度目の面接を行った。

 坂本は完全に袴田は冤罪であると確信していたという。法務省の事務官という自身の地位を守るために誰にも口外していなかったが、もう予算書類作成のことなど考えていなかった。1冊の雑誌を渡すために袴田に面会を申し入れたのである。

 それは前年12月に再審が決定した免田栄死刑確定囚の冤罪事件を特集した雑誌だった。法律書ではないが、免田が再審を勝ち取った記録を袴田にぜひとも読んでもらいたく、差し入れを決意したのだ。坂本はどんな声をかければ良いのかと迷っていたが、現れた袴田死刑確定囚は想像以上に毅然としていた。凛とした口調でこう言った。

「事務官、また面接に呼んで頂いてありがとうございます。自分はこんなことでへこたれませんから大丈夫です」

「看守はすべてを分かっているようだった」

 袴田は諦めていなかった。自身の再審請求をこの年の4月に行っていた。坂本は雑誌を渡しながら、免田栄について説明をした。

 1948年に熊本県人吉市で起きた殺人事件の犯人とされた免田は死刑を宣告されるも獄中で自ら六法全書を読み込んで闘い続けていた。係争していく中で警察がアリバイを証言する人物を免田に不利になるように誘導したり、証拠を隠蔽していた事実も明るみになった。

「私が読みましょうか?と伝えると、『事務官お願いします、ありがとうございます』と快活に言われました。警察が免田さんを犯人と決めつけて証拠を隠していた箇所になると袴田さんの顔が歪みました。自分に対する清水署のふるまいを思い出したのでしょう。私は担当の刑務官に自分が泊まり込んでいる間はこの雑誌を袴田さんに貸与して欲しいと頼みました」

 坂本は、保安課長には伝達済みであるからと伝えた。とっさに出た嘘であった。しかし、じっと見ていた刑務官はそれが虚偽であることが分かっていながら、裏表紙に許可を証明する自身の捺印をしたメモを貼ってくれた。袴田の普段からの行状を知っている看守はすべてを分かっているようだった。坂本は黙って目礼で返した。「ふと見ると袴田さんもまた担当に頭を下げていました」。

《袴田巌さん無罪確定へ》14時間の拘束、捜査官の見ている前で糞尿まみれに…「袴田事件」と“あの日、清水署の取り調べでおこったこと”〉へ続く

(木村 元彦)